09


電車の中はたった十分くらいの時間だったのに、とても長く感じられた。普段から口数の多くない信ちゃんだけど、なんだか重苦しい空気を纏っているような気がしたからだ。
それに私も心の中にもやもやした気持ち悪い罪悪感があって、どうすれば解決するのか分からなかった。私は単純にクラスメートと放課後に遊んでいた、それだけなのに。

やがて駅に到着し、私達は互いに何も言わず電車を降りた。
使い慣れた駅なので、ホームから改札まで真っすぐに向かう。通学定期を通して改札を抜け、駅を出てからは左に真っすぐ。景色だけはいつもどおりの帰り道だ。


「……日、長くなってきたなあ」


この無言が苦しくて苦しくて、とにかく何か話を振ろうと、出てきた言葉はこれだった。
制服は夏服になったばかりで、間もなく五月が終わろうかというところ。ついこの間までこの時間はもう暗くなっていたのに、今はまだ夕日で照らされている。だから私の言った言葉は間違いじゃないし、特に変な内容でも無い。けれど信ちゃんはなかなか返事をしてくれなくて、私が独り言を言ってるみたいになってしまった。


「稲荷崎って、夏服も可愛えよな」


沈黙に耐えられずもう一度。
数日前に初めて袖を通した稲荷崎高校の夏服は、結構私の好みだった。信ちゃんが夏服姿の私に興味があるとは思えなかったけど、少しでも私を見て「そうか?俺はよう分からん」とか、言ってくれるかと思ったのだ。


「せやな」


けれど信ちゃんは前を見据えたままで、もしかしたら話の内容なんて脳に到達していないのではと思うほど。
その姿は私の知らない信ちゃんであった。怒っている時に似ているけど、少し違う。私を怒る時、叱る時の彼はもっとよく喋る。
ひとつだけ分かるのは、今の私たちの空気は決して良いとは言えない事だ。だから私はあれこれと話を振った。こんな状態で家まで歩くなんて嫌だったから。


「…なあ、夏って練習大変なんちゃう?体育館ってクーラー無いやろ」
「無いな」
「真夏でも外走ったりすんの?」
「ああ」
「それってめっちゃ大変なんちゃう、倒れる人とか出てしまいそう」
「やな」
「信ちゃんも気を付けんと脱水症状なったりとか…」


と、そこまで言って話すのをやめた。信ちゃんの足がぴたりと止まったからだ。やっと何か反応をくれるのかと顔を上げたけど、信ちゃんは地面を睨んだまま。


「ちょっと黙っといてくれるか」


そして、冷たい声で言ったのだ。彼の半径一キロは凍り付くのではと思わされる声で。


「………え…」


もちろんすぐ隣に居た私は凍り付いた。だって、少なくとも今日は信ちゃんの気分を害する事なんて発言した記憶が無い。けれども私に「黙れ」と言うって事は、私が何か気に障る事を言ったのかもしれない。


「…ごめん」


原因は分からないけれど、反射的に謝った。信ちゃんはまだ私を見ようとはしない。が、大きく息を吐いて再び歩き始めた。

信ちゃんだけが先に歩いてしまい、私はちょっと怖くなって信ちゃんの後ろを歩く事にした。信ちゃんの目に入らない場所で、何故この人はこんなにも機嫌を損ねているのか探ろうと思った。私の何かが原因だ。私の起こした行動の何か。私の発した言葉の何かが。


「…お前、今日何しててん」


振り返る事無く信ちゃんが言った。
今日何しててん、なんて過去に何十回・何百回も言われた事がある。けど今日のこれは単純に質問されているのではなく、ちくちくと私を責めているように聞こえた。私、何も悪い事はしていないはずなのに。
だから私もちょっとカチンと来てしまい、素直に答えてやるもんかと臨戦態勢に入った。


「なにって別に…なんも」
「嘘つくな」
「嘘ちゃうし」
「ほんならさっきの奴、誰やねん」


また、カチン。
カチンどころか、筋が一本切れそうになった。どうしてこんな言われ方をしなければならないのか。クラスメートと放課後を共にするのがそんなにおかしいか。信ちゃんだって佐々木先輩と仲良くしてたくせに。


「……何なんさっきから」
「あ?」
「何やねん、さっきから!」


とうとう私は信ちゃんの背中に怒鳴りつけた。
すると信ちゃんは立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返る。物凄く恐ろしい剣幕で。けれど今は、それに怯むような私では無い。むしろ火が点いた。何やその顔、誰に向かってそんな顔しとんねん。


「なに怒っとんの?私なんか悪い事した?めっちゃ気ィ悪いねんけど」
「怒ってへん」
「怒ってるやんか!」
「敢えて言うならお前がこんな時間までヘラヘラ歩き回っとんのに腹立ってるわ」
「は!?…な…っ」


頭から蒸気が出そうなくらい怒り狂おうとしていたのに、一瞬だけ冷えた。
こんな時間までって、自分だって同じ時間に出歩いてるのに。私はヘラヘラしていたつもりなんか無いのに。むしろモヤモヤしていた。何も考えずに小野くんと会ってたわけじゃない。


「……なんやねんそれ…べつに…ヘラヘラなんかしてへん」
「してるやろ。俺ん事断ってまであいつと一緒に居たかったんか?」


冷えていた頭にまた血が昇ったのは一瞬の事で、私はぎゅっと拳を握り締めた。ぎちぎちと、手が壊れそうになるくらい強く。その力とは反対にお腹に力が入らなくて、震える声で言った。


「……あほ」


私の声はかすれていて、もしかしたら信ちゃんに届いていないかも知れないと思った。でも信ちゃんが眉間のしわを深めたから、聞こえたのだと思う。もうどうにでもなればいい。こんな気持ちは初めてだ。どうやっても鎮められる気がしなくて、でもどうにかこの苦しさを逃がしたくて、私は思い切り声に乗せた。


「信ちゃんのアホ!!」
「って」


同時に両手で信ちゃんを突き飛ばし、さすがに不意を突かれた信ちゃんが態勢を崩した。そして当然ながら私の罵声と乱暴に対して怒りを募らせている、私やって怒ってるねんけど。


「…何してくれんねんお前、」
「何してくれんねんはこっちの台詞や!あんたが言うたんやろ!?そろそろ彼氏でも作れって!せやから言う通りにしよ思たんやんか!何でそんな言われ方しなアカンねん!ワッケ分からんわ!」


道行く人がドン引きした様子で私を見てる。ネジの抜けたアホな女子高生が、真面目な男子高校生に言い掛かりを付けているように見えるだろう。私は既に加減が分からなくなって信ちゃんにずんずん近づき、胸ぐらを掴んでコンクリートの壁に押し付けていたのだから。そして信ちゃんはそんな私の手を掴み、力任せに振り払う…かと思っていた。


「……俺が?」


けれど、信ちゃんはポツリと言っただけで動かない。私にされるがまま壁際に押さえ付けられていた。まだ「何やとこの野郎」とでも言い返してくれれば良かったのに、信ちゃんの顔はみるみるうちに勢いを失っていく。
お陰で私も怒りのボルテージを保つ事が出来なくなって、今度はもう一つの感情が溢れ始めた。


「やから…私…もう……信ちゃんに、あんま世話ならんようにしよーと、」


意識しないのに、ぼろぼろと何かが零れててきた。今まで簡単に泣くような人間じゃなかった筈が、最近泣いてばっかりだ。原因は全部信ちゃんの事。


「…彼氏ができたら、信ちゃんから離れられるって思って」


目頭からも目尻からも関係なく涙が溢れ、止めるすべは無い。周りの目をはばからずに大泣きし出す私を見て、信ちゃんは言葉を失っていた。私に引いてるのか、それとも何か思うところがあるのかは分からないけど。


「……ほんまは、彼氏なんか要らんもん。小野くんとやって別に、遊びとうて遊んでたんちゃうもん」


小野くんの事が嫌いなわけでも、特別好きなわけでも無い。もしかしたら好きになれるのかな、程度の事だ。相手が小野くんである必要は無い。友達としては素敵な人だと思うけど。無理やりにでも「そういう対象」として見るように意識しなければならなかった。理由はたったひとつ。


「幼馴染離れしななって思ってんもん!」


そこまで言って、私の手は信ちゃんの胸元を離れずるずると落ちた。
それ以上は何も言えなかった。信ちゃんから離れようとする事は寂しさとか辛さもあったけど、褒められる事だと思っていたのに。私はどうするのが正解なのか分からなくて。
ただ言えるのは、信ちゃんと幼馴染の関係を辞めるにしても、嫌われるのは絶対に嫌だって事。だから、怒らせようなんて思ってもいなかったって事。


「幼馴染離れ……?」


信ちゃんはとても驚いた様子で言った。私の口からそんな言葉が出るなんて思ってもいなかったのだろう。


「どこにそんな必要あんねん」
「やって…やって、彼氏作れって」


彼氏を作るイコール幼馴染離れ、ではないかも知れないが。私にとっては同じ事だった。
だから、信ちゃんの言う通りに動こうとしていたのにキツイ態度を取られる意味が分からなかった。


「……確かに言うたな」
「せやろ!」
「あん時はほんまにそう思ってん。お前には俺以外に誰かおったほうがええんちゃうかって」


信ちゃんはポケットに手を入れて、中からハンカチを取り出した。いつも持ち歩いているのだ。それをぐしゃぐしゃになった私の顔に当てて、私の手を取り自分で持つように促した。
その手付きから久しぶりに信ちゃんの優しさを直接感じて、また別の意味で涙が出そうになる。


「俺の言葉がすみれを振り回してたんやな」


涙を拭く私を見下ろしながら、信ちゃんがしみじみと言った。振り回されていた感覚が無いとは言い切れず、私は無言で信ちゃんのハンカチを濡らしていく。


「……あれから考えてん。すみれの事」
「…私の事?」
「お前がいつの間にか、色々考えて動けるような人間になっとった事とか」


それを聞いて、ハンカチで覆っていた両目を少しだけ覗かせた。
信ちゃんはこの間、私が佐々木先輩との仲を勘違いしていた時に、私が自分を制御して行動を制限していた事に感心していた。その事が今も話に出てくるほど、驚きだったのだろうか。


「もう子どもや無いんやなって事とか」


子どもじゃない。大人でもないけど、子どもじゃない。私は色々考えている。信ちゃんが思うよりもずっと沢山の事を。


「…当たり前やん。私もう高校生やで」
「そうやな」


四月からもう何度言ったか分からない台詞に、初めて信ちゃんが笑った。今までは呆れたように返されるだけだったけど、そうやな、と初めて肯定したのだ。


「俺も高校生としてお前に言う。幼馴染としてやなく」


それだけでなく、信ちゃんは何か大事な事を言おうとしていた。そう感じたのはさっきのように真っ直ぐに、けれどさっきよりも真剣に、私の姿を見下ろしていたから。
一体どうしたのだろうと信ちゃんを見ると、いつにも増して大きく見える彼の目があった。そこに私の姿が映っている事まで分かるくらい。


「………し…信ちゃ、?」


どうしたん?と聞こうとした時、信ちゃんが口を開いた。
本能的に「聞き逃してはならない」と感じた私は口を噤んで待った、これから聞こえてくる言葉を。けれど無事に聞き取れたところで、ちゃんと返事が出来るかどうかは別の問題なのであった。


「俺たぶん、お前が好きなんやわ」


瞬きもせずに言う信ちゃんの目にはまだ、口を開けたままの私の姿がくっきりと映っていた。

ガッチガチの本音