01
イロニーブルーの哲学


あれはたぶん監督がいつになく怒鳴っていたから、インターハイの本戦を迎える直前の事だったと思う。

校舎に堂々と吊るされた横断幕には白鳥沢学園バレーボール部のインターハイ出場を祝う文字が書かれていた。炎天下のロードワークから戻って来る時にそれを見ると、疲れた身体が少し癒えるような気がしていたのだ。期待されるのは気持ちが良い。やってやろうって気になるし、今まで出来なかった事がちょっと上手くなったんじゃないか、なんて感じる事もある。

そんな都合のいい思考の持ち主である俺は、正反対の性格のやつとはあまり会話をする事が無い。静かな空気は苦手なのと、そもそもそういうやつらは俺みたいなのと一緒に居るのが苦痛なんじゃないかと思うからだ。


「おえぇっ」
「おいおい大丈夫か」


話しは戻って夏休みの練習中、ついに吐き出してしまったのは一年生の五色工だった。
最初から上級生と同じ練習をこなして大丈夫なのかとは思いつつも、本人が「やる」と言うので何も言わなかったけど(監督も反対していなかったから、五色の活躍を期待していたのだろうとは思う)。やっぱりこの気温と湿度の中では辛かったらしい。


「…ずびばぜん」
「いいから座ってろって」
「ずびばぜん、うっ」


まだまだ気持ちが悪そうな五色の背中を軽く叩いて、二年半同じような練習に揉まれた同級生の元へ歩く。そこでは五色を心配そうに眺める瀬見英太、少しくらいイジっても良いかなと様子を伺う天童覚が居た。


「あいつ大丈夫か?」
「たぶん」
「そっか…オイちょっかい出すなよ天童」
「え〜何でちょっかい出す前に言うの?」
「出すなっつうの!」


英太が天童の暴走を止める役割になったのはいつからだったかな、ひとまずダウンしている五色のところへ行くのを止めさせるのは成功したらしい。ぶうたれる天童の背中を押して英太は五色から離れていった。
俺もそれに続こうかと足を踏み出した時だ。また誰かの苦しそうな声が聞こえてきたのは。


「うえぇっ」
「!?」


尋常じゃない事が起きているなと思った理由は、その声が男子バレー部の誰かではなく女子の声だったから。夏休みに練習しているのは俺たちだけじゃないが、女子の運動部まで吐くほどのトレーニングをしているのだろうか?


「だいじょ…」


声のした方向へ駆け寄っていくと、そばにいく前に足が止まった。炎天下の練習に慣れない下級生などではなく、三年生で同じクラスの女子だったのだ。


「…白石?」
「あ、や…山形くん」


白石は青白い顔を上げて、俺を見つけると弱々しく笑った。
こいつは何部だったか全然覚えていないが、見たところ体育会系とは程遠い身体付きだ。身につけているのもロードワーク等に適したものとは思えないけれど、確かに身体中に汗をかいていた。


「何してんだよ。運動部だったっけ?」
「ち…違…げほっ」
「うお」


まだ息が上がっている様子の白石は、まともに喋るのが難しいようだ。ぜえぜえ言いながら呼吸を整えて、やっと質問に答えてくれた。


「は…走ってた…体力、づくりで」
「走ってたってお前、水も持たずに」
「今日が、はじめてで」


恐らく走る前に身体を暖めたりとか、ペース配分やコースを考えずに適当に走ったのではないかと思える。いきなりコンクリートの道を走ると脚に悪いし、ハイペースで頑張り過ぎても良くないし、水分補給が必要である事も頭に無さそうだ。
五色やその他の後輩に渡す予定だったボトルがちょうど一本余っていたので、それを白石に差し出した。


「これ飲むか?たぶん清潔」
「え、いや」
「嫌じゃねー、飲めって事」


あんまりクラスメートのこういう所は見たくないし、白石だって男の俺にこんな姿を見られるのは不本意だと思う。ボトルを顔の前まで持っていくと白石は素直に受け取って、蓋を外してぐびっと飲み始めた。


「……はあぁ…ありがとう」
「んー」
「…あついね」


そう言って、さらにもう一口。確かに今日はとても暑い。それに今は真っ昼間で太陽は高く登っている。初心者が初めてのランニングをするにはあまり良い環境とは言えないが、何故こんな時に走っていたのか。


「体力づくりって何?趣味?」
「え、あー…じゃなくて…わたし演劇部で、それで」
「ああ」


それでなんとなく合点がいった。一時間、あるいは二時間ずっと舞台に立ち続けるには体力が要りそうだ。ずっと声を張り続けなきゃならないし、覚えた台詞を間違えないように言うのは頭も使いそうだ。


「アレだもんな、でっかい声出すから筋トレとか要るんだろ」
「う…うん。」


と、控えめに頷く白石の姿からは大きな声を出すイメージが全く浮かばない。そう言えば演劇部だと言うけれど、学内で発表された演目に出ていた事があっただろうか。舞台上に立つ白石を見た記憶は無いように思うのだが。


「白石って何か出た事あったっけ?」


再び水を飲む白石に聞いてみると、飲むのをやめて俯いてしまった。


「……わたしは、ずっと裏方なので…」
「なんで敬語になる」
「ご、ごめん」
「今まで一回も出てなかった?あんまり覚えてねえけど」


高校一年から今までずっと演劇部に属してきてまさかそんな事は無いだろう。そう思って聞いたのだが、白石は声もなく頷いた。マジですか。


「…緊張するの。人の前に立つと…声もでなくて、ぜんぶ飛んじゃうの」
「まじかよ。演劇部向いてねえじゃん」
「……だよね…」


そして今度は自嘲してみせた。人前に立つのが緊張するのに何で演劇部に入ったんだろうか。裏方の仕事をやりたかったから?でも、それならわざわざ白石が走って体力をつける必要は無いと思う。それに高校三年になって今更体力がついたところで、白鳥沢で舞台に出られる事なんてあるのか。


「けどもう、演劇部で劇やる機会なんか無いんじゃね?」
「…学園祭が、一応」
「おお。そういやそうだ」


毎年十一月中頃に行われる学園祭。演劇部と、クラスごとの出し物で何クラスかは必ず劇をする事になっているのだった。


「じゃあそれに出るわけ?」
「……わかんない…」
「出たいわけ?」
「………」
「おーい」
「はっ、はい、うん」


白石は慌てて返事をしていたが、出たいかどうか分からないと言うより「自分が出るなんておこがましい」と感じているのではいかと思えた。あがり症なのか何なのか分からないけど、劇をするに当たって声が出せないというのは致命的だろうし。でも吐くほど走るってことはまだ望みを持っていそうだし。


「出たいけど、みんなわたしより上手だし…」
「へー」
「…声が小さいわたしなんて、夢のまた夢というか」
「声は出したらいいだろ?」
「う…うん…」


人前で喋ることなんてたぶん、慣れればどうにかなりそうだ。本当は出たいのだろうがあと数ヶ月のうちに克服できるかは本人次第だろうな、と考えていると体育館の中からホイッスルが聞こえた。練習再開の合図だ。


「やべ。まーよく分かんねえけど頑張れ!水分とれよ」
「ん、うん」


渡していたボトルを預かって、俺は体育館へと戻っていった。
それからも夏休みのあいだ、校庭を走る白石たち演劇部の姿は何度か見かける事があった。白石はだんだん走るスピードに慣れていたような気がするけど、俺も他人のことばかり気にして居られない。そのうち演劇部がどうとか白石が何だという事は頭から消えて、夏の終わりを迎えたのだった。