20180920私みたいな高校生にとっても、恋人の誕生日は特別なイベントだ。
しかも彼はその日が近づくにつれてうきうきソワソワし始めるものだから、祝う側の私も楽しみとともに緊張が高まってくる。恋人である木兎光太郎は「二十日楽しみだな!なあ」と毎日のように言ってきて、そうだね楽しみだね、楽しみにしててねと一カ月前から伝えていた。
それなのに九月二十日、つまり光太郎の誕生日当日の朝、私の気分はとても最悪だった。
「すみれ、行くの?休んだらいいのに」
「………いく…」
よろよろと歩く私を見てお母さんは心配そうだ。それもそのはずで「気分が悪い」というのは精神的なものじゃなく、頭痛と吐き気を伴った体調不良なのだ。
これだけ気持ちが悪いのに熱を測ってみると平熱で、堂々と「風邪です」と休むのも気が引ける。それに何より今日は、私も光太郎も楽しみにしていた日なんだから。
『おはよー!昼休みそっち迎え行く!』
電車に揺られながらスマホを開くと、光太郎が朝一番に送ったと思われるメッセージが来ていた。
昨日の夜、日付が変わった瞬間に「おめでとう」「ありがとう」のやり取りをしたのに、彼はとても朝が強いらしい。今は部活の朝練をしているはずで、私達はクラスが違うから昼休みまで会える機会は無い。あるっちゃあるけど、五分とか十分の短い間じゃなくてゆっくりとお祝いしたいから。
『わかった。待ってるね』
そのように返信してから、私はスマホの画面を消した。電車内で文字を打つと気持ちが悪くて、今にもよろしくない状態になりそうだから。目を閉じて、学校の最寄り駅に着くまでをずっと耐えていた。もちろん、膝の上にはちゃんと光太郎へのプレゼントを抱えて。
◇
…と、ここまでが今朝の出来事だった。なんとか家を出て電車に乗り学校まで着いた私なんだけど、とうとう二限目の途中で倒れてしまい保健室送りになってしまったのだ。
実は学校に着いてからというもの意識が朦朧としていて、ただただ痛みと吐き気に耐える時間が続いていた。だから「気が付いたら保健室だった」という、漫画みたいな事になってしまったのである。
「……何時…」
目が覚めてからすぐにチャイムが鳴った。しかしカーテンで仕切られた保健室のベッドルームからは時計が見えず、いま何時なのか、このチャイムが何を知らせる音なのかが分からないのだった。
きっともう二限目は終わっているだろう。もしかしたら三限目のあいだもずっと寝ていたかもしれない。
「あ、起きた?」
カーテンを開けると保健室の先生が座っていて、椅子をくるりと回してこちらを向いた。
「…いま、何時ですか?」
「昼休憩始まったとこよ」
「ひ…昼!?」
「食欲あるなら食べていいよー」
自分に食欲があるかどうかなんてまだ分からない。そんな事よりもうこんなに時間が進んでいるとは思わなかった。壁にかけられた時計は確かに昼過ぎを指しており、さっきのチャイムで昼休憩が始まった事になる。どれだけ寝てたんだ私。
「先生もちょっとご飯食べてくるから。しんどかったら寝てていいからね」
そう言って先生は、体温計の場所だけ教えてくれてから保健室を出ていった。
「……」
途端に静まり返る保健室。遠くの方で廊下を歩く生徒達の声が聞こえる。昼休みに入ったから、みんな食堂に行ったりクラスを移動したりしているのだ。
私はまだ頭がくらくらするので、ご飯は食べられそうもない。いったんベッドに戻り横になろうとした時、ポケットの中で何かが動いた。
「あ」
スカートのポケットに入れていたスマートフォンが震えているのだ。画面には光太郎の名前と、たった今受信したと思われるメッセージが。
『どこ?』
そこで私は思い出した。今日は光太郎の誕生日で、昼休みに二人でお祝いしようと約束していたのを。そのためにプレゼントを家から持ってきていた事も。
「…どうしよう……」
今日は昼休みになったら私のクラスまで迎えに来る予定だった。このメッセージから予測すると、迎えに来た時に私の姿が無いのを不思議に思ったに違いない。
午前中にふらふらと倒れてずっと寝ていたなんて情けない事、送るべきか送らないべきか。光太郎は私の事を探しているだろうか。
そんな事を考えながらスマホを握りベッドに座っていると、突然保健室のドアが開いた。
「失礼しまーす」
「!!」
とても保健室に入るとは思えないような大きな声で、がらがらとドアを開け閉めしたのは紛れもなく恋人だった。
更に光太郎はカーテンの隙間から覗く私を発見して、ずかずかとベッドのほうへ歩いてきたのだ。
「すみれ!起きて大丈夫か?」
「え…あ…まだ…ていうか、なんでここに」
「お前のクラス行ったら鷲尾が教えてくれた」
「ああ…」
同じクラスの鷲尾くんも一年の時からバレー部で、光太郎とは仲がいい。やはり私のクラスまで来ていたようだ。そして、鷲尾くんが午前中に起きた出来事を伝えてくれたらしい。
光太郎はベッドの横にある椅子に腰掛けながら、特に声量を下げずに言った。
「先生は?」
「いまご飯食べに出てった」
「そっか。腹減ってる?」
「え…うーん…いや、まだちょっとしんどい」
「マジかよ!寝てろよ!ここ使えんの?」
私の座るベッドを指さして言うので、私はコクリと頷いた。まさに今、もう一度寝ようとしていたところだ。
けれど光太郎からメールが来て、こうして保健室まで様子を見に来てくれたのに、私の気持ちは今朝のようにとても最悪。
「…ゴメン。」
私はゆっくりと寝転がってから、ぼそっと謝罪の言葉を述べた。本当はこんなはずじゃ無かったんだもん。
「何が?」
ところが光太郎は不思議がっているようで、椅子をベッドに寄せながら言った。
「だって今日…すごい楽しみにしてたのに、いっしょにお祝いしよって思ってて…、プレゼントとかも…教室にあるし」
あまり舌が回ってなくて、言ってる事がぐちゃぐちゃだ。寝起きだからか、体調不良のせいか。
でもとにかく、今日という日を楽しみにしていた私たちなのに、私のせいで台無しになってしまったのが残念でならない。「何でこんな日に」と責められても文句言えない。でも、光太郎は全く嫌な顔をしなかった。
「そりゃあ俺だって楽しみだったけど、吐きそうになってまで祝えとか思わねえぞ」
「そうじゃなくてっ、私が楽しみにしてたの!プレゼント渡したらどんな顏されるかな、とか…そういうの」
考えたら泣きそうになってきた。練習時間がなかなか削られることのないバレー部との恋は、思っていたより大変だったのだ。
どこかにデートに行くにも、練習の無い日に予定を合わせなくてはならない。そもそも「練習の無い日」が無い。
だからといって練習後に時間を作ろうとしても夜になるから、翌日の朝練に差し支えたり、高校生だから行ける場所も限られてる。その代わり誕生日にはしっかり用意して、光太郎の欲しいものをリサーチして、お菓子を作って手紙を書いて、と時間をかけていたのに。
そう考えたら虚しくなってきて、目に涙が溜まるのを感じた。
「寝てな」
私がテンションがた落ちである事に気付いた彼は、その大きな手で私のおでこをゆっくり撫でた。頭痛がしてるはずなのに頭を触られても嫌じゃないなんて、自分でも不思議に思う。ウン、と頷くと光太郎はもう一度おでこをポンポン優しく叩いた。
「…お昼ご飯、たべた?」
「んー?まだ」
「え、食べなきゃ」
「あとで食うって」
「でも…」
食べなきゃ午後の授業頑張れないよ、部活で疲れるよ、と言おうとしたけど喉がつっかえて、それ以上言えなかった。こんな特別な日にまともな会話も出来なくて、一緒にお昼ご飯を食べる事すら許されないなんて。
「…ごめんね」
「いいっつの!いくら何でもそんなんで機嫌悪くするほど子どもじゃねーし」
「わかってるけど…」
光太郎がそんな事で気分を害する人だとは、もちろん思っていない。周りからは子どもっぽいだのなんだの言われるけれど、れっきとした高校三年生なのだ。
だからこそ普段の言動からは想像もできない優しさとか懐の深さがとても素敵で、それが今日は私の心に強く響くのだった。
「その代わり、治ったら楽しみにしてるから」
と、今度は私の頬をつんと突きながら言った。
「…うん」
「ん。それでいいだろ」
「ウン」
弱っているからか、こういうのがいちいち心に刺さる。首元まで布団をかぶったまま頷くと光太郎はそれで満足したようで、にこりと笑って自らの膝を叩いた。
「じゃあそろそろ行こっかな」
「うん…」
寂しい。行かないでほしい。さっきまで「ご飯を食べにいきなよ」と言っていたはずの私は真逆の事を考えた。このまま昼休みが終わるまで一緒に居てよ、と心の底から思ってしまったのだ。
でも誕生日を台無しにした挙句そんな我儘を言うわけにはいかなくて、光太郎が去るのを寝転んだまま見送る事にした。
しかし何故だか彼は立ち上がろうとせず、ガラガラと椅子ごと頭のほうに寄って来て、なんと仰向けの私に顔を近づけてきた。
「…え、待っ」
「シー」
保健室には誰も居ないのに、声をひそめて唇に人さし指をあてる。そして、私が固まったのを確認するとその手は再び私の額へ。
光太郎の手、あつい。と感じた時には同じくらい熱いものが唇に当たって、小さなリップ音を鳴らしながらゆっくりと離された。体調不良の彼女なんかとキスしていいのだろうか、大事な大事な選手なのに。
「………移るよ」
「風邪?」
「わかんないけど、風邪だったら大変」
「だいじょぶだから」
「?」
「馬鹿は風邪引かないって木葉に言われたもん」
「え……」
それってたぶん悪口だよ、と言おうとしたのも言葉に詰まってしまった。今度は私の都合じゃなくて、光太郎が唇を塞いできたせいなのだが。
「…それ、木葉くんを怒るべきだよ」
「まーな!でもおかげでちゅー出来た」
そう言うと今度こそ立ち上がり、椅子を元の位置に戻すという光太郎らしからぬ配慮まで見せて、カーテンだけは豪快に閉めて出て行った。保健室のドアもがらがらバタンと音をたてて開け閉めしながら。
その音を聞くと彼は紛れもない木兎光太郎なのだと思わされるけど、同時にさっきのキスはまったくの別人みたいに優しかったのが思い出される。今朝は頭痛と吐き気で悩まされていたのに、今私を襲っているのは身体の奥から沸いてくる別のもの。
「……熱も出たかなあ…」
体温計、枕元に置いておけば良かった。けれど今は余韻が消えるのが勿体なくて、このままもうひと眠りしてやろうと目を閉じた。知らないうちに頭の痛みは消えちゃったし、いい夢が見られそうだ。
Happy Birthday 0920