30


一ヶ月に一度の国見先生とのデート。それもお正月が最後であった。
年が明けるとどちらからともなく「やめておこう」という話になり、勉強漬けの冬休みが終わればセンター試験。その後はあっという間に大学の一般入試があり、またあっという間に時は過ぎて運命の日がやって来た。わたしの第一志望である、国見先生の通う大学の合格発表の日だ。


「…なんか震えてきました」


事前に待ち合わせていたわたしたちは、校門の前に立っていた。わたしは昨日なかなか眠れなくて寝不足だし、これまで頑張ってきた結果が今日分かるのかと思うとガチガチに震えている。国見先生はあまり気合いの入った様子はなく、「それって寒さのせい?」と聞き返してきた。


「き…きききんちょうのせい、ですかね?寒いのもあるかもですけど、とにかくてっ手がガクガクしてますほほほほらほら」
「うわ、マジだ」


両手を先生に差し出すと、予想外の震え方だったみたいで笑われた。どれだけリラックスしてるんだこの人は。四月から勉強に付き合ってきた可愛い教え子の生死を分ける日だと言うのに。


「合格発表、親と来なくてよかったの?」


学校の敷地内を歩きながら、先生が言った。
周りには親や一緒に受けた友人らしい人と来ている人が多い。家庭教師と一緒に来る人なんて居るのだろうか。でもわたしは今日、どうしても国見先生と来たかった。


「いいんです。先生と行くって言ったらお母さんも納得してくれたんで」
「へー…娘とどういう仲か知らないのに凄いね」
「先生のこと信用してるって意味ですよ」


お母さんはまだ、わたしたちが付き合っている事を知らない。受験が終わるまでは言うべきではないと、わたしも先生も考えているからだ。
だから今日もお母さんの中では、先生はわたしの引率みたいな感じに思われているだろう。勉強が大嫌いだったわたしの学力を国立大学への合格圏まで上げてくれたのだから、お母さんが先生に寄せる信頼は絶大だ。


「あそこみたいだね」


やがて目の前には人だかりが広がった。
その中心には掲示板があり、合格した受験生の受験番号が張り出されている。前方で早くも結果を知った人たちは喜び、あるいは悔しがり、とてもざわざわとしていた。


「……」


どうしてもそこに加わる勇気が出なくて、わたしはその場で立ち止まった。
もし不合格だったらどうしよう。拭いきれないその可能性がずっと頭の中にあり、今日ここに来るまで何度も足を止めたものだった。
ごくりと息を呑んで気持ちを整え、いざ一歩踏み出そうとするものの、足が重くてなかなか進めない。その時、強く握った拳を温かいものが包み込んだ。


「行くよ」
「え、」


国見先生が手を握り、前へ前へと進み始めたのだ。握りすぎて汗が滲んだわたしの手に、構わず自らの指を絡めてくる。いつもはそれがドキドキして仕方ないのに今日は違う理由で心臓が飛び跳ねた。まだ結果を受け入れる用意が出来てないのだ。


「ち、ちょっと待っ…」
「待たない」
「やだやだやだやだ無理無理無理」
「無理じゃない」


駄々をこねるわたしを無視して、国見先生がすごい力でわたしの手を引っ張った。 わたしは目を閉じたままついて行き、やがて先生が立ち止まったのでわたしも止まる。まだ目は開けられない。だって、目を開けたらそこには結果が出ているんだもん。


「目、あけて」
「あ…あかない…」
「開けろって」


国見先生がわたしの背中を押した。周りからは喜びや悲しみの声が続々と上がっている。ああ、どうしよう。わたしにはどちらの結果が待っているんだろう。


「……」


かなりの時間をかけて、わたしは目を開けた。
ずっと目を閉じていたから視界がぼやけてしまい、数度の瞬きをしてピントを合わせる。やっと見上げたそこには、大きく張り出された掲示板の中にたくさんの数字が並んでおり、自分の受験番号がどのあたりに書かれているのか探すのも苦労した。息をするのも忘れて目線を上下左右に動かし、ある場所で止まった。


「…あ……?」


国見先生もわたしと同じくらいに声に出した、ような気がする。わたしの受験番号と似た数字列がそこにあるのだ。
上から下まで必死に必死に数字を追いかけ、自分の受験票に書いてあるものと一致するかどうかを確認していく。無かったらどうしよう。そんな恐怖もあったけど、もう今は「どこにあるだろう」に変わっていた。そしてある時、国見先生の声が短く呟いた。


「あった」


その声に驚いて先生の顔を見上げる。そして、先生の目線の先を辿っていく。
数字ばかりが書かれていて目がチカチカする。けれどそこに、確かにわたしの受験番号が書いてあった。思わずハッと息を止めて、手元の受験票と見比べる。間違いない。あれはわたしの番号だ。


「あった…」


ようやくわたしも声に出して言った。国見先生は頷きながらそれに答えた。


「あったね」
「ありました…?」
「確かにあった」
「絶対…?」
「間違いないね」


間違いない。と国見先生が言った時、ああこれは現実なんだ!と理解した。いつの間にか周りの音が遠ざかっていたわたしの耳に、だんだんとざわめきが戻ってくる。現実だ。ぜんぶ本当。わたしは見事、志望校に現役合格を果たしてしまった!


「……う…そ…うかっ、受かってる」


途端に大量の涙が目から溢れた。どこに溜めていたのかと自分でも突っ込みたくなるほど止めどなく出てきて、どんな結果になってもきっと泣くだろうと思って持ってきたハンカチが間に合わない。だってこんなの、我慢出来るわけがない。


「合格おめでとう」


隣に立つ国見先生が、今度はわたしの背中を撫でてくれた。その手がとっても優しくて、この瞬間のために頑張ってきたんだって思ったら、涙を拭くのも忘れてしまって。


「…あり…あ、ありっ、が」
「あーもう…そうなると思った。ほら」


先生は呆れた様子でポケットに手を突っ込み、彼のハンカチを出してくれた。それを手渡すのではなく、直接わたしの目元に当てて涙を拭いてくれている。
先生がこんなに優しいなんていつぶりだろう?泣いてるわたしの涙を、優しく拭いてくれるなんて初めてだ。


「す、すび、ばじぇん」
「泣かないで喜んだらいいのに」
「そんな、簡単な事じゃっ」


もちろん喜んでいるけど、喜びという感情が溢れるのはもう少し後だと思う。今は驚きや達成感や解放感、色んな気持ちで頭がいっぱいだ。
やがて涙を拭き終えるとハンカチをポケットに戻した。そして手は再びわたしの背中、ではなくて頭の上へ。


「……先生?」


ぐしゃぐしゃと頭を掻き回されながら、わたしは先生のほうを見上げた。


「英」


しかし国見先生は短く指摘した。呼び方を改めるようにと。
今は外だから気を付けていたんだけど、もうそんな必要は無いという事だろうか。わたしたちは今日この時をもって、教師と生徒の関係から卒業したという事。


「…英さん」


まだこのように呼ぶのは恥ずかしいけど、小さな声で呼んでみると先生が少しだけ頷いたように見えた。英さんって、これからずっと呼ばなきゃいけないのか。それとも英くん?呼び捨て?もう先生じゃないなんて信じられない。

合格の興奮から一転し別の興奮で頬を覆っていると、頭から先生の手が離れた。そして、隣で思いっきり両手を上げて伸びを始めた。


「……はあぁ」
「え。ど、どうしたんですか」
「んー…いや」


重力のまま手を下ろし、もう一度先生が深呼吸した。まるで緊張から解放されるかのように。


「今、すっげえ肩の荷が下りた気がした」


そうだ。先生がリラックスしてるように見えるとか、緊張していなさそうだとか、そんな事はある訳が無い。
先生はずっと頭の悪いわたしと根気強く勉強してくれて、上手くいくか分からない学校への受験も応援し一緒に頑張ってくれた。もしもわたしが不合格だったなら、きっと先生はわたしではなく自分の教え方が悪かったのだと思うだろう。その重荷から先生も今、解放されたんだ。


「あの、本当にありがとうございました」


言葉だけじゃ言い表せないけど、本当に本当に今日までお世話になりました、という気持ちを込めて言った。先生からは「どういたしまして」と優しい言葉が返ってくる…と思ったが、しれっとした顔で一言。


「…まあ仕事だから?」
「う…な、なるほど」
「けどやっぱ…達成感あるね」


こんな先生だけど、一年弱ものあいだ二人三脚(と言っても過言ではないだろう)でやって来たおかげか、一応達成感は感じてくれているらしい。
それに、無事合格した事にはわたしと同じくらい驚いているはずだ。その証拠に、


「あの白石さんが合格かあ。すげー」


と、先生は思わずこぼれたような笑みを見せた。
その気の抜けた笑顔、まるでわたしの周りにいる普通の男の子みたいな顔に思わず見とれてしまった。先生がわたしの前で笑うのはわたしが何か変な事をした時くらいだったから。ありとあらゆる持ち物が猫グッズだった時とか。


「何」


ぼーっと先生の笑顔に見入っていると、わたしの視線に気付いた彼は一瞬にして真顔になった。


「あ、いや…すごい嬉しそうに言うんで、びっくりして」
「これで嬉しくないとか冷徹にも程があるじゃん」
「そうですけど…」
「けど?」


どうしよう、言ってもいいのかな。先生があんなふうに笑うのは珍しくて、ついついジッと見てしまったって事を。今日ならきっと怒られないかな、何を言っても。


「笑顔、ちょっと可愛かったです」


いつも余裕があって格好良くて落ち着いた国見先生なのに、ほんの一瞬だけ少年みたいに笑うなんて反則だ。ただでさえ綺麗な顔をしてるのに、柔らかく笑ってみせるなんて。もっとその顔を見たいのになかなか見せてくれない事も、何もかもが反則。こう言ったら先生はしかめっ面をするかと思ったけれど、そうではなく静かに言った。


「……行こうか」
「えっ?わあ」


もう緊張が解けてだらんと下げていたわたしの手を、先生がもう一度握った。五本の指が全部絡まって、先生の指がわたしのよりも長いこととか太いことが分かるくらいにしっかりと。そのまま手を引いて人混みから離れ、今来た道を戻り始めた。


「ど…どこに行くんですか」
「すみれの家」
「家?まだ勉強するんですか」
「違うっつーの」
「あ、合格の報告?」


そう言えばまだ家族に電話していない。一緒に報告してくれるのかな?
そう思って聞いてみたところ、先生は首をかしげた。あれ、合格の知らせを届けに行く訳では無い?それならわたしと一緒に家まで行く意味とは。
そう考えると思い当たる事は一つしか無い。わたしと先生との事を、ついに親に伝えるつもりなのか!?


「もしかしてっ… 」
「どうだろうね」
「え、うそ、心の準備が」
「俺だって出来てないよ。今日は結果報告だけ」


なぁんだ、そうなのか。心の準備が、とか言いながら舞い上がっていたのがちょっと恥ずかしい。


「けど、近々ちゃんと言わなきゃな」


けれどそう言いながら頭に手を置いてくれたので、またちょっと舞い上がった。先生、わたしの親に付き合ってる事をちゃんと言ってくれるつもりなんだ。


「でも、その時は…」


頭から手を離しながら、先生が言った。


「その時は…?」


一気に顔の温度が上がるのを感じる。先生が目を細めてわたしを見下ろし、目が合うとほんの少し口角を上げた。わたしたちの交際を親に報告する事になったら、その時は。


「もし俺がお父さんに殴られそうになったら、代わりに殴られてよね」
「ええ!?」


そっちかい!と大きな声で突っ込みそうになったものの、わたしの驚きっぷりを見た先生は爆笑しながら「嘘だっつーの」とお腹を抱えていた。

国見先生のこんな顔を見られるなら、こんな人を「好き」って思う事が出来ているなら、色々と辛かった受験勉強も頑張って良かった。四月、「家庭教師なんて絶対に嫌」と拒否していた自分に言ってやりたい。その家庭教師、めちゃくちゃ怖いけどめげずにしっかりついて行けよ!と。