05


とてもとても暇だったゴールデンウィークも、あと一日。高校で仲良くなった子と一度遊んだだけで、あとは宿題をしたり親と近所のショッピングモールに買い物に行ったり。
信ちゃんはと言えばゴールデンウィーク中は合宿で、最後の二日間は他の学校と練習試合と言っていた。今頃試合に出ているのか、それともベンチに控えているのか、応援に来た彼女と仲良く喋っているのか…考えたくない。


「あかん!卵足りひん」


宿題の残りを片付けるために机に向かっていると、キッチンからこんな叫び声が聞こえてきた。それからパタパタと近寄ってくるスリッパの足音。嫌な予感がしたのと同時に、お母さんが部屋のドアをノックもせずに開けてきた。


「すみれ、卵買ってきてー」
「えー」
「えーやないわ!ハンバーグ作られへんやん」
「ハンバーグ!?」


晩御飯はどうやらハンバーグらしい。ハンバーグと聞いては黙っておけない、私も一肌脱ごうではないか。

近所のスーパーまでは歩いて五分かからない程度。ノートを閉じて適当な服に着替え、お母さんからお金を受け取ると私は外に出た。これがもしハンバーグじゃ無かったら断っていたと思う。例えば親子丼…いや親子丼は食べたい。じゃあハヤシライスとか…ああハヤシライスも好きだ。結局ご飯の為なら私は動いていたかもな。

と、今夜のご飯に思いを馳せながら歩いていると前方に見覚えのある姿が見えた。残念なことに、こちらに向かって歩いてくるその人が誰なのか気付いた時には、向こうも私に気付いていたので逃げる事が出来なかった。


「……し…」


信ちゃん、と言おうとした口が固まる。だって今は信ちゃんと素直に会話できるような精神状態じゃないのだ。けれど信ちゃんはいつも通りに片手を上げて挨拶してきた。


「おおすみれ。ただいま」
「おっ……か、え、り」
「何してんの?」


それはこっちの台詞やっちゅーねん、と思ったけど信ちゃんは恐らく合宿からの帰り道。私が財布だけ持ってブラついている事くらい見逃して欲しい。黙り込んでいると信ちゃんは答えを急かすように「どないしてん」と続けた。


「……買い出し」
「晩飯?」
「せやで」
「そうか」
「……」


それから私たちは向かい合って立ち止まったまま、無言になった。
信ちゃんは私のおデコとかを見ている気がする。もしかしたら顔。私は信ちゃんの制服とか、肩の向こうに見える道の眺めとか、とにかく信ちゃんの顔以外のものにキョロキョロと目を向けていた。


「お前、最近おかしないか?」


挙動不審に目線を動かす私を、信ちゃんは怪しんでいるようだった。オカシイなどと言われるとは心外だ。


「どこがよ?」
「全部」
「はっ?失礼やな」
「今日やって、なんだかんだ言うて来るんかと思ってたら来おへんし」


今日とはつまり、学校の体育館で行われたバレー部の練習試合の事。クラスの友だちには結局「親の実家に帰る」と嘘をついて行かなかったのだ。
私がわざわざそんな嘘をついてまで断った理由を、信ちゃんは知らないくせに。アンタとアンタの彼女の為なんですけど。


「…私やって色々考えてんねん。放っといてくれへん?」


これは精一杯の嫌味だった。いっその事この言葉が原因で信ちゃんを怒らせたって構わない。が、信ちゃんは怒るどころか笑っていた。


「お前に放っとけ言われる日が来るとはな」


しかもまるで、親戚の子どもの成長を見ているかのように!
私の事、何だと思ってるんだ。いつまでも信ちゃんの知ってる私じゃない。信ちゃんに言われた事をハイハイと素直に聞けるような私じゃない。周りの事を何も考えず、信ちゃん信ちゃんとついて行くだけの私じゃない。私はもっと苛々してしまって、また嫌味を言った。


「昔の私とちゃうねん。もう高校生なんやからっ」


信ちゃんだって昔はもっともっと優しかったくせに、今は私なんかより大事な彼女が居るくせに。
これで少しは後悔しろ!と思って言い放ってやったけど、信ちゃんは何とまだ笑っていた。しかも、妹にでも向けるような眼差しで。


「…せやなあ。そろそろ俺にばっか構わんと、彼氏でも作ったほうがいいんちゃう?」


ショックな事があった時、頭が真っ白になると聞く。きっとそれは嘘である。私の頭は今、ブラックホールもびっくりなほど真っ黒に染められてしまったのだから。



そろそろ彼氏作れとか、どこの親戚のオッチャンやねん。て言うか親戚のオッチャンやったら危うくセクハラやで。わざわざ信ちゃんの居る高校を選んだって言うのに、その信ちゃんから彼氏を作れと言われてしまうなんて。


「…カレシなんか要らんっちゅーねん…」


私は彼氏なんか欲しくない。信ちゃんが前みたいに優しくなって、勉強教えてくれたりとか、試合の応援行かせてくれたりとか、構ってくれたらそれでいいのに。でもそれは出来なくなった。信ちゃんに彼女が出来てしまったから。

最悪の気分でスーパーに入り、卵を買うだけなのでカゴは持たずに店内を進んでいった。けれど普段ここで卵を買う事は無く、置いてある場所がなかなか見当たらない。
何度か同じ通路を通ったりしているうちにやっと見つけた、と思ったら今度は別の人物と遭遇してしまった。


「あ……」


なんと、これももう嫌な出会いなんだけど、信ちゃんの彼女・佐々木先輩を見つけてしまったのだ。しかも卵コーナーの前に立っている。私も卵が欲しいのに。
でもここで佐々木先輩の隣に立って卵を選ぶ度胸は無くて、私はゆっくりと後退りを始めた。…のに、佐々木先輩が顔を上げてこっちを見た。


「………」


私たちはしばらく目が合っていた。私は目が合ったまま後退りを続ける。向こうは「誰だっけ」といった顔で目を丸くしていたけれど、あっと口を開いた。


「…北くんの幼馴染さんや!」
「うっ」


私の顔、覚えてたんですか。と言うか私が幼馴染だって事、信ちゃんから聞いてたんですか。
という事はつまり先日まで私が二人の動向を調べたりとか、影から見ていた事などもすべて知られている?「大きなメガネの子に見られてる」って信ちゃんに相談してたっぽいもんな。
ダメだ。この状況は大いによろしくない。逃げ出したい、けれど佐々木先輩がずんずんこっちに近寄ってきた!


「す、すみません私もう変な事考えてませんから」
「変な事?」
「ふたりのお邪魔をしようなんて思てません!後つけたりしてスミマセンでした!」


ここは素直に謝るしかない。謝った上で怒られたらその時はもっと謝るしかない。とりあえず謝罪の気持ちを伝えるのと、金輪際あなたがたの行く手を阻む真似はしませんと決意表明するしか。

ところが「ホンマにアンタなんなん?幼馴染やからってイキらんとって」と罵声を浴びる覚悟をしていたのに、佐々木先輩は全く罵声など発しない。まん丸い目を更にくりっとして、長いまつ毛をしぱしぱさせて、綺麗な形の唇で言った。


「…そうなんや?邪魔やとは思った事ないけど」
「え」
「あのおっきいメガネもうかけへんの?可愛かったのに」


そして今度はにっこりと、ポワワンと擬音が聞こえてきそうな美しい笑顔で言った。
あれ、佐々木先輩ってこんな人だったっけ。と言うか、そういえば私この人と一度も話した事が無かった。「信ちゃんの彼女」という事しか知らなかったし、遠くで盗み見ていただけなのだ。「おっきいメガネ」越しに。
でももうメガネは没収されたし、私には二人の後をつける理由もない。それに何より、今目の前で佐々木先輩を見た時に、あ、叶わないなって思ってしまったのだ。


「あれはもう…要らんやつなんで」
「フーン…?」


不思議そうに首を傾げる姿すらも可憐というか、私とは正反対で。なんだか一気に惨めな気分になってしまった。今まで私はこんなに信ちゃんの事しか考えてなかったのに、信ちゃんはいつの間にかこんな懐の深そうな女の人と。
でも冷静に考えれば、なんの疑問もない。佐々木先輩こそが信ちゃんに相応しい。

スーパーの真ん中で大きなショックを受けた私はその場に居られなくなって、トイレの中に駆け込んだ。誰も使っていなくて良かった。トイレの鏡には、今にも泣きそうなな自分の顔が写っていたのだ。
それもやがて見えなくなった。涙がぶわっと溢れてきて、視界がぼやけてしまったのだ。


「ぶっさぁ…」


スーパーのトイレで泣くなんて人生初だ。学校中、いや兵庫県中を探したってこんな女は居ないと思う。鏡にはこの世のものとは思えない不細工な女が立っていて、それが自分だと分かるまでには時間はかかなかった。

やっとの思いでトイレを出た頃には「まだ?」とお母さんからメールが届いており、そう言えば卵を買いに来たのだと思い出した。
さっき佐々木先輩が居た卵のコーナーで十個パックを手に取り、買い物時のレジに並ぶ。ちょうどそこには雑誌が並べてあって、ティーン向けの表紙には『オトナ女子特集』の文字とともに、最近話題の女子高生モデルが艶々の黒髪を茶色に染めている姿があった。


「…髪、染めてみよかな」


そうしたら雰囲気が変わるかも。少しは落ち着いて見えるかも。大人っぽく見えるかもしれない。いい加減に私は私の道を歩まなくてはならない。ほら、髪とか染めたら彼氏ができるかも知れないし。彼氏作れって言われたし。
「次の方どうぞ」と呼ばれた時、私は思い切ってその雑誌もレジのおばさんに差し出した。

ビッチャビチャの頬