29受験生のくせに彼氏が出来た。相手は三歳上の大学生で、わたしの家庭教師をしてくれている人。大人っぽくて落ち着いていて背が高くて格好いい。でも完璧と言うわけでは無く、人並みにテンションが上がったり下がったりする事もあるらしい。勢いに任せてキスをしたりとか、無理やりわたしを遠ざけるためにきつい言葉を放ったりとか。
結局は先生の本音を聞く事が出来て、無事に付き合う事になったのである。
「おめでとー」
オープンキャンパス以来、ユリコに会ったのは夏休み明けの事だった。電話では一応すべて話していたのだが、いざ面と向かって会うとかなりの上機嫌。
「ありがとー…って合格したわけじゃないんだから」
「恋が実るなんて受験より難しい事じゃない?このままスパッと推薦通っちゃうかもね」
「スパッとは…どうだろう」
二学期になり、わたしたちはいよいよ忙しくなり始めた。意識を高め始めた、と言うほうが適切かもしれない。進路指導室は三年生の出入りが一層増えて、先生達も大変そうだ。
私は推薦入試を受けるかどうか悩んだけれども、元々の学力が低いせいで面接の練習なんてしている余裕は無い。残念ながら高校生活で何か功績を残したわけでも無い。
と言うわけで親や担任・国見先生と相談した結果、一般入試に懸ける事にしたのである。ユリコも同じく。
「二学期も家庭教師続くの?」
「うん…その予定」
「じゃあ毎週会える事は会えるんだね」
「ウン」
「デートはしないの?」
当たり前にその質問が来るだろうとは思っていた。恋人同士になったという事は、デートを重ねるのが普通だから。でもわたしたちは普通のカップルでは無い。
「…うん。一応、いろいろ決まりを作ったんだよね」
「決まり?」
「受験が終わるまでのルール」
「ルール!?成績悪かったらキスお預けとか」
「ちちちち違うってそういうのじゃないってば」
いくら何でも漫画の読み過ぎではないだろうか。国見先生は勉強と恋愛を混合しようとする事は無い。むしろちゃんと分けるために、ケジメをつけるためにルールを設けたのだ。
「外で会うのは月に一回だけで、平日の放課後っていうルール」
あまり長時間会ってしまうと勉強に差し支える。かと言って日曜日にデートをすると、その後で家庭教師と生徒の状態に切り替えて集中出来るか分からない。だから平日の放課後、互いに予定のあう時に、月に一度だけデートする事にした。
「……それって会う時間少ないじゃん」
「そうかな?でも二時間とか三時間とか会えると思う」
「家庭教師と変わんないじゃん二時間って」
「それはそうだけど」
会いたい気持ちは勿論あるけど、わたしは思いのほか冷静だった。受験が上手くいくかどうか、心配で心配で仕方ないのだ。
目標を高く掲げたはいいが、同じように宮城大学を目指す生徒達はこぞって成績優秀。わたしはやっと今年の夏から追いつき始めたところなのに。
「先生ちゃんと考えてくれてるんだよ。わたしが受験そっちのけにならないようにって」
国見先生はいつでも家庭教師としての姿勢を崩さなかった。夏祭り以降も、わたしの部屋では一人の家庭教師でしか無い。先生が一貫してその態度で接してくれるから、わたしも勉強のモチベーションを保つ事ができていると思う。
「…それは国見先生が、自分自身にもケジメつけるためのルールかもね」
感心したようにユリコが言った。
先生が自分自身にケジメをつけるって事は、つまり、勉強中はわたしを彼女として扱わないように頑張ってくれてるって事?わたしが合格するまでは、先生も会いたい気持ちを抑えてくれてるって事?先生ももしかして色々葛藤してたりするのかな、わたしの事で。…そう考えたらたまらなく好きって気持ちが溢れてきた。
「…カッコイイ…」
「気持ちは分かる」
「聞いて、先生って超良い人なんだよ」
「知ってる知ってる」
ユリコは半ば呆れていたけれど、ひと通りの惚気は聞いてくれた。これだからこの子の事は好きだ。いつかユリコにも彼氏ができたら存分に話を聞いてやろう。
でも、やっぱり今彼女の興味を引いているのはわたしの事みたい。
「で、最初のデートはいつ?」
ニンマリ笑った顔にいつもは「その顔はやめろ」と言ってやるのに、今日だけはわたしも浮かれているので咎めない事にした。そう、最初のデートは何を隠そう明日の放課後!なのだから。
◇翌日、もちろん昼間の授業はきちんと受けた。受験には直接関係のない体育だってハードル走を頑張ったし、タイムは平均よりも良かった。ちょっと汗をかいてしまったけど先生に会うまでには引くだろうし、ユリコが「使う?」と制汗スプレーを貸してくれたので問題無し。やっぱりユリコはニンマリしていたけど、仕方ないから今日もお咎めなしだ。
「せんせー!」
待ち合わせ場所に国見先生の姿を発見したので、思わず小走りになって近付いた。改めて「恋人」として見ると周りの人よりも背が高くて、本当にわたしの彼氏で合っているのか不安になるくらいだ。
「お待たせしました」
「大丈夫。いま来たとこ」
先生は持っていたスマートフォンをポケットに入れ、壁に預けていた背中を離した。
その仕草ひとつひとつが大人っぽくて余裕があって、ずっと同じ部屋に二人きりで過ごしてきたのにドキドキする。
と、やや緊張しているわたしに先生が手を差し出した。
「持とうか?」
「え」
「わざわざ着替えてくれたんだよね」
そう言って指さされたのは、わたしが手に下げているトートバッグであった。
実は放課後にデートをするために、わたしは家から私服を持って来たのだ。制服姿の女子高生と並んで歩くのは、もしも誰かに見られたら大変な事になるから。しかも家庭教師として派遣されている先の生徒と、なんて大問題。だから今日は学校が終わってから、駅で私服に着替えてきたのである。
「貸して」
「でも重くないんで、あっ」
自分で持ちます、と言おうとしたけど、先に先生がトートバッグをひょいと取り上げてしまった。その時指先が触れたのでまたドキリとしてしまった。今日のわたしは乙女モードだ。
「…ありがとうございます」
「いいえ」
すると、先生はトートバッグを持っているのと反対の手を開いてわたしに向けた。
ぽかんとそれを見ていると無言のままグッパーグッパーと開くので、意図が分かった時にまたドキッとしてしまった。「手を繋ごう」って、この人は口では言わないんだな。
にやにやするのを我慢しながら手を出して、やっとわたしは国見先生と手を繋ぎ街を歩く事に成功した。
「学校どう?皆けっこうピリピリしてんの?」
ショッピングモールの中にある喫茶店。念の為隅っこの席に座ったわたしたちは、思ったより会話が弾んでいた。先生は他の受験生がどんな様子なのかを気にしているみたいだ。
「そうでもないですね…予想よりは」
「へえ」
「あ、そう言えば明日休み明けテストがあるんですよ」
「そうなんだ。テストだらけだね」
「あはは」
凄く苦々しい台詞を無表情で言われるので、なんだか笑えてきた。そのわたしを見て先生は「なに笑ってんの」と不服そうである。まるでユリコとわたしのようだ。先生の機嫌を損ねる前に真面目に答えなくちゃ。
「今回もテスト頑張りますね」
力こぶを強調するポーズ(力こぶなんか無いけど)で言ってみせると、先生はポカンと目を丸くした。
「…昔の白石さんに聞かせてやりたい。今の言葉」
「えー!」
「人って変わるもんなんだな」
「お、面白がってるでしょ」
「だいぶ」
それから先生自らが吹き出したので、今度はわたしが笑わないで下さいと頼む羽目になってしまった。
確かに会ったばかりのわたしと来たら、勉強を目の敵にしていたから。国見先生の事だって到底好きになれそうも無かった。…それは向こうも同じかも知れないけど。
「…まあそれはイイんですけど!先生、このあいだ出してくれた宿題で聞きたい事が」
そこでわたしは質問を思い出してしまったので、鞄に入れていた宿題を出そうと漁り始めた。その様子をじっと見ている国見先生。テーブルに広げたプリントを見ながら先生が言った。
「……思ったんだけどさあ」
「はい」
「俺たち、会話の内容がいつもと大して変わんないね」
言われてから一瞬、考えた。
今のわたしたちは恋人として会っているので、いつもと変わらないなんて事は無いと思うのだが。でもたった今、無意識に宿題の話を持ち出してしまったので、わたしの意識は勉強から離れていないらしい。
「…そういえば。」
「いいのか悪いのかって感じだけど」
「どうなんでしょう…」
「あともうひとつ」
プリントを裏返しにしながら、先生が言った。
「外で会う時、先生って呼ぶのやめてくんない?」
またも一瞬考えた。
先生はとても真面目な顔だ。これは本気の頼み事として捉えるべきか。確かにわたしが「先生」などと呼んでいたら、わざわざ私服に着替えた意味も薄れてしまう。
「………じゃあ…」
「ほかの呼び方考えて」
国見先生が頬杖をついた。お手並み拝見って感じの顔で。
そんな事言われてもほかの呼び方なんか浮かばない。国見先生は国見先生としか呼んだ事が無いんだし。でも敢えて別の呼び方をするなら、たぶんこれ。
「…クニミさん」
「冗談だろ」
「えっ、だって他には」
国見さんという呼び方はお気に召さなかったみたいで、めちゃくちゃ眉間にしわを寄せられた。って事は残る呼び方はひとつ。国見さんという苗字を呼ぶのではなく、下の名前で呼べという事だ。
「……アキラ…さん」
「別に呼び捨てでもいいけど。」
「そ!それは無理です」
「じゃあそれでいいや」
恋人とは言っても三歳も歳が離れてるんだし、いきなり呼び捨てなんかに出来ない。とりあえず「アキラさん」で許可を得たのでほっと胸をなでおろした。…アキラさんかあ。呼ぶ時にいちいち緊張しそうだ。練習しておかないと。
「…英さん。」
「はい」
「うわあー…」
「そんなに緊張してたらキリが無いよ」
「で、でも」
「自分だってこれからはすみれって呼ばれるのに」
ピタリ。脳味噌と動きが止まった。
今、国見先生がわたしの事、名前で呼んだ。下の名前で。すみれって呼んだ!空耳?ちがう。先生が満足げに笑ってるから、絶対空耳じゃない。現実!
「…うわああぁぁ」
「静かにしてね、すみれサン」
また呼んだ!と両手で顔を覆ってしまい、やっと体温を下げて手を離すことが出来たのは、しばらく経ってからだった。