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わたしには、家庭教師の先生が居る。愛想もクソも無い厳しい先生。けれど教え方はとても上手で、やる気のないわたしにやる気を出させてくれて、部活の大変さも理解してくれて、表情は氷のように冷たいのにふとした時に暖かい。最初は大っ嫌い…とまでは行かずとも苦手だったけど、いつしか国見先生はわたしの憧れとなってしまったのだ。


「国見先生に告られた!?」
「ぶっ」


何だかデジャヴを感じるユリコの台詞。オープンキャンパスからの帰りに駅近くの喫茶店に寄り、今日途中でわたしと先生が抜け出した時の事を聞かれたのである。
金田一さんとユリコを食堂に取り残してしまったので悪いとは思っているけれど、わたしを連れ出したのは先生のほうだ。


「…声出さないでよ。先生の知り合いが居るかもしれないんだから」
「あ、ごめんごめん…いやでもなにそれ、超アツい展開」
「わたしも信じらんない」
「わたし達がうどんすすってる間にそんな事があったなんてね…」


ユリコは金田一さんの奢りで食堂のうどんを食べていたらしい。金田一さんには本当に申し訳ないと思っている。先生が代わりに説明してくれるとは言っていたけど。


「でもさ、今日やっぱり来て良かったね」


ジュースを吸いながらユリコが言った。確かに今日、来るのを躊躇していたわたしを誘ってくれたのはユリコだ。先生に会いたくなかったわたしを「会った方が早い」と連れ出してくれたのだから。
結果、先生に腕を引っ掴まれて、怒られるかと思いきやまさかの告白を受けたのである。


「いいなあ…家庭教師と禁断の恋。テンション上がる」
「や…やめてよ!わたしたちまだ連絡先だって知らないんだから」
「え。交換してないの?」
「してない!だって先生と生徒だよ」
「彼氏と彼女でしょ?」
「違…え、もうわたしたち恋人なの!?」
「そこ?」


確かにお互いを好きだと言って、今日二回目のキスをされたけれども。付き合おうとか彼女になってとか、そういう形式の話はしていない。しまった。ちゃんと聞けばよかった。


「日曜日が楽しみだね」


何故かわたしよりも楽しそうなユリコがニヤリと笑った。
次の日曜日、家庭教師の時、先生にちゃんと聞かなくちゃ。このままではまた悶々として勉強に集中出来なくなってしまう。



それから日曜日までは、悩んでいいやら浮かれていいやら分からない状態で過ごすはめになった。
とにかく国見先生がわたしを好きで、キスをしたという事は事実。その点は充分に浮かれてもいいと思えたので、家の中でも自然と足取りが軽くなったりしていた…ら、お母さんに怪しまれた。


「…すみれ、何かあった?」


不振がると言うよりは、受験のプレッシャーで娘の精神がついに崩壊したのではと心配そうである。これはいけない、わたしは正常だ。


「いやぁ、べつに…」
「フーン…まあ前みたいに静かで居られるよりは良いけど」
「はは」


少し前、国見先生との関係はとても良好とは言えなかった。夏祭りに行ったはいいが、その後の先生の態度はわたしを突き放すようなものだったから。
オープンキャンパスに行くのを断らなくて良かったと心底思う。持つべきものは理解のある(ちょっぴりお調子者の)友人だ。
そんなことを考えながらお母さんを適当にあしらっていると、ついにその時は来た。家のインターホンが鳴った!


「あ、先生かな」
「っ!!」


どうしよう。ひとまず洗面所に駆け込んで鏡を見る。うん、変なところは無いはずだ。前髪だって勉強の邪魔にならないように留めてるし、 両目ともやり過ぎない程度にまつ毛が上がってる。
それからお母さんが「お待ちくださーい」と玄関を開ける音が聞こえたので、わたしも玄関に向かう事にした。


「先生こんにちは」
「こんにちは。お邪魔します」


先生は出迎えたお母さんに挨拶をして、靴を脱いでいるところだった。
紛れもなく国見先生だ。先日オープンキャンパスで会った人と同一人物。当たり前なんだけど、場所が違うだけで別人みたいに思えてしまうのだ。先生は脱いだ靴を揃えると顔を上げて、ついにわたしと対面した。


「え、と、コンニチハ」
「ちは」


…驚くほど平常運転である。首だけペコリと下げた先生は、わたしの後ろをついて歩き部屋の中へと入ってきた。
用意した座布団に座り、携帯電話をマナーモードに切り替えている。うん、いつも通り。この光景は毎週見ている。


「………」


わたしも勉強机の筆記用具をローテーブルに移し、その場に正座した。この間ふたりとも無言。こういう時、普段何か喋っていたっけ?覚えてない。


「どうだった?オープンキャンパス」
「え!」


会話に困っていると先生から話しかけられた。
反射的に驚いてしまったけど、特に珍しい質問では無い。だって先生はわたしがオープンキャンパスに行ったのを知ってるんだから。あの日はお母さんにだって「今日どうだった?」と聞かれたじゃん、すみれ。お母さんに答えたみたいに普通に答えろ、すみれ。…お母さんには何て言ったんだっけ。


「色んなとこ見学できた?」
「あ、ああ…ハイ…」
「ふうん」
「でも正直…あんまり覚えてなくて…その、色々あったもので」


色々、と言いながら国見先生をちらりと見ると、先生もそのタイミングでわたしを見た。
それからすぐに視線を落とし、言葉を探している様子。また「忘れて」なんて言われたらどうしよう?と悲しい過去が過ぎったけれど、幸いそれは繰り返されなかった。


「…終わってから話そうか。とりあえず勉強」
「は、はひ」


そうだった。まずは家庭教師と生徒としての勤めを果たさなければならない。わたしは受験を控えた高校三年生である事を忘れてはならないのだった。忘れそうになってたけど。

それからの二時間はとても真面目に勉強に取り組んだ。苦手だった数学も、なかなか単語が頭に入らなかった英語も。過去形とか現在完了形の違いにも苦労したけど、それらは先生のおかげでかなり克服された。


「単語、かなり覚えてきたね」
「そうですかね…結構詰め込みました」
「最初の頃は中学生にも負けるんじゃないかと思ってたけど」
「うっ」


先生の言う通り、過去のわたしと来たら英単語の意味なんて雰囲気で覚えていた。何が名詞で形容詞だとか、適当だったのだ。四択の問題ですら正解率が低くて、先生には呆れるどころかドン引きされた事も多々ある。


「じゃあ今日はこのへんで終わり」


そこで国見先生が終了の合図を出した。
ペンを置き、両手を上にあげてぐんと伸びをしている。はぁと息を吐くのと同時に下ろされる手。ここでひとまず二時間の勤めは終えた。という事は今度は、生徒と教師としてではなく、わたし個人と国見先生との話をしても大丈夫?


「……せ…先生。えーと」


聞いても良いのかどうか。と言うか今、喋っても良いのかどうか。顔色を伺ってしどろもどろしていると、先生と目が合った。


「変な顔」
「ええぇ!?」
「緊張しすぎだよ」
「で、でも…だって」
「リラックスすればいいじゃん。もういちいち俺の気持ちなんか伺わなくて済むんだから」


これまでは国見先生がわたしをどう思っているのか分からなくて、何故お祭りに誘ってきたのかとか、何故キスをしたとか、何故それを忘れさせようとするのかに気を取られていた。
けど、もう良いのか。この間のオープンキャンパスの時、先生はハッキリと言ってくれたのだから。


「…先生の…気持ち」
「言っとくけどここでは言わないよ」
「は、はい」


さすが国見先生は弁えているらしい、家庭教師の仮面を被る二時間の間は発言内容に気を付けているようだ。


「でも…ひとつだけ、聞いても良いですか」


どうしても聞きたい事をひとつだけ。ユリコとの会話の中で生まれた疑問を解決したい。わたしたちは今後、彼氏彼女と名乗ってもいいものかどうか。先生は眉を上げて「何?」と促した。


「わたしたちって、あのー…そういう…そういう仲に、なったという認識で…いいんでしょうか」


恥ずかしくて上手く言葉に出来なかったけど、言いたい事は伝わったと思う。
国見先生は質問を聞き終えると目を伏せて、机の上を指でとんとん叩いて考え込んでいるようだった。
もしかして聞かない方が良かったのだろうか。こう言うのを聞くのって野暮な事?それとも先生には全く「付き合う」という気が無かったりして。
その可能性が過ぎった時急に恐ろしくなり、言わなきゃよかったと後悔した。


「…俺が一番怖いのは、そっちに気を取られて白石さんが受験に失敗する事」


先生は体勢を整えながら言った。質問に対する答えにはなっていない。が、先生の言いたい事も良く分かった。わたしだって同じ気持ちだから。先生の事は好きだけれども、いま一番何が大切なのかは分かっているつもりだ。
という事はやはり、まだ付き合うとか恋人とかのレベルの話は出来ないって事。


「…だけど、週に一回、ここで二時間勉強するだけの仲なんて正直我慢できない」


と、思っていたのだが。国見先生は真面目な顔で真面目な事を言ってのけたように聞こえた、のだが。


「携帯だして」


宿題だして、と言う時と同じ顔・同じトーンで言うもんだから一瞬固まってしまい、危うく開いたままの口から涎が垂れるところだった。「早く」と急かされてやっと我に返り、垂れかけていた唾液を吸い上げ、ベット脇で充電中の携帯電話を取りに向かったのである。
…連絡先の交換って、もう少しドキドキしながらするもんだと思ってた。