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金田一と呼ばれたその人は国見先生の溜息を見て、ようやくわたしが仙台駅で助けた女の子である事に気付いたようだった。国見先生を経由して、この人にもお母さんからお礼のお菓子が贈られている。という事はわたしが先生の教え子である事を知っているはず。
いったいどこまで知られているんだろう?ふたりでお茶をしに行った事とか、スポーツ店で会った事とか、もしかしてお祭りに行った事も知られているのだろうか。


「ちょっと外す」
「え?おお」


国見先生は細身の身体を上手く使って、列に並ぶ人混みから抜け出した。
やっぱり先生はわたしの事を避けているのだ。こんなところでまともに会話なんか出来ないって分かってるけど、このまま次の日曜日も気まずい時間を過ごさなければならないなんて。


「白石さん?何してんの」


ところが国見先生は、落ち込んで立ち尽くしているわたしを呼んだ。


「…え?」
「来て」
「えっ」


先生の手が伸びてきて、わたしの腕をがっしりと掴む。うわ!と思うが早いか強く引っ張られて、先生に連れられて食堂を抜け出す事になってしまった。「ちょっと外す」って言ってたのは、わたしを連れてこの場を外すって事だったのか。
取り残された金田一さんとユリコはぽかんと口を開けていたけど、何か声をかける前に食堂の外に出てしまった。


「…せ、先生」
「その呼び方で呼ぶなっての」
「!!ゴメンナサイ」


当たり前の指摘を受けてしまい、空いている方の手で慌てて口を覆う。その間も先生はわたしの腕を引っ張ったまま生徒をかき分け、どこかに向かって突き進んでいた。もしかしてこのまま正門まで連れていかれて、追い出されるんじゃなかろうか。


「どこ行くんですか」
「邪魔が入らないとこ」
「え…」


すなわち個室?トイレの中に連れていかれて殴る蹴るなどの暴行を加えられたらどうしよう。嫌がってるのに大学まで会いに来たストーカーだと思われても文句を言えない立場だし。
ここから逃げる策を考えてみたものの良い案は浮かばず、結局どこかの部屋に押し込まれドアを閉められてしまった。


「……」
「あのさあ…」
「はっ、はい」


食堂とは違い、驚くほど静かな部屋である。その中に先生とわたしだけ。しかも国見先生は腕組みをしてわたしを見下ろしている。どうしよう、しばかれる。


「何しに来たわけ」


冷たい声で先生が言った。


「…あの…友だちと…オープンキャンパス、に」
「あー…」


先生は、なるほど、と呟いた。それから頭をぼりぼりかいて、わたしを追い返す口実でも探しているのだろうか。勉強以外の話をするなと言われた直後に、わざわざオープンキャンパスで会いに来るような真似をするなんて、鬱陶しいに決まっている。


「…すみません」


嫌われるのは絶対に嫌だ。受験勉強にも関わってくる。せめてわたしは先生にとっての「良い生徒」でありたい。それ以上はもう望まないから許してください。


「どうして謝るの?」
「え…だって」
「だって?」
「だって…先生、怒ってる、し」


恐る恐る言うと、国見先生は顔をしかめた。その顔が既に怖いんだけど、怯えるわたしを見て先生は首を傾げてこう言った。


「怒ってないけど」


全く予想もしていなかった言葉である。だって先生は明らかに不機嫌そうな顔をしているし、今だってわたしの手が握り潰れそうなくらいの力でここに連れてきたと言うのに。


「……ほんとですか?」
「怒ってないから」
「え、だ、だって超怖い顏してっ」
「生まれつきだよ。悪かったね」


すると先生は、これまでもりも一層眉間のシワを深くした。今のはちょっと怒っているかもしれない。
国見先生は肩を落としてわたしに話すよう促した。何故食堂に居たのか、オープンキャンパスには誰と来たのか、という事を。
だから元々友人と約束していた事やちょうどお腹がすいていた事などを話してみたけれど、先生は「ふうん」と全く気乗りしない返事だ。


「…来なきゃ良かったです、かね」


どうせ会えてもこんな会話しか出来ないくらいなら、来ない方が良かった。先生だってきっと迷惑がっている。そう思って聞いてみたけれど、先生は頷かなかった。


「どうしてそう思う?」


それどころか、こんな質問をしてきたのだ。理由なんて分かっているんじゃないのか。わたしが先生の事を好きだという事も。あなたがそれを拒んだくせに、今わたしに言わせようとするなんて。
けれどこれは良い機会だった。家の中はお母さんが居るのが気になってゆっくり話せない。


「今日、来て…もし先生に会えたら、そしたらちゃんと話したいって思ってたんです…けど」


どうしてわたしにキスをしたのかを。
突き放すくらいならキスなんてして欲しくなかった。だってわたしはもう、先生を好きになってしまったのだから。
それらを言ってやろうと思ったのに、上手く声が出てこない。代わりに涙が出てきてしまうのだった。


「…それで?」


先生はわたしの涙に対して何も言わず、続きを促してくる。
言えない。こんな場所で、そんな目で見られながらどう思われてるのかも分からない状況で、先生の事が好きだなんて。
黙り込んでいるわたしを先生はただただ見ていたけれど、やがて目を閉じた。


「……俺も次に会ったら言おうと思ってた」


黒い瞳を瞼で覆った先生とは裏腹に、わたしは目を見開いた。わたしに何か言いたい事があるのだ。何を言おうとしていたのか。それを聞こうと口を開いた時、先生はゆっくりと目を開けた。


「ごめん」


低い声で短い言葉を告げられて、危うく聴き逃してしまうのではと思った。
でも残念ながら滑舌のいい先生の台詞はきちんと耳に入り、謝罪を受けたのだと理解した。
何に対しての「ごめん」なのだろう。わたしにキスをした事か、それとも、わたしの気持ちは受けれない事について?どちらにしても嬉しい言葉では無い。


「ずっと謝らなきゃいけないと思ってた」
「……そんなの」
「給料貰って行ってるくせに最低な事したから」
「そんな事思ってな、」
「白石さんが良くても俺は駄目なんだよ」


国見先生が拳を握るのが見えた。


「…駄目なんだよ。俺ってこんなに我慢知らずだったのかって思うと」
「我慢…?」


更に強く、ぎゅっと音がしそうなくらい先生の拳は硬く握られていく。先生は何かを我慢していたのだ。でも、その我慢が限界に達した?一体なんの事ですかと問いかけようとしたけれど、やはり国見先生が先に口を開いた。


「白石さんの事、生徒だと思えない」


それを聞いて絶句した。今までわたしたちは生徒と教師の関係を、短い期間だったけれども続けて来たのに。
先生にムカついた事もある。好きな気持ちを抑えきれなくなった事も。それはつい先日の事。でもせめて国見先生とは、受験が終わる最後の最後まで一緒に頑張りたいと思っていたのに。


「……な…なんで…」
「いや何でって言われても…え、分かんないの?」
「わ、わかんな…え?わたし、もう先生に勉強見て貰えないんですか」


そんなの絶対に嫌だ。一瞬引っ込んでいた涙がまた溢れてきて、説明を乞うように先生の服をぐしゃりと掴む。せめて恋人同士になるのが無理ならずっと先生で居てくれませんか、今まで以上にあなたの言うとおりに勉強するから。キスの事も全部忘れて、無かった事にしてみせるから。


「…もしかして勘違いしてる?」


涙が止まらないわたしを見て、先生は心配そうに言った。


「白石さんのことが好きなんだよ。俺」


だらしなく泣くわたしの顔をじっと見ながら、先生は優しい声で言った。

いつだったかわたしはこの声を聞いた事がある。この顔を見た事がある。彼女に振られてから元気が無さそうに見えた先生に、期末テストと模試を頑張って元気になってもらおうとした時だ。
でもまさか、またその顔を見られるなんて。その声で好きだと言われるなんて思わなかった。


「う……そ」
「嘘だと思ったよ俺も」
「うそ…」
「嘘ならいいなって思ったよ」
「うそだ」
「嘘つけないから夏祭りの日、白石さんにキスした」


ドキリと心臓が鳴るのを感じた。その話を頑なに避けようとしていた先生が「キス」という単語を出したから。


「好きだよ」


わたしもその気持ちに最近になって気付いた。先生の事が好きであると。厳しくて優しくて、笑うと別人みたいな顔になる国見先生。ただの憧れとは違う確かな恋の感情だった。


「……わ…わたし、も…です」
「…まだ俺のことが好きなの?」
「好きです」
「変わってるね」
「え」
「俺にあんな態度とられたくせに」


あんな態度とは、前の日曜日の事だろうか。正直に気持ちを伝えたわたしに、遮断するかのように話を辞めるよう先生は言った。先生の立場を考えれば仕方の無い事だと理解は出来た。でもすごく悔しくて、悲しかった。

あの時の事を思い出してまた、つうと涙が頬を流れた。先生はそれを指で拭いてくれて、わたしの顔があまりに間抜けだったのか、かすかに笑っていた。


「ごめんね。駄目だって分かってんのに好きになった」


頭の上に少し重いものが乗る、先生の手だ。わたしの頭をゆっくり撫でてゴメンと言う。そんなの許さないわけには行かないじゃんか。


「…謝るとこじゃないです」
「あっそう。じゃあ謝んないから」


なんだって!?と顔を上げると、国見先生は悪戯っぽく笑っていた。あっという間にいつもの先生に戻ってる。呆気に取られたわたしを見て先生は鼻を鳴らした。なんて人だ。


「…やっぱり超ショックだったんで謝ってください」
「やだよ」


それだけ言うと先生は、「やだってどういう事ですか!」と文句を言うわたしを簡単に制してしまった。夏祭りの時みたいに、心の準備が出来ないままのキスである。