20180822


『誕生日おめでとう』


目が覚めてから届いていたメッセージは親からのものだけだった。今日が俺の誕生日だなんて誰にも知られてない事だし、仕方ないんだけど。
それに、「祝ってもらえたらいいな」と思っている相手は俺の連絡先すら知らないだろう。夏休みだからクラスメートには会うことも無い。何の変哲もない八月二十二日の始まりだ。

起きてから顔を洗い朝食をとり、体育館では普段の練習が開始された。二組に別れてロードワークの指示があり、俺は先に外を走りに出ることに。真夏の空の下走るのは結構大変だけれども、これが自分の力になるのなら苦ではない。
それに俺は今日から十六歳だし、なんとなくそれだけで頑張る気になれていた。十六歳の俺は一味違うぞ、控えの選手で甘んじるつもりは無いぞと。


「そういや工、おめでとう」
「ありがとうございま…え?」


ところがロードワークが終わり、このまま今日も普通の日を過ごそうとしていた時に、天童さんに誕生日を祝われた。


「何で誕生日知ってるんですか」
「なにかの時に聞いたから。俺って記憶力いいんだよねぇ」
「え、ありがとうございます」


びっくりしたけど、おめでとうと言われるのは悪い気分じゃない。それに夏休みの間はお盆に実家に帰っただけで、あとはこの人達と一緒に寮生活なのだ。こうしてコミュニケーションを取ってくれる天童さんには正直救われている。きつい練習で挫けそうな時にも気を紛らわせてくれるし。
ただ、それが時々大きなお世話になる事もあったりする。


「工くんは彼女とか居ないのかな?」


そう、こんなふうにして。
天童さんはお喋りでゴシップ好きな印象があり、この間も川西さんに彼女が出来たことを皆に言いふらしていた。
あいにく俺は彼女なんか居ないし、「彼女だったらいいな」と思っている子からは誕生日のお祝いメールも来ていない状態だ。それを思い出してゴホンと喉を鳴らしてしまった。


「い…居ないですよっ」
「怪しい」
「居ませんから!」
「そんな全力で否定して悲しくならない?」
「事実なんで」


彼女が居ないのは残念ながら本当だ。そのまますたすたと歩く俺を見て物足りないのか、天童さんは質問を続けた。


「じゃあじゃあ好きな子とかは?」


その問に対して、俺は一瞬だけ動きを止めてしまった。だって、これは正直に答えるかどうか悩む質問だったからだ。結果的に俺が選んだのは否定の言葉だった。


「………居ないです」
「嘘が下手過ぎだよ」
「……」


この人に嘘をつくのは不可能だったのを忘れていた。
天童さんの顔には「詳しく知りたい」と書かれていて、 ちょうど今は周りに誰も居ない。天童さんとマンツーマンの状態で話をはぐらかすのは無理だと判断した俺は、肩を落としながらも話すことにした。俺には好きな女の子が居て、けれどその子とは今日会えないのだということを。


「…クラスメートなんで意味無いですよ。夏休みは学校に来ないですから」
「その子って部活やってないの?」
「帰宅部です」
「ありゃあ…」
「だから別にいつもと同じ日なんで……、」


これ以上聞いても面白くないですよ。
そのように続けようとしたのだが、それを最後まで言う事は出来なかった。帰宅部であるはずの女の子が、夏休みに学校に来る用事なんか無いはずの女の子が、校舎の下駄箱に入っていくのが見えたのだ。


「どったの?」


天童さんは俺の目線の先を追ったけど、そこにもう彼女の姿は無い。下駄箱は外から見えないのであった。
どうしよう、一瞬のうちに色んなことを考えた。話しかけたって話題があるわけでもないし、でも俺の誕生日に偶然あの子が登校してくるなんて何かの運命なんじゃ?と思ってしまったからだ。


「……天童さん」
「うん?」
「ちょっといいですか」
「お?」
「行ってて下さい!」


ロードワークから戻りストレッチをして練習に戻る予定だから、少しだけなら時間はある。ほんの数分会話をするだけでいい。今朝ちょうど「誕生日を祝ってもらいたいな」と考えていた女の子が、すぐ近くに居るのだから。


「白石さん」


同じクラスの白石さん。清楚で可愛くって、明るくて柔らかい、俺の理想を詰め込んだような女の子。白石さんの名前を呼ぶだけでも緊張してしまったけれど、彼女は振り向くと大きな目を丸くした。


「…五色くん?オハヨー」


そして、唇を美しく広げて笑いかけてくれた。これだけでも追いかけてきたかいがあるってものだ。でも俺は浮かれた顔をしたくなくて、一生懸命に声を低くして返事をした。


「おはよ。…何してんの?」
「図書室!読書感想文の宿題、新しい本買うのお金勿体なくてさ。返しに行くの」
「あー…」


白石さんの口から出てきたのは明るい話題ではなくて、夏休みの宿題の話だった。それぞれ一冊の本を読み、原稿用紙二枚分の読書感想文を書けというもの。そんな宿題が出ていた事をたった今思い出した。


「五色くん、もう読書感想文やった?」
「いや、まだ…やばい忘れてた」
「あははっ」


素直に忘れていたことを伝えると、白石さんはけらけらと笑った。笑われてるのに全然悪い気がしない。俺の言葉で白石さんの顔が笑顔になったという事が、ただただ嬉しい。


「すごい汗だね。練習中?」


白石さんは俺の額とか、首を流れる汗を見て言った。


「あー、うん。走ってきたとこ」
「こんな炎天下?大変」
「いつもやってる事だから」
「いつも!?信じらんないや」


そして、心底驚いた様子であった。白石さんは部活をやっていないから、この暑い中身体を動かすなんて考えられないんだろうと思う。

それより俺は自分が汗だくなのを忘れていて、汗のにおいが白石さんに不快感を与えていないか気になった。脇とか大丈夫かな?て言うか汗びっしょりの男子なんか近付きたくなかったりして。
少しでも汗が乾くように、俺はティーシャツをぱたぱたと揺らして風を送った。


「……あ。ごめん練習の邪魔だった?」


そんな俺を見て、白石さんは俺が忙しそうにしていると解釈したらしい。


「いやっ、べつに」
「ほんと?戻らなくていいの」
「戻らなくて…いい事は無い、けど」
「怒られない?」


正直、そろそろ戻らなきゃまずいと思う。でもこの会話の中で俺はなんの爪跡も残せていない。爪跡なんて不要なんだけど、ちょっとでも長く白石さんと過ごして、ちょっとでも多くの言葉を引き出したいのだ。


「…もう少しなら大丈夫」


会話が終わったらダッシュで戻ればいい。…と自分に言い聞かせて、白石さんにそう答えた。白石さんは「そっか」とホッとしたように言った。


「その本、どんな内容なの?」


限られた時間に少しでも話題を広げたくて、俺は白石さんの持つ図書室の本を指さした。立派なカバーと帯が付いていて、見たところ小説のようだ。


「恋愛モノだよ。五色くん興味ないかも」
「そんな事ない!…と思う」
「そうなの?恋愛モノ好き?」


白石さんが俺の顔を見上げた。見上げたつもりは無いんだろうけど俺の方が背が高いから、必然的にそうなっているだけなのだろうけど。その時の顔がそれはもう可愛くて、狙ってるんじゃないかってくらいまつ毛が揺れて、そしてこう思った。


「………好き。」


うわ、やばい。と慌てて口を覆ってしまった。俺いま告白しちゃったんじゃ?
けれど白石さんはそれを告白とは受け取っておらず「ほんと?」と目を輝かせた。…そう言えば恋愛モノが好きかどうかという質問だった。


「そうだ!じゃあ五色くんもこれ読んだらいいよ」
「え?」
「読書感想文のために。まだ読む本決まってないでしょ」


白石さんは淡い色の表紙を俺に見せて、名案だとでも言いたげだ。
同じ本を読んでもいいと思ってくれるのはとても嬉しい。彼女の言う通り、まだどの本を読むのか決めていない。読書感想文のことを忘れていたから。
けれどひとつ懸念点があった。確か読書感想文の題材にする本は、自分で決めなければならなかった気がする。


「……そうだけど。いいのかな、同じ本読んで」
「偶然って事にしたらいいんじゃない?」


そりゃあそうなのだが、もしもバレてしまった時に白石さんにも迷惑がかかるのではないか?とても嬉しい申し出だけどなかなかウンと言えず、俺は頭を悩ませた。
そんな中白石さんはぺらぺらとページをめくりながら、「恋愛モノが好き」だと言った俺に本の内容を説明してくれた。


「これはね、二人が秘密を共有して仲を深める話でドキドキするんだぁ」
「へー…」
「なんか今の私たちみたいだね」


パタン、と本を閉じながら白石さんが言った。


「………え!?」


「今の俺たちみたい」?秘密を共有?仲を深める?恋愛をする?何が俺たちみたいなのか分からなくて、混乱して反応が数秒遅れた。


「俺たちみたいって…?秘密って」
「ほら、こっそり同じ本読む事とか」
「え、あ、あー…ああ」
「秘密だからね!読む本は自分で選ぶ決まりなんだから」
「う、うん」


どうやら俺たち二人で同じ本の感想文を書くことが「秘密」らしい。
確かにそれは俺と白石さんしか知り得ないことだ。感想文の内容が似る事は無いだろうから、この秘密は問題なく守られるだろう。俺と白石さんが誰かに漏らさない限り。


「じゃあ今から返してくるから、五色くん早めに図書室行って借りてね!」


もう一度本の表紙とタイトルを見せてから、白石さんは軽やかに図書室へと歩いて行ってしまった。
誕生日の話、出来なかったな。今日は俺の誕生日なんだって、言うタイミングなんか無かったけど。誕生日のことなんか忘れてしまうほどの、ドキドキする事があったのだから仕方ない。


「………秘密か」


ほんの些細なことだけど、俺たちは二人だけの秘密を持った。白石さんのすすめてくれた本によれば、秘密を共有した二人はそれをきっかけに仲を深めていく事になる。仲を深めて、その先どうなるのだろう?本の結末がとても気になる。部活が終わったらすぐに図書室に行かなくちゃ。

Happy Birthday 0822