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八月も中旬を過ぎれば、夕方には少し涼しさを感じるようになった。それでも晴れている日は半袖じゃないと暑くて倒れてしまいそうだし、外に出る用事なんかオープンキャンパス以外には無くなってしまったのだけど。

夕方以降に出歩いたのは先週の土曜日が最後で、あの日はとても色んなことがあった。国見先生と待ち合わせ、先生と夏祭りを歩き、先生の元彼女に会い、先生が他人に怒ったところを初めて見た。そして、先生はわたしにキスをした。ほんの一瞬の出来事であった。


「すみれ、これ先生に出してあげてね」


夏祭り後の初めての家庭教師の日、お母さんはわたしと先生との間に起きた事を知るはずもない。最近じゃ先生のおもてなしはわたしに任せっぱなしだったので、今日もわたしにお茶とお菓子を運ぶように頼まれてしまった。


「うん……」
「どしたのアンタ。浮かない顔して」
「んーん」
「まさか宿題やり忘れたぁ?」


お母さんは冗談めかして笑った。
宿題を忘れたほうがまだ良いかもしれない。先生に出された宿題はすべて終わらせているし、ついでに学校からの夏休みの宿題だって終わってる。それでもわたしが複雑な気分でいる理由は、絶対にお母さんには言えない。

もうすぐ国見先生が来る時間だ。先生の前ではこんな顔をせずに、この間のことをちゃんと話さないと。もやもやを晴らさないと。先生の気持ちを聞かないと、そしてわたしも伝えないと。


「いらっしゃーい」


ベッドの上でびくりと跳ねた。お母さんが国見先生を迎える声だ!いつもはインターホンが先に鳴るので不意打ちであった。
恐る恐る部屋のドアを開けると、ちょうどお母さんは玄関前の掃除をしていたらしくて、そこで国見先生が現れたらしい。


「すみません散らかしてて」
「いいえ…大丈夫です」
「上がってくださいね〜。すみれ!先生来たよ!」


言われなくても分かってるっつうの!と思いながら部屋から出…る前に鏡で自分の顔が変じゃないか確認して、わたしは玄関へと歩いた。先生、どんな顔してるかな。いつもどおり?それとも少し気まずそうにしてる?


「こんにちは」


ついに廊下に出て迎えた時、先生は普段となんら変わらない様子であった。
眉や口角は上がりも下がりもせず、声の高さも全くの普通。先生がそんな状態なもんだから、わたしも普通を装うしかなくて。


「…こんにちは」


と、いつもと同じ挨拶を返したのだった。
そのままわたしの部屋に案内し、わたしは一度部屋を出た。ドアを閉めた時には深呼吸も忘れない。それからお母さんの用意したお菓子をトレーに乗せて、キッチンから運んできた時には、先生はもう準備万端であった。


「……宿題やった?」


わたしがお茶を置き終えたタイミングで、先生が言った。恐ろしいほどに普段どおりだ。


「やりました。どうぞ…」
「はい」


うろたえてしまわないように、あくまで淡々と、先生に宿題を手渡した。だってわたしが変な雰囲気を出してしまったら、先生に罪悪感を与えてしまうかも知れない。あの時キスしたせいで、わたしがギクシャクしてしまっているんじゃないかと。
とは言え原因はその通りなんだけど、先生のせいとかじゃなくて、わたしはただ確かめたいだけ。


「白石さん」


その時、今日初めて先生に呼ばれて肩が揺れた。ついにあの日の話をされてしまうのかと。


「はっ、はい!」
「名前書き忘れてる。ここ」
「え……、あ」
「まあ今は大丈夫だけど…名前だけは絶対忘れないでね」


びっくりした。名前を書き忘れるという初歩的ミスを犯した自分にも、先生がそれを顔色ひとつ変えずに指摘してきた事も、それだけで会話が終わった事にも。

国見先生はあの日の事を全て忘れてしまったのだろうか?そう思わせられるほど、今日の彼は「ただの家庭教師」であった。


「…先生」


いけない、声が震えている。でも聞かなきゃ、先生と同じ部屋の中で勉強に集中なんかできない。


「なに?」


国見先生はわたしのほうを見ずに答えた。わざと見ようとしないのか、宿題のチェックに集中しているのか分からないけど、とにかくチラリともわたしを見ないのだ。


「あの、…この前の事なんですけど」


それにも我慢出来なくて、わたしは本題に入った。例えばもし、あの日の国見先生に何かが乗り移っていただけだとしても、わたしとキスをした事実は覚えているはずだから。そうでなきゃ許せない。


「………この前って、いつ?」
「夏祭りの日です」
「その日の何の事」
「何って、先生あの時」


わたしにキスをしたじゃないですか。
と、続くはずだった。先生が手でわたしを制するまでは。


「その事なら忘れて」


さらに、全てを無かった事にするかのように、先生はこんな残酷な事を言う。
忘れられるわけが無い。半信半疑で向かった待ち合わせ場所で先生と合流できた時の気持ちも、猫が好きなのを覚えてくれていたのも、りんご飴を買ってくれた時の嬉しさも、触れた唇の柔らかさも、ぜんぶ本物だったのだ。簡単に忘れるなんて不可能であった。


「む…無理ですそんなの。だって先生わたしに」
「それ以上言わないで」
「なんでですか!?」
「声が大きいよ…」
「先生のせいじゃないですか!」


最早ここがわたしの家で、キッチンやリビングにはお母さんが居るかもしれないなんて事は頭から飛んでいる。
わたしが初めて大声をあげたので、先生は思わず口をつぐんでいた。その後で「そうだよね」「ごめんね」という台詞が聞こえくればまだ救われるのに、国見先生は何も言ってくれない。
先生、何か言って下さい。あなたがわたしにキスしたんじゃないですか。あなたがあの日、夏祭りに誘ってきたんじゃないですか。


「………先生が、どういうつもりで…キス、したのか、分からないですけど」


わたしが「キス」の二文字を発した瞬間、先生の瞳だけが揺らいだように感じた。


「忘れるなんて無理です。わたし、国見先生が好きだもん」


そして「好き」の二文字を発した時に、先生の目がついにわたしを捉えた。
暫く無言となり、目の色だけで会話をするように見つめ合うわたしたち。けれど先生が何を考えているのかは分からなかった。もう一度わたしが口を開こうとした時、国見先生は息を吸った。


「…ちゃんと考えたほうがいいんじゃない」


聞こえてきたのは何の感情もこもらないような声で、まるでテストの誤解答を指摘するような言い方だった。その声が氷みたいに冷たくて、本当にあの日一緒に歩いた人と同一人物なのか疑うほど。


「考えるって…?何をですか」
「錯覚してるだけだよ。あんなたった一回のキスのせいで、そういう気分になってるだけ」
「違…」


たった一回ってどういう事?先生にとっては過去に何十回、何百回経験したうちのほんの一回かも知れない。でもわたしにとっては、好きな人との初めてのキスだった。それをまるで、何かの間違いみたいに言うのが信じられなくて。


「忘れて」


と、嘘みたいに短く言うだけで話を終わらせようとする。そしてまた何事も無く目線を落とし、筆記用具を手に取った。わたしの気持ち、聞かなかった事にするみたいに。


「……なんで………?」


前触れもなく、急に涙が頬を伝った。

先生の前で悲しくて泣くのは初めてだ。部活を引退してやり切った時の涙や、他人に先生を悪く言われて悔しくて流した涙とは違う。国見先生の言葉がただただ悲しくて、頬に何本もの涙の筋ができていく。
でも先生はそれを見ない。気付いているはずなのに。あなたがわたしを泣かせてるって、分かってるはずなのに。

先生は目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。溜息かどうかは定かじゃないけど、気持ちを落ち着けるみたいに。それからまたゆっくりと、瞼を上げた。


「…勉強中だから。その話は終わり」
「先生、」
「なに?」


それ以上はやめろとでも言われているかのようだった。「なに?」、その一言の冷たさが、わたしの首を絞めるかのように言葉を奪われる。
こんな状態なのに話をやめろって本気で思ってるんですか。先生の事を好きな気持ち、どこかに捨てろって言うんですか。潤んだ瞳で訴えたものの、わたしから目を逸らしている国見先生に届くはずは無く。


「勉強以外の話は出来ない。俺は白石さんの家庭教師だから」


そのように、どうしようもなく当たり前の、変えようのない事実だけを突き付けられた。
その後どうやって二時間過ごし、どんな顔で先生を見送ったのかなんて覚えていない。