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美容室に行くと、生まれ変わったような気分になる。
自分ではできないようなヘアアレンジとか、髪の生える向き・髪質・顔の形をすべて考慮されたハサミの入れ方。
美容師さんが切ってくれる姿は何だか映画のワンシーンみたいな感じがして、それを褒めると「魅せる切り方だよ」と彼は言った。そんな魅せ方しなくても、充分素敵な人なのに。


「それは言い過ぎ」


大きな鏡の前に座るわたしの横で、花巻さんは吹き出した。
言い過ぎって事は無いと思う。だって花巻さんはわたしには勿体ないくらいの男の人だから。


「そうですか?絶対お客さんにモテるでしょ」
「出待ちされた事は何度かあるよ」
「出待ち!?」
「アイドルみたいっしょ?」


確かにアイドルみたいだ。美容師の人を出待ちする人なんか居るのか、と思ったけれど、そう言えば自分も「仕事帰りの花巻さんと会えないかな」と企んで遅い時間の予約を入れたんだっけ。

わたしがそれを企んで、道端で偶然元恋人と会い、偶然花巻さんが通りがかってくれたのは数週間前の事。つまりわたしと花巻さんが付きあい始めてからはまだ数週間しか経っていないわけだ。


「前髪巻く?」
「巻くー」
「ういー」


軽い返事をして花巻さんはコテを手に取った。わたしの前髪を器用に巻いて、希望通りのふんわりした状態になっていく。その時ちょっとわたしの額に花巻さんの指が触れるのが心地いい。って、何を考えているんだわたし。今から外出予定だっていうのに。


「いっつも思うけど女の子って大変だよな、いちいちセットしなきゃいけないなんて」


そう言いながら花巻さんはコテの電源を切った。
そう、今日わたしは髪を切っているわけではない。花巻さんにヘアセットをして貰っているのだ。実は友人の結婚式に出席するためにセットをしたくて、それを相談したら美容室のオープン前にこうして時間を取ってくれたのだ。


「花嫁が主役ですけど、やっぱり自分も可愛く見られたいし…」
「オンナノコってそうだよね」
「そう」
「コレどこに付ける?」


花巻さんがお花のヘッドピースを取り出した。髪の毛はすべてセットし終えたので、最後にこれをつければ完成だ。
首を左右に振りながら、自分の顔のどちら側に付ければ良いのかを見てみるけれど自分じゃよく分からない。


「えーと…左」
「左?」
「…右のほうがいいですか?」
「どっちでもいいよ」
「えー…じゃあ右」
「ぶはは」


花巻さんは笑い声を隠しもせずに吹き出した。だって分からないんだもん。とムッとした顔をしてみせると今後は優しく笑って見せて、


「右にしよう。そっちのが可愛い」


と、恥ずかしげもなくこんな事を言ってのけた。
こんなに近くで、耳元で可愛いと言われるのにはまだ慣れない。しかも今日は結婚式に参列するため気合を入れてメイクしてきたのに、嬉しくて顔がユルユルになってしまうではないか。


「…やめてくださいメイクが落ちちゃう」
「どうせ新婦の手紙のシーンとかで大泣きして落ちるよ」
「なんで涙もろいの知ってるんですか!?」
「知ってるってか、分かるよねー」


わたしが映画やドラマですぐに泣いてしまう事とか、結婚式でも新婦の入場・披露宴での手紙のシーンで泣くであろう事はお見通しのようだ。

そんな会話をしながら花巻さんがわたしの顔の向かって右側に造花をあてて、それを器用にピンで留めていく。
こんな大きな手でそんな繊細な作業が出来るなんて信じられないけど、これを武器に今まで美容師としてやってきたのだと思うと、やっぱり素敵だなあと思えた。


「目閉じてね」
「ハイ」


言われたとおりに目を閉じると、シャカシャカとヘアスプレーを上下に振る音が聞こえた。
やがてスプレーが頭の上を一周し、鼻まで独特のにおいが漂ってくる。頭の所々を花巻さんが丁寧に触り、細かい部分にもスプレーが施されていった。


「もうちょっとそのまま」
「ハーイ」


スプレーが目に入ったらいけないからと、わたしまだ目を閉じたまま待っていた。
が、それ以降スプレーの音がする事は無く。代わりに花巻さんの香水のにおいがするなと思ったら、唇にちゅっと柔らかい感触を感じた。


「は、っ!?」


びっくりしてついに目を開けると、鏡越しに花巻さんがしてやったりな顔をしている。わざと長時間目を閉じさせていたな、この人。


「ちょ、っと、やだここお店ですよっ」
「開店前だしスタッフ誰も来てないもーん」
「監視カメラとか無いんですか」
「レジのトコにしか無いもーん」


キスをされるのは勿論嬉しいし構わないんだけど、ガラス張りのお店の中で美容師の人とキスをするなんて誰かに見られていたら大変だ。
でも今日は日曜日の朝早い時間だから、外には誰も通っていなくて他のスタッフさんもまだ出勤していない。だからと言って不意打ちは困る。いくらカメラは遠い場所にあるとはいえ、最近のカメラは高画質なんだから。


「させて?もっかい」


でも花巻さんは一度じゃ満足できなかったみたいで、わたしがウンと言う前にもう一度キスをした。セットした髪が崩れないように、優しく頬に手を添えながら。
わざとなのかなと思うほど強く、かと思えば柔らかく、わたしの唇に何度も花巻さんのそれが重ねられる。ここに来る前にメイクを仕上げてしまったから、唇にはコーラルピンクの色が付いているのに。


「…も、グロス落ちちゃいますから」
「あとで塗りなおせば?」
「そりゃそうですけど、」


花巻さんの口に付いちゃうじゃないですか!という言葉は全部、花巻さん自身の口に呑みこまれた。気付けば花巻さんの服をぎゅっと握ってしまっており、これから仕事が始まるのに花巻さんのトップスはしわくちゃだ。


「……かわいい」


顔を離してもう一度、花巻さんが呟くように言った。


「…それ、もう言い過ぎですからね」
「白石さんだって俺のことカッコイイとかステキとか言い過ぎですからね」
「それはホントの事ですもん」
「俺もホントの事しか言ってませんもん」
「真似してるでしょ!」
「ふふふっ、マジおもしれー」


そう言って花巻さんは、わたしの座っていた椅子の高さを元に戻した。


「はい、ホントのホントに完成ね」
「…ありがとうございます」


改めて鏡を見てみると、ボブくらいの長さなのに編み込みがされており、トップは波ウェーブっていうんだろうか、そんなかんじでゆるく巻かれて少し盛られている。後頭部の絶壁がいつも以上に誤魔化されているようだ。
短い髪でも色々やりようがあるんだなあ、自分じゃ絶対に出来ないなと感心するしか無い。


「式って何時から?」
「11時です。10時半までに受付しておかないと」
「結構早いね」
「そうなんですよね…」


ここから結婚式場までは電車を一度乗り継がなければならないのだった。
鞄の中から小さな鏡を取り出して、さっき取れてしまったグロスを塗り直す。そんなところも花巻さんが横から覗きこんでくるので、彼から逃げるためにくるくる回りながら塗る羽目になった。…こんな事してるのも楽しくて仕方が無いんだけどさ。


「じゃ、楽しんできて」
「ハイ。花巻さんもお仕事頑張ってください」
「あんがとー」


お店のドアまで花巻さんがお見送りしてくれて、外に出ると太陽は良い具合に輝いていた。今日挙式をする友人は幸せだな、こんな天気のいい日に式を挙げられるなんて。
入口の段差を降りながら花巻さんに手を振ると、花巻さんもわたしに手を振り返して言った。


「いってらっしゃい、すみれちゃん」


危うく段から落ちそうになった。歩きにくいヒールを履いてるからじゃない。段差に気付かなかったわけでもない。花巻さんが不意打ちで下の名前を呼んできた!


「……名前!」
「フフフ」
「呼びましたね!?」
「どうでしょう」
「もう一回っ、」


呼んで下さいと言いかけながらまた段差を一段上がると、花巻さんは両手の人さし指でバツのしるしを作った。


「夜までお預けだよん」


いじわるだ。けど、夜になったら会おうねという事。
名前を呼ばれた嬉しさで思わず駆け寄ってぎゅっと抱き着きたかったのに、頭を撫でてもらいたかったのに、髪型を崩すわけには行かなくてジレンマだ。

仕方なく、本当に仕方なく諦めてくるりと振り向いた時にもう一度名前を呼ばれてしまって、もうだめ!と怒りながら花巻さんの胸の中に飛び込んでしまった。…髪の毛、崩れてないといいんだけど。