力任せにキーボードを打つ人はまったく魅力的じゃないなと、常々思っていた。苛々しているのが伝わって来るし、もし苛々じゃないにしても物の扱いが乱暴な人って事になる。
そんな人とはあまり関わりたくないなあと、思っていたのだが。


「白石さん、今日荒れてるね」


私もついにそんな人たちの仲間入りをしてしまったらしい。周りから荒れているねと声をかけられるくらいに、それがオーラとして放たれているらしかった。
けれど、そんなの仕方が無い事だと思う。今まで「会社の備品なんだからもっと丁寧に扱えばいいのに」と視線を送ってしまった皆さま、ごめんなさい。仕方が無い時もあるのだと、今日知ってしまった。


「…もう四時か…」


画面右下の時計を見ると、既に夕方の四時を回っていた。

こんなにも今日の私が苛立っている、と言うより余裕が無い事の理由はいくつもあった。
今日が私の誕生日で、それなのに先週彼氏に振られたばかりで、今日はまだ昼休憩に行けていないし、挙げればキリが無いほど苛々の原因が溢れてくる。
彼氏に振られた傷もまだ深いものの、目下のところ一番の問題は空腹だ。執務室内では堂々とつまみ食いが出来ないので、今日は朝の九時から現在まで液体しか摂取していない事になる。


「白石さん、ちょっと余裕ある?」
「あ、はい」


余裕なんか無いけど、先輩に呼ばれたので私は立ち上がった。そしてすぐに後悔した。笑顔で返事をしてしまった事を。


「よかった!これ明日提出なんだけど、今日中に赤入れが必要で」
「え…あ…明日?ですか」
「そう!明日の朝までにお願いできる?」


先輩が持っていたのは数十枚の資料で、それらすべてに目を通し、挙句赤入れまでしろと言う。一体何枚あるんだろうかと数える余裕なんか無い。


「あー…分かりました」
「ありがとう!」


この先輩には過去に何度か助けてもらっているし、ひとつも恩が無いわけじゃないし。でもよりによって誕生日、お昼ご飯を食べないまま定時を迎えそうな状態では頭がくらくらしてきた。
それに、私よりもっと適任そうな先輩が他にも居るではないか?と思った時、とても悲しい会話が聞こえて来た。


「今日どこ予約してるんだっけ?」
「ビアガーデン。駅前のとこだよー」
「あっ!気になってたとこ!」


…と、どうやら先輩方は今日ビアガーデンに行くという大事な用事があるらしいのだ。
そりゃあ一時間も二時間もかかりそうな赤入れ作業なんてやりたくないだろう、理解した。神様は私にこう言っているのだ「仕事に打ち込んで失恋を忘れろ」、「そうすればひとまず痛みを忘れる事が出来るだろう」と。


「主任も忘れないで下さいね、七時スタートですから」
「おっけー」


さっき私に頼み事をしてきた先輩は、主任にも声を掛けていた。

入社してから密かに憧れている人、及川徹さん。パリッとスーツを着こなして、誰に対しても平等で、仕事が出来て先輩後輩からの支持もある、つまりは人気者。見た目もいいもんだから女子社員のほとんどは及川主任を気に入っているだろう。それでも「憧れ」の範囲だから、皆彼と付き合おうとはしていない。高嶺の花っていうのかな?実際に私も別の彼氏が居たし、先週までは。振られましたけど。

ああ私も主任とビアガーデンに行きたかったなあ、誘われてないけど。きっと先輩たちと同期の人しか行かないから、行っても楽しめないだろうけど。一人残って仕事をするよりはずっと良い。

そこまで考えて、お腹が大きく鳴りそうだったので慌ててトイレに避難した。今日は最悪の誕生日だ。





六時を超えると人はだんだん減っていく。それは六時が定時だからと言うのもあるけど、今日は七時からビアガーデンが予約されているので、早めに切り上げて移動する人が多いのだ。

私はと言えばやっと自分の仕事を終えて、数時間前に渡された新たな仕事に取り掛かろうかと言うところ。それでも昼休みの一時間を削っているのだから、実質すでに一時間の残業をしている事になるよなぁ。別にいいんだけど。失恋のショックで少し痩せたから、せめてこのままぐんぐん痩せてくれれば良い。
渡された書類に目を通すため目薬をさした時、斜め向かいに座っていた先輩が鞄を持って立ち上がった。


「白石さん、大丈夫?」
「あ、はい…もうすぐ終わります」
「そう?じゃあ」


その先輩はビアガーデンには行かないのだろうけど、少しだけ私を気にしながら帰って行った。「もうすぐ終わる」なんて大嘘だけど、まあいいや。私が残って頑張っている事を、誰か一人でも知っててくれるだけマシ。


「…静かだなあ」


時刻は八時過ぎ。ビアガーデン組は大層盛り上がっている事だろう。…と、誘われてもいない飲み会のことを考えて虚しくなった。

そのうえ集中力を切らせながらの作業は効率がとても悪く、二時間で終わるだろうと思っていた書類の赤入れはこのままだと終わらない。だってまだ三枚しか読めてないんだもん、三十分くらい経っているのに。
誰も居なくなってしまったし、今なら引き出しにしのばせたお菓子を食べても文句は言われないだろう。糖分摂取しなきゃやっていられない。


「執務室内で食べるな」
「!!」


チョコレートを一粒口に放り込んだ時、後ろからぴしゃりと注意された。
ビックリして一度も噛まないまま飲み込んでしまい、喉を抑えながら振り向くと及川主任の姿が。チョコレートどうしてくれるんですか!じゃなくて、どうしてここにいらっしゃるんですか!


「や。課長だと思った?」
「お…及川主任」
「食べてていーよ、俺気にしないから」


及川主任は机の上に置かれたチョコレートの箱を指さして言った。課長はこういう事に厳しいけれど、この人はそうでも無いらしい。主任は私の席を通り過ぎて自分のデスクに向かうと、そこに腰掛けていた。


「…ビアガーデン、行かれてたんじゃないんですか?」


忘れ物でもしたのだろうか。それとも、残していた仕事があるのだろうか。にしてはパソコンを立ちあげる素振りが無く、及川主任はスマートフォンを触りながら答えた。


「行ってたよ。けど俺、お酒あんま好きじゃないんだよね」
「あ、そうなんですね…」
「帰ろうと思ってビルの前通ったら、電気ついてたから気になっただけ」
「えっ…すみません、もう帰るんで」
「そ?」


資料はまだまだ残ってるけど、お菓子を食べれば集中力が上がるかもしれない。終電までには終わらせる事が出来そうなので、及川主任にはもう帰ると嘘をついた。
私が一人で残っているせいで、誰が何をしているのか様子を見に来てくれたのだ。主任って本当に凄い人だ、私なら同じ立場になった時、こんな事が出来るかどうか分からない。
と感心していた時、目の前ににゅっと大きな手が現れた。


「半分貸して」


手のひら、手首、七分丈まで腕まくりされたシャツ、肩、と見上げていけば及川主任が私を見下ろしていた。
何を言われたのか理解出来ずにぽかんとしていると、主任は催促するように手を振った。もしかしてこの資料を、半分よこせと言っている?


「……え…あの」
「帰りたくないの?」
「か、帰りたいです」
「じゃあ貸して。さっさと終わらせるよ」


主任は私の机から無理やり資料を持ち上げて、半分以上を自席へ持ち帰ってしまった。
うそ。これって手伝ってくれるって事だよね。あの及川主任が。女子社員に見られていたら刺されるんじゃないかと心配したけど、そう言えば残っているのは私だけなのだった。
なかなか状況を把握出来ない私に「ん!」と及川主任が資料を掲げ、さっさと取り掛かれという合図を送られてしまった。

それからは私も何故か集中してしまい、今日一日の中で一番効率の良い働きをすることが出来た。最後の一枚は修正が要らなかったので、その紙をこれまでチェックした束に重ねて終了。
主任の進捗はどうだろうかと顔を上げると、ちょうど彼は立ち上がったところだった。


「終わった」
「…こっちもです」
「これ青木さんの机に置いとけばいいよね」


そう言いながら私の席までやって来て資料をひとつにまとめ、今はビアガーデンを楽しんでいる青木さんの席に置いてくれた。
その姿を見ているとちょうど壁にかけられた時計が目に入り、何と短い針が10の数字を指しているではないか。


「すみません…もう十時になっちゃって」


及川主任は元々、ここの電気が付いているのが外から見えただけなのに。わざわざ中まで戻ってきてくれて、仕事も手伝わせてしまった。


「別に俺はいいんだけど…たまには他人に仕事振る事も考えなきゃ駄目だよ。一人で抱え込んだからって残業してちゃ評価されないんだから」
「…ハイ。でも、みんな早く帰りたいだろうし」
「白石さんだって早く帰りたいでしょ」
「……ハイ」


渋々頷くと、及川主任は肩を落として自分のデスクへ戻って行った。鞄と椅子にかけていたスーツを持ち、帰る用意をしているようだ。


「主任、もしかして私がアレ頼まれてるの聞こえてたんですか」


私はふと気になってしまった。だって青木さんに仕事を頼まれた時の会話を聞いていなければ、私が何の作業をしていたのか分からなかったはずだ。
すぐに半分を持ち帰り取り掛かってくれたという事は、聞こえていたのかも知れない。だとすれば、手伝うために戻って来てくれたとか?


「聞こえたよー。でも手伝うつもりじゃなかったよ?まさか一人でこんな時間まで残ってるとは思わなかったからさあ」
「お、お恥ずかしい…」
「いいって。電気消すよ」


どうやら私のために戻ってきたわけじゃなく、本当に電気が付いているのが気になっただけらしい。そこに居たのが偶然私だったってだけか。彼氏に振られたばかりなのに、こんな事でちょっと残念な気分になるなんて自分でも驚きだ。
フロアを消灯し、戸締りもすべて及川主任がしてくれて、私たちがやっとビルを出たのは十時過ぎ。


「ホント、ありがとうございました」
「いいえ」
「じゃあ…」
「白石さんラーメン好き?」
「え」


ラーメン?社会人になってからというもの、こんな遅い時間に「ラーメン」という単語を耳にするのはテレビ番組くらいであった。だってこんな時間からラーメンを食べるなんて、明らかに太ってしまうから。
でも好きかどうかと聞かれると、答えは決まっていた。


「す、すきです」
「ラーメン行こう」
「!?え、主任ビアガーデン行ったんじゃ」
「ああいうとこのご飯って美味しいけど、腹いっぱいにならないんだよね」


ビュッフェスタイルのビアガーデンでのご飯より、ラーメンが好きらしい。いつも何かとスタイリッシュな主任とは思えなかった。


「それに今日、何も食べてないだろ」


それに、そんな事まで及川主任に知られているなんて思いもしなかった。


「…はい」
「誕生日祝いに奢ってあげる」
「えっ」


びっくりして聞き返そうとした時にはもう、及川主任は歩き始めてしまっていた。長い脚で進む一歩一歩は私のそれとは大違いで、慌てて小走りで追いかけるしかない。何故だか使命感を持ってしまった。空腹と急に増えた仕事のせいで、自分でも忘れかけていた事を聞くための。


「あのっ、今日、誕生日って」
「さっさと行くよー」


しかし主任は歩く速度を緩めることなく、さっさとラーメン屋さんへ向かってしまった。
こんな時間にラーメン、普段なら相手が及川主任だったとしても絶対に断るはずなのに。今日だけは特別に食べてもいいか、と思えてしまった。理由はきっと今日が誕生日だから、あるいは主任に好意を持ってしまったから?今日のところはお腹が空きすぎて、そこまでは判断できないけれども。

ハングリー