24


気付いたら浴衣のまま一人で突っ立っていた。ユリコからは「どこ?」というメールが来ていて、返さなくてはと思いながらも別の事で頭がいっぱい。国見先生に、キスをされてしまった事で。

先生はあれからすぐに、我に返ったように目を見開いた。
しばらく見つめ合っていたわたしたちは、どちらも言葉を発する余裕が無く。わたしは勿論驚いて声も出なかったのだが、国見先生のほうは「やってしまった」という表情であった。後悔しているような。

後悔するくらいならキスなんてしないで欲しかった。その様子を見てわたしは胸が痛くなって、すみません、と何が何だか分からないまま謝った。
調子に乗って待ち合わせに来てすみません、元カノさんの前で恥をかかせてすみません、少しでも期待してしまってすみません。

先生は「ごめん」と一言言ったのみで、その後は挨拶もせずに立ち去った。
勢いに任せてキスなんかしてごめん?それとも、思わせぶりな態度をとってごめん?もう何が何だか分からない。好きな人にキスされて、こんな気持ちになるなんて想像もつかなかった。


「…あ、居た!先生は?」


ユリコには、無事に先生と合流出来ていたのはメールで伝えていたのだった。
けれどその後どうなったとか、どこに居るというのは報告していない。ただそろそろ花火が上がる頃だから、わたしたちがいい雰囲気で居るのかどうか気になったらしい。でも残念、わたしは今ひとりだ。


「………先生、帰った」
「え!?」


その驚きはもっともだ。わたしだってまだ信じられない。先生が帰ってしまった事よりも、先生にキスをされた事が、だけど。
先生の唇が触れた瞬間、口いっぱいの甘さを感じたのはほんの一瞬だった。すぐにわたしも我に返ってこの人は「先生」なのだと思い出し、先生が咄嗟に謝ったのを聞いて更に実感した。過ちを犯してしまった事を。


「…ユリコ、ごめん。帰りたい」
「どうしたの」
「帰りたいよぅ……」


せっかくユリコが施してくれたチークが消えてしまうかも。そんな事を考える余裕もなく涙が頬を伝うのを感じた。
ユリコにはわたしの姿を見て何があったのか詳細までは分からないだろうけど、先生との間に何かしら起きたのだと言うのは伝わったようで。


「次の家庭教師は明日?」
「…明日は休みなの。先生が元々都合悪い日だったから」
「そっか」


幸か不幸か、明日は家庭教師が休みであると一ヶ月前から決まっていた。先生の顔を見なくて済む。でも先生に会えない。何故わたしにキスをしたのか、聞くチャンスは与えられない。


「じゃあとりあえず一週間落ち着いて考えてみたら」


悶々としたわたしの肩を揉みながら、ユリコが言った。


「考えるって何を?」
「生徒の立場を超えてまで、先生のことを好きなのかどうか」


わざわざ遠まわしな待ち合わせをしてまで、これからも外で先生に会いたいのかどうか。元カノさんにひどい事を言われたとしても。

例えわたし達が両想いだったとしても、そこには色んな問題が立ちはだかる。
わたしは未成年だし、先生は大人だ。仕事としてわたしの家に来て、家庭教師としてわたしち接する義務がある。生徒と恋愛関係になるなんて大問題に決まっている。それが分かっているのに、このまま先生の事を好きで居ても良いのか。


「向こうだってきっと考えてるよ」


ユリコのこれはきっと本当だと思う。少なからず先生も考えているだろう。そうじゃなきゃキスをした後、わたしに謝った直後に帰ったりしない。
ほんの衝動だったのか、それともわたしへのキモチがあったのか、元カノさんに嫌な事を言われてむしゃくしゃしていただけなのか、理由はなんにしても生徒の唇を奪った事は重大だ。


「あれ?お前ら来てたの?」
「あ」


漸く涙も落ち着いてきた頃、聞き覚えのある声がした。ユリコが「げっ」と言うのも聞こえた、そこに居たのは小田くんだ。この前偶然会った時、揉めてしまった相手である。


「お…おっ?小田っち!何で」
「何でって近所だし。友だちと来てる」
「あ、ああ…うん、そうか」


小田くんと何があったのかをユリコは知っている。告白されそうになった事とか、先生を悪く言われて怒ってしまった事も。だからユリコは小田くんの登場に慌てていた。


「…白石どうかしたの?」


その慌てるユリコの隣には、「さっきまで泣いてました」と顔に書かれたわたしが立っている。小田くんはわたしの目元を見て疑問を抱いていた。


「なんでもない」
「え、嘘」
「大丈夫だから!ちょっと色々あって色々落ちてるだけだから!」


ざっくり言うとそれで正しい。ユリコの説明に頷いてみせたけど、小田くんはあまり納得がいかない様子。と言うよりは「色々あって」の「色々」に引っかかるらしく。


「……俺のせい?」


と、眉を下げて言ったのだ。


「…違う。」
「ほんとかよ」
「違うから…」


少なくとも今日起きた出来事には関係無い。否定してみたものの小田くんはそこを動かなかった。それほど先日の出来事に罪悪感を持っているのかもしれない。あの時はわたしも悪かったのに。
小田くんはユリコに目配せして、わたしをジッと見下ろした。


「ごめん。二人で話していい?」
「え」
「すぐ返すから。絶対変な事しない」


先生とあんな事があった直後に、小田くんとふたりで話すなんて精神が追いつかない。けれど、これは断れないと思った。この間ちゃんと話す時間はあったのに、聞こうとしなかったわたしが悪い。

ユリコは妹たちを連れて近くのベンチに座っておくと言い、わたしは小田くんの後ろを付いて祭りの喧騒から離れた。


「何があったのか分かんないけど…それは突っ込まないけど」
「……」
「このあいだはゴメン」


小田くんは静かに謝った。このあいだ街で偶然会った時、彼は恐らくわたしに告白しようとした。
わたしはそれを「ここでは言わないで」と、訳の分からない理由で言わせないようにしたのだ。小田くんの気持ちと向き合わずにやり過ごそうとした。
結果、小田くんを怒らせて先生の事を言われてわたしも怒り、良くない雰囲気で解散してしまったのである。


「いいよ…わたしも、カッとなって」
「俺のほうこそ」
「ううん」


海に行った時も思ったけれど、小田くんはとても良い人だ。この人の事を好きになれたらさぞ幸せだろうと思う。なんたってクラスメートだし、周りの皆が祝福してくれるはず。


「…白石、あの時俺に言わせてくれなかったよな」


間もなく花火が上がる方角を見ながら、小田くんが言った。ゴクリと喉が鳴ったが、小田くんの喉仏も揺れていた。わたしたちどちらも緊張しているのだ。


「好きなんだけど」


すごく柔らかい気分だった。小田くんは身体ごとわたしを向いて、わたしも小田くんのほうを向く。正面を向いて話さなきゃいけないから。


「白石、好きなやつ居んの?」
「………」


好きな人。ほんの少し前までは愛だの恋だの何も考えていなかったけど、この「好き」に気づくことが出来たのは小田くんのおかげでもある。
好きな人はいる。本当は好きになっちゃいけない人だけど、気持ちはもう止められない。


「いる」


その人はついさっきわたしのファーストキスを奪って行った。
本来ならば家庭教師は生徒とキスなんかしない。待ち合わせてお祭りなんか歩かない。けれどわたしたちはまだ、教師と生徒という関係から抜け出せていない。先生の気持ちだって、ハッキリとは分からないのである。
でもひとつだけハッキリした。わたしは国見先生のことを尊敬していて、憧れて、好きであると。


「わかった」
「え、」
「スッキリした」
「えっ?」


また一悶着起きる事を覚悟していたけれど、小田くんはあっさりと頷いた。それどころか拍子抜けしたわたしの顔を見て吹き出された。


「この前さ、告白すら拒否られたのショックだったからつい…やな事言ってごめんな」


立派な人だと思った。あの時はわたしのほうが悪かったのに。小田くんも後悔してくれていたのだ。


「……わたしのほうこそごめんね…」
「いい。早く元気だして」


わたしの涙の理由は知らないのに、あるいは勘づいているかも知れないのに。わたしだったら失恋した相手にこんな事言えない。
小田くんの姿を見ていると、わたしも先生にちゃんと気持ちを話したほうが良いんじゃないかと思えてきた。