09


日曜日の夜は、とても静かだ。みんな翌日からの仕事・学校に備えて早めに帰宅し、身体を休めているのだろうと思う。だから車道に面しているとは言えあまり音の無いこの道に二人きりで突っ立っているのは、とても緊張する事であった。


「…出しゃばっちゃった?」


バツが悪そうに姿を消した元恋人が見えなくなってから、花巻さんは先ほどと打って変わって明るく言った。


「そんな事ないです…そんな事」


わたしはと言うと、何か月か前に付き合っていた人から言われた数々の言葉にショックを受けてはいるものの、他にも色々なものが頭の中をぐるぐるしている。
花巻さんがまた助けてくれた。わたしと元彼との間に入ってくれて、わたしを庇うような事を言ってくれた。それが申し訳ないし、情けないし。


「すみません…」
「えっ」


花巻さんに助けてもらったのはとても嬉しい事だった。でも、嬉しさよりも今はあんなにいい加減な人と付き合っていた自分が情けない。あんな人の事で花巻さんに迷惑をかけた事が。
謝っても謝り切れないと思いながら何度も謝罪の言葉を述べたけど、花巻さんはそれを受け入れようとはしなかった。


「なんで謝んの?白石さん何か悪い事した?」
「だって…花巻さん、関係ないのに」
「俺が勝手に首突っ込んだんだよ、だから気にしないで」


この人はいつも百点満点の言葉をくれる。社会人のくせに今ひとつ殻を破る事が出来ないわたしを導いてくれる。優しい言葉で、優しい声で。
だからそれに甘えてしまうのだ。失恋して弱っているふりをして、花巻さんの優しさにつけ込んでしまうのだ。


「…すみません」
「謝らないで」
「……」
「ほら顏上げて、せっかく可愛くしてあげたんだから」


また花巻さんはわたしの事を「かわいい」と言った。わたしを励ますための言葉。元彼に酷い振られ方をしたわたしを気遣っているだけ。だから、そんなに期待してしまうような事は言わないで欲しい。


「…可愛くなんかないです」
「可愛いよ」
「やめてください」
「やめない」


いくら相手が花巻さんでも驚いた。一体何を言っているんだこの人は、と。


「白石さんは可愛い。俺が保証する」


その言葉にびっくりして声も出ないわたしを、花巻さんは優しく見下ろしていた。
わたしが可愛いって、それを花巻さんが保証してくれるって。まるでわたしの事を特別扱いしているみたいだ。そんな事ってある訳ない。


「…な…なんで、そんなこと」
「なんでって、そりゃあ…」


わたしは沢山いるお客さんの一人だ。お店に通ったのはほんの四回ほど。今日がおそらく五回目だ。偶然花巻さんがわたしを担当してくれて、そのうち偶然わたしに彼氏が出来て、失恋して傷心しているわたしの元へ、花巻さんが偶然通りがかっただけ。の、はず。

なのに、いつも余裕ありげなお兄さんの花巻さんが、この時初めてわたしの前で言いにくそうにしていた。そんな彼の口から聞こえてきたのは、思いもよらない言葉であった。


「……軽蔑されるかも知れないけど。俺、白石さんの事けっこう前から好きなんだよね」


ついさっきヘッドスパをしてもらったばかりなのに、頭髪を含む全身の毛が逆立つような感覚。花巻さんがわたしの事を好き。しかも、けっこう前から?それってどのくらい前?


「最初は何とも思ってなかったんだけど…いや、ちょっと気にしてた程度だったんだけど」
「いつ…うそ」
「黙ってようかと思ったよホントは。でもさっきみたいなの見せられたら、放っとけないと言いますか」


うまく言葉を返せないわたしを気遣う素振りを見せながらも、花巻さんは話を続けた。
初めてわたしが花巻さんのお店に行った日の事。彼氏が出来たと報告した日の事や、先日元恋人と鉢合わせて助けれくれた時の事。今日のヘッドスパに誘ってくれた時の事を。


「…ずっとそんな事考えながら髪触ってたのかって思うと、気持ち悪いだろうと思う。本当にごめん」
「え、あの」
「言わなきゃ良かったかな…って遅いか」


花巻さんはへらりと笑って頭をかいた。わたしが何も言わないもんだから、困らせていると思ってるのかも。
そうじゃない。困ってるわけじゃない。いや、ある意味困っているんだけどそういう事じゃなくて。


「花巻さんは…気持ち悪くなんか、ないです」


そう言うと、花巻さんは眉を下げて笑った。


「いいよ、そんなふうに言ってくれなくて」
「ちが…本当ですから!それにわたしも謝らなきゃいけないことが」


花巻さんばかりがそんな顔で、そんな事を言わなくていい。わたしのほうが卑怯で気持ち悪いんだから。わたしのほうが、謝らなきゃいけないんだから。


「わたし…もう、あの人の事なんか引きずってないんです。未練はないです」


正確に言えば、つい先日まで未練はあったけれども消え去った。もちろん勝手に未練が消えたわけじゃない。花巻さんが消してくれたのだ。


「…そうなの?」
「花巻さんが構ってくれるのが嬉しくて…傷ついてるふりして、わたしのほうこそ強かで打算的でヒドイ奴なんです」


花巻さんの優しさにつけ込んで、最近は無意識のうちに優しい言葉をかけられるのを待っていた。今日だって遅い時間にお店に行けば閉店後の花巻さんに誘われたりとか、こうして偶然会えるのを期待していたから。
元恋人に出会ったのは完全に誤算だったものの、結果的に花巻さんに迷惑をかけた。嫌なところを見せたし、酷い思いをさせてしまった。


「……ごめんなさい」


だから、こんなに素敵な人がわたしの事を好きなんてあるはず無い。絶対に何かの間違いだ。わたしの事を励まそうとしてるとか、慰めようとしてるんだ。


「なんで謝るの?」


…それなのに、花巻さんは曇りひとつない顔で質問してきた。


「え…だって」
「今ってそんな顔するトコじゃなくない?」
「え」
「白石さんも俺が好きって事じゃないの?」


さっきとは違う種類の驚きで瞬きをした。こんな単刀直入に聞かれるとは思わなくて。でも嘘を答える訳には行かず、今更気持ちを隠すつもりも無いし、わたしはゆっくりと頷いた。


「……すき…で、す、」
「じゃあ何でそんな顔してんの!喜べよ!俺も白石さんが好きなんだから!」
「えっ」
「好きなんだってば。白石さんを」


花巻さんは、自分とわたしとを交互に指さしながら言った。
さっきは戸惑ってきちんと消化出来なかったけど(正直まだ嘘みたい)、花巻さんが確かにわたしを好きと言った。わたしも花巻さんの事を好きだと知って喜んでいるように見える。嬉しいのかな。本当に?
と、立ったまま硬直してるわたしを心配してか、花巻さんが顔を覗き込んできた。


「聞こえてる?」
「!え、あの、はい」
「まさか俺だけが夢見てる?」
「違う…と、思いま…」
「だよな!やべえ…テンション上がる」
「あの…?」
「くっそやべえ…」


花巻さんはいても立っても居られない様子で辺りをウロウロし、頭をぐしゃぐしゃに掻きむしって両手を上げた。その手でグッとガッツポーズ。大声で叫ぶのを必死に我慢するみたいに。
その姿がまるで少年のようで、花巻さんてこんな顔とか仕草をする人だったっけ?とわたしは冷静になってしまった。


「…ゴメン。取り乱した」


その冷静なわたしを見て、花巻さんは我に返ったようだった。


「だ、大丈夫です…ていうか花巻さん…キャラが違う」
「そう?俺ってこんな奴だよ」


そして、花巻さんはまるで締まりのない顔で笑ってみせた。
優しくて格好よくて大人っぽい素敵な美容師のお兄さん。でも今はその笑顔が凄く可愛くて、そんな顔でわたしの事を好きだなんて言われたら、即答出来ないのも無理は無いと思わないんだろうか。わたしは今必死で現実を受け止めようとしてるんだから。


「だから、こんな俺で良かったら付き合ってもらえませんか」


けれどどうしても我慢出来ないらしい花巻さんはわたしに心の準備が出来る前に、両手を取ってこう言った。
彼の言う「こんな俺」があまりにも完璧すぎたので信じられなくて、やっぱり頷くまでに時間がかかったのは言うまでもない。