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ふわふわと浮かれていた気分が一転、わたしたちの間にピリッと緊張感が走った。

声をかけてきた女の人は雑誌のモデルのように綺麗な浴衣姿で髪もきちんと結わえられており、浴衣の色にピッタリの下駄や鞄を持っている。
唯一彼女の表情だけが、完璧ではなかった。わたしと国見先生とを交互に見ながら、言葉を失っていたのだ。
無理もない、その人は国見先生が先日別れた元カノさんだったのだから。


「…なにしてんの?」


元カノさんは誰かと待ち合わせをしているのか、手元に携帯電話がある状態でひとりで立っていたが、やがて静寂を破った。
元カノさんからすればわたしは初対面で(わたしは何度か見かけた事があるけれど)、主に国見先生に向かって質問をしているようだった。


「別に。何もしてないけど」


先生は一切の表情も声色も変えずに答えた。しかしこの時ばかりは、先生が元々こういう時でも表情が変わらない人なのか・それとも努めて無表情を貫いているのかが分からなかった。


「それって新しい彼女?」


今度は元カノさんはわたしを指差して言う。自分の事を「それ」呼ばわりされたのは少しカチンと来たけれど、それは二の次。わたしと国見先生が並んでいるのを見て、わたしの事を彼女だと思われてしまった事が問題だ。

勿論、恋人同士に見えるのならばそれは嬉しい。わたしは先生の事が好きだから。
でも、決してそのような関係になってはならない。決して、このような場所で二人きりで歩いていてはならない。わたしたちは家庭教師と生徒という間柄なのだから。


「違うけど」


国見先生はわたしを彼女では無いと答えた。それは間違いでは無いし、この答えが一番穏便に済む内容だというのに、こんな時でもわたしは少し残念な気分になってしまった。彼女では無い、と即答されてしまった事に。


「ほんとに彼女じゃないの?」
「違うっつってんじゃん」
「…もしかしてその子、高校生じゃないの」


ぎくり、と思わず身体が揺れそうになったのを必死に堪えた。わたしが反応してしまったら肯定するようなもんだ。
しかし国見先生も元カノさんの質問に答えず黙っていたせいで、彼女はそれを肯定と受け取ってしまったらしい。


「何、わたしに振られたからって今度は高校生に手ぇ出すわけ」
「は?」
「精一杯オシャレしちゃってるけどさ、その子見るからにガキじゃん」


元カノさんはわたしのほうを見てかすかに笑った、というか明らかに馬鹿にされた。こんなの面と向かって言われるのは初めての事で、わたしは開いた口が塞がらない。

悔しい、何かを言い返してやりたい。でも実際わたしは高校生の子ども。元カノさんは女子大生でしかも美人だ。
それにわたしが高校生だと知られたらまずい。もし生徒と教師の間柄では無かったとしても、成人済みの先生が未成年のわたしと一緒に居るなんて、世間的には良くない事だ。


「英ってそういう趣味あったんだ。なんか残念、英とならヨリ戻してもいいかなって思ってたのに」


先生とわたしが黙っているのをいい事に、元カノさんは言いたい放題。
今は別の彼氏がいるくせに、先生とよりを戻す?そんなの絶対に嫌だ。わたしだって国見先生のことが好きなのだ。他の男性なんか興味ない。国見先生だけが好きなんだから。
やっぱりわたしは自分の事を言われるよりも、先生の事を侮辱されるのが頭に来てしまった。


「……俺はお前が残念だよ」


もう我慢ならない、とわたしが抗議しようとした時。
国見先生が静かに発言した。声はとても静かだし、顔はやはり無表情なのに、先生からはとても冷たい空気を感じた。


「…はあ?」
「全然変わらないんだな」
「どういう事」
「お前の事は好きだったけど。他人をそうやって貶すところは前から嫌だった」


聞いた事のない国見先生の声。いつも基本的には低い声だけど、今は違う。声が冷たい。怒っているんだ。


「な…なにそれ?貶してないじゃん!大体そんなコドモ連れて歩いちゃって、あんたのほうが不利なんだからね」
「いい加減にしろよ。この子とは偶然会っただけだから」
「嘘つかないでよ」
「疑うなら携帯チェックしてみれば、得意だろ?」


そう言って、国見先生はポケットから携帯を取り出し元カノさんに押し付けた。

確かにわたしたちの約束は口頭だったから、携帯に待ち合わせの履歴は残っていない。しかしそれを証明するよりも「得意だろ?」という言葉のほうが、先生の一番強い攻撃だったようだ。恐らく先生は過去に、この人に携帯を見られた事があるのだ。

元カノさんは目の前に突き出された先生の携帯をしばらく睨んでいたけど、それを手で振り払って言った。


「……最低」
「こっちの台詞。」


先生は何事も無かったかのように、再び携帯電話をポケットに入れた。

その間に元カノさんは何も言わず、夏祭りの人混みの中へ消えていった。せっかくの綺麗な浴衣姿は、彼女から出るマイナスオーラで台無しである。その背中がやっと見えなくなった時、国見先生が隣で溜息をつくのが聞こえた。


「……あの」
「行こう」
「え」


初めて先生の手がわたしの腕を掴んだ。そして強引に歩き始めるとわたしも手首を引っ張られてしまい、慣れない下駄で一生懸命付いていくしかない。


「先生っ、あの、」
「……」


まだ怒っているのだろうか。もしかして、わたしがボヤッとしてその場に留まっていた事を迷惑に感じてしまった?空気を読んですぐに姿を消せば良かったかもしれない。もしかして先生はわたしにも怒りを覚えてる?
戸惑いを隠せないまま先生について行き、人混みから外れた静かな場所に着いた時、やっと先生は手を離した。


「…嫌な思いさせてごめん」


そして、なんとわたしに向かって謝ってくれたのだ。とても申し訳なさそうに、心からお詫びを言っているかに見えた。先生は謝る必要なんか無いのに。


「…わ、わたしは大丈夫です…けど、それより先生が」
「俺の心配なんか要らないよ」
「でも…」


心配するなと言うほうが無理な話だ。今まで見たことも無いほど、先生の表情は暗かった。


「先生、すごく悲しそう」


国見先生は静かに首を振った。そんな事ないよ、と言うかのように。
全部わたしのせいだ。受験生のくせに、高校三年の夏休みなんかに、家庭教師の先生に恋をしてしまったわたしのせい。その気持ちを上手く制御できなかったわたしが悪い。


「ごめんなさい。わたしが変な事言ったからこんな事に」
「白石さんのせいじゃ…」
「先生とプライベートで会えるかどうかなんて聞いたのはわたしです!あんな事言わなきゃよかった」


わたしはもう一度、ごめんなさいと頭を下げた。それと同時に涙が出てきて、何でこんな事になってしまったんだろうと後悔の念が押し寄せる。
先生の事なんか好きにならなければ良かった。好きだって事に気付かなければ。そうしたら先生もわたしもこんな思いをせずに済んだのに。わたしが誘うような事を、誘って欲しそうな事を言ってしまったから。


「…それに応えたのは俺だよ」


けれど先生は、うろたえるわたしの頭に優しく手を乗せた。
あ、髪の毛ちゃんとセットしてもらったのに。なんて事を気にする余裕なんか無くて、温かい手の感触に、先生の低い声に引き寄せられるように顔を上げた。だってどうしても聞きたい事が出来たから。


「どうして、応えてくれたんですか…」


先生はその質問に答えない。黙ってわたしを見下ろしたまま、わたしも黙って先生を見上げたまま、一体何秒・何分が経過したのか分からない。

やがて空がぱあっと明るくなったかと思えば太鼓のような音が聞こえてきた。打ち上げ花火だ。
色とりどりの花火が光るその下で、先生の黒髪は花火の光に照らされて不思議な色を写していた。そしてそれが少し暗くなったと思ったら先生の顔が近付いてきて、


「……せんせ…、?」


と、わたしが声を出した時にはもう何もかもが遅かった。
もう少し早くに声を出していたなら先生は動きを止めてくれたかも知れない。好きな人に唇を奪われていくための、心の準備が出来ていたかも知れないのだけれど。