08


「今日はありがとうございました」


すっかり暗くなった頃、ヘッドスパを終えたわたしはお店の前で花巻さんに見送られていた。
本当に少しのお金しか請求されなくて、下心を持って来てしまった自分が恥ずかしい。花巻さんはただ、まだわたしが失恋して落ち込んでいるだろうと声をかけてくれたのに。


「こちらこそありがとう。うわっ、もう暗いな」
「ですね…でも近いので」
「そう?」


本当は「家まで送ろうか」なんてのを期待してしまったけど、そこまで世話になるわけにいかない。しかも花巻さんはわたしの事をどう思ってるのか分からないし、嫌われてはいないにしても調子に乗ると絶対に良くない事が起こる。このまま大人しく帰るのが得策だ。


「じゃあまた」
「ハイ」


お店の前でお別れをして、暗くなった道を歩き始めた。
暗いとはいえ街灯もあるし、道沿いには営業中の飲食店もちらほらあるので特に危険な場所では無い。ただ、日曜日の夜という事もあり普段ほど人通りは多くないそこをゆっくりと歩いていた。花巻さんの声や顔を思い出しながら。

わたしの事を「かわいい」と言うのは、「施術前よりはマシだね」という意味…だよね。どう考えてもわたしより可愛いお客さんは沢山来るだろうし、あのお店で働く別の美容師の女性なんかめちゃくちゃ美人だ。お店の人と花巻さんが付きあっている可能性だってゼロではない。というか、花巻さんとわたしが付き合うよりも可能性が高い。

そこまで考えて、情けなさに肩を落とした。
ちょっと優しくされたからってまた、人を好きになってしまった。すぐ信用して好きになるのはきっとわたしの悪い癖だ。


「…ん」


気を落として歩いていると、視界の中に誰かの足が見えた。その足先はわたしのほうを向いている。誰だろう。
もしかして花巻さんが先回りして待っていたりして!などと、自分でも驚くほど能天気な事が浮かんで顔を上げた。


「あれ?…おまえ…」
「……!」


ぎょっとした。またもやこんな場所、美容室の近所で会ってしまうとは。元恋人である誠がそこに立っていたのだ。
彼は携帯電話を触っていたので誰かとの待ち合わせなのか分からないけど、わたしは無視して前を横切ろうと足を進めた。


「あ、ちょっと!待てって」
「やだ」
「すみれ」
「来ないでってば」
「待て!」


力強く腕を引っ張られ、肩にかけていた鞄がずるりと落ちた。
痛くはないけど、腹立たしい。自分から浮気をして別れたくせに、何故いちいちわたしに話しかけ「待て」なんて言われなきゃならないのか。


「何?」


だからわたしの声は、付き合っていた頃よりも低くて冷たかったと思う。今じゃもう未練なんか無いし、ただただ勝手に振ったくせに勝手に追いかけてくるこの人への拒否反応しか無いのだった。
誠はわたしがそんな態度を取る事に驚いたみたいで、一瞬たじろいでいた。


「…何も無いなら帰るけど。」
「なんで?せっかく会ったんだし飯でも行こうよ」
「はあ?いかないよっ」
「どうせ暇だろ」


それなのに、未だにわたしの事を下に見ているのが目に見えて分かるのが悔しい。わたしはもうあなたの事なんか好きじゃない。


「暇…じゃないし、ていうか彼女居るんだからほっといてよ」
「別れたよ彼女なんか」
「はい?」


振り払おうとしていた手から力が抜けた。
別れたって言った?
「ごめん、他に女できた」とわたしを振ってから二カ月も経っていないはずだ。あれほどわたしを苦しめたくせに、ほんの二カ月足らずで?そう言えばわたしもこの人と付き合ったのは四カ月くらいであった。
振られた時は自分が悪かったのかもしれないと悩んだけれど、そうじゃない。この人がそもそもいい加減なのだ。


「…とにかくもう、わたしは好きな人できたから!」
「は?誰」
「そんなの言う必要ない」
「誰だよ」


彼の手に再び力が入る。今度はちょっと痛いくらいの強さで腕を握られて、ほんの少し恐怖が過った。


「あれ、白石さ……ん。」


その時、これって運命なのか偶然なのか分からないけど、花巻さんがロードバイクで通りがかったのだ!
ここはお店から歩いて数分の場所だし、花巻さんの通勤路なのかもしれない。わたしに声をかけようとしたけれども、一緒に居るのが先日も目撃された元恋人だった事・何やらよくない空気である事を察したようだ。


「花巻さん…」
「…だいじょうぶ?」


ちらりと誠のほうを見てから花巻さんが言った。正直言って大丈夫とは言い難い。「こんな場面に花巻さんが来てくれた!ラッキー!」なんて浮かれる余裕は無い。
何も言わないわたしを見て、花巻さんは乗っていたロードバイクから降りた。


「…何?もう新しい男作ったわけ。好きな人ってその人?」
「え!?ちが」
「美容師なんか稼ぎも無いし休みだって少ないしイイトコ無いだろ」
「じ…自分だって美容師じゃ」
「辞めたよ。つい最近」


本日何度目か分からない衝撃は、なんと彼はもう働いていた美容室を辞めたという事だ。なんだか頭がくらくらしてきた。


「今は就活してんの。ちゃんっと週休二日貰えるところに」
「……」
「そしたらすみれの事だってないがしろにしなくて済むし、一緒にいいとこ住めるじゃん」


偉そうに美容師になるとか俺は美容師とか言ってたくせに、もう違うのかよ。呆れて言葉を失った。


「あのー…ちょっといいですか」


文字通りポカンと口を開けて棒立ちになったわたしは、花巻さんから見ると「ショックで言葉も出ない可哀想な女の子」だったのだろうか。花巻さんが片手を挙げながら話に入ってきた。


「俺、ヤラシイ話ですけど歩合で満足いくお金貰ってますので」


と、花巻さんは嘘か本当か分からないがお金の話を始めたではないか。
わたしはそれにもビックリして目を見開いた。これって一体どんな状況だ。しかし花巻さんは少なくともわたしの味方であり、元恋人の行き過ぎた言動に対し不快感を示している事だけは感じた。そして当然そんな態度でそんな事を言われたら、誠のほうも頭に血が昇ってきたらしく。


「…客がずっと伸ばしてた髪をあっさり切るのが美容師の仕事?」
「ちょっと…」
「いいよ白石さん、そう来るなら言わせてもらうけど」


わたしが止めに入ろうとしたものの、花巻さんのほうから腕を伸ばしてわたしを制した。
ふと花巻さんを見ると、いつもにこやかな花巻さんの顔には全く笑顔が見られない。むしろ怒っている?それは誠がわたしに対して酷い態度を取ったせいか、美容師という職業を悪く言われたせいか。


「俺はお客さんが望むならそのとおりに切るよ。実際この子は可愛くなっただろ?だから惜しくなったんだよな?」
「は…?」
「長い方が好きって好みを押し付けてたみたいだけど、この子に似合う髪型を見極められなかったお前にそんな事言われたくないね」


びっくりだった。花巻さんがそんな口の聞き方をするなんて。こんな怒り方をするなんて。花巻さんが、こんな事を考えていたなんて。

このほんの十分くらいのあいだに起きた出来事には衝撃が多すぎて、わたしの小さな脳味噌では整理するのに時間がかかりそうである。