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なりたかった職種、職場は家からロードバイクで通える距離で人間関係も良好。二十歳のころから同じ店で働いているおかげで常連さんの顔や名前を覚える事も出来、そのうち新人を教える立場になった。

俺がまだ入店したばかりの時には沢山の先輩が居たが、女性は結婚して退職したり、男性は独立して自分の店を持ったり、あるいはまったく別の仕事を始めたり。
七年間はめまぐるしく過ぎて行ったもののとても楽しくて、担当したお客さんが来店時とは全く顔色を変えて帰っていくのを見送るのは気持ちが良かった。
やっぱりこれって天職かも、と美容師しか経験した事の無い俺が言うのもなんだけど。これを天職と呼ばずしてなんと呼べば良いのか、きっと誰にも分からないはずだ。


「花巻くん、予約の子きたよ」
「ハーイ」


すっかり仕事に慣れた二十六歳の春だったか夏だったか、とにかく爽やかな時期だった気がする。
その日は何名か新規のお客さんの予約が入っていた。そういうのは後輩たちに担当してもらう事が多いけど、偶然俺も空いている時間だったし土日と言う事もあり店は非常に混み合っていたから。
そんな慌ただしい店内を見て、初めて来たそのお客さんは緊張しているようだった。


「はじめまして」
「は…じめまして」
「担当させてもらう花巻です。よろしくお願いします」


見たところ俺よりも年下で、最後に美容室に行ったのは数か月前といったところだろうか、しかし長くて綺麗な髪のわりには勿体ない切られ方をしているように見えた。
言っちゃ悪いけど流行りに合ってないというかなんというか、でもこれがこの子のこだわりだとしたら俺が余計な事を言うわけにも行かない。

とにかく女の子がわざわざ時間とお金を使って美容室に来る理由は必ず「今の状態から何かを変えたい」という事が含まれている。この子は何をどうしたいのか、ネット予約の備考欄には何も書かれていなかったので直接聞いてみるしかない。


「白石さんはうちの店、初めてですよね?どこで知ってくださったんですか?」


名前は予約のデータを見れば一目瞭然であった。白石すみれというその子は俺が話しかけるとビクリとした様子で、今のは自分に話しかけられたのか?と疑うようにゆっくり鏡越しに俺と目を合わせた。俺ってそんなに人相悪いつもりは無いんだけどなぁ。


「最近引っ越してきて…で、家の近くでネットで探してたら見つけました」
「なるほど。新卒とかです?」


とにかく俺の事を信用してもらわなきゃ本当の要望はなかなか言いにくいだろうと思えた。だから色々聞いてみたものの、新卒という俺の予想は見事に外れて「二年目です」という回答が。


「スミマセン、若々しく見えたんで」
「いやいや」


やっと白石さんは少しだけ笑ってくれて、ひとまず俺もこっそり胸を撫で下ろした。そろそろ直接髪を触ってもいいだろうかと声をかけると、彼女はドウゾと頷いた。

見た目のとおり髪の触り心地はとても良くて驚いたが、白石さん自身は手入れに力を入れている様子は無い。
良く言えばスレてない、悪く言えば少しやぼったい。そんな感じの女の子だったが、だからこそ髪型次第でどう変われるのかをこの子は知ったほうがいい。折角のさらさらな髪だけど、なんとなく長いよりは短いほうが似合うんじゃないかと思えた。


「伸ばしてるんです?髪」


髪にコームをあてながら聞いてみると、白石さんはまた頷いた。


「そうなんですよ、ちっちゃい頃から短くした事なくて」
「バッサリいこうと思った事は?」
「あんまり…冒険すんの怖いなーって思って」
「確かにね、わかります」
「なので、量だけ減らしてもらえたら」


さすがに初対面で「切ってみたらいいのに」なんて言えず、そのまま施術はスタートした。

誰にも気付かれない程度に、ほんの少し自分の好みを加えながらハサミを入れていく。
短くしたことがない無いなんて勿体無い、きっと似合うのに。と思いながらこっそり髪を持ち上げて、長めのボブくらいの位置で合わせてみる。やっぱり絶対いいじゃん、と思ったが白石さんは置いてある雑誌を読み込んでいて気付いていなかった。残念。


「…このくらいでどうですか?」


すべて切り終えてから声をかけると、携帯電話を触っていた彼女は顔を上げた。顔を左右に回しながら、どの角度からどう見えるのかを確認している。いつも思うけど、女の子のこの仕草ってとても可愛い。しかし白石さんはあまり晴れやかな顔では無かった。


「んー…ん〜〜」
「遠慮しないで言ってくださいねー」
「ハ、ハイ」


と、俺が「遠慮するな」と言うのにガッツリ遠慮した様子で、何も言わずに顔周りの髪を指で触っていた。乾かす時に少しだけふわっとさせてみたんだけど、どうやらお気に召さなかったらしい。


「ここ気になります?」


出来れば俺はこのままで行きたいっていうか、このままがいいと思うけど。


「……ます」
「んじゃあとでアイロンしますね」
「ありがとうございます…」
「いえいえ〜」


結局は白石さんの言う通り、最後ににアイロンをあててしっかりストレートにして帰ってもらった。あーあ、これはもう来てくれないだろうな。





このご時世、探せば美容室なんてそこらじゅうに並んでいる。
気に入らない店には悪いクチコミを書いて次から別の店に行けばいい。まあクチコミは書かないにしても「あそこちょっと雰囲気違うな」と感じたら、もう行かなければいいのだ。それは相性も勿論あるけど、お客さんの心を掴めなかった自分たちの責任でもあると思う。

先日の白石さんも帰る時に「大満足」といった表情では無かったので、きっと俺の何かが足りなかったのだ。その証拠に、初めての来店から二ヶ月ほどが経つけれど彼女は店にやってこない。俺もまだまだ勉強不足だなあ、と思っていた矢先。


「コンニチハ」


なんと白石さんが再び予約を入れて、店にやって来たのだ。
その日も確か日曜日で混んでいたが、全く知らない人間よりは一度は担当した俺の方がいいんじゃないかと考えた。それに、いかにしてこの女の子に「髪を短くしてみよう」と思わせるか挑戦してみたかったのだ。


「新生活は慣れましたか?」
「ホームシックは治りました」
「おおー進歩っすね」
「その他は変わんないですね…仕事は変わってないし」


そういえば白石さんは新卒ではなく、社会人二年目と言っていた。親に言われて今年から一人暮らしを始めたんだっけ。
仕事は今までどおりだが通勤路が変わり、家の周りの環境が変わり、通う美容室も変わった。それならついでにもうひとつ変えてみたらどうだろう。


「髪型は変えてみようとかは思わないんですか?」


あくまでさり気なく、を装って聞いてみたのだが。白石さんは答えにくそうに首を捻った。まだ駄目みたいだ。


「維持?」


鏡越しに顔を覗き込んでみると、白石さんは少しだけ悩んでいたようだけど頷いた。


「…維持で」
「了解でっす」


確かに胸よりも下まで髪を伸ばしていて、それがこんなにさらさらで綺麗だと言うのにバッサリ切るメリットなんか普通は見当たらない。ほとんどの女の子は長くて綺麗な髪に憧れるから。

でも、どうせならもう少し顔を見せたほうが良いんじゃないかなという思いを込めて、少しだけ顔の周りを軽くしてみた。もちろん「嫌だ」と言われたら修正できる範囲内で。
それでも白石さんは、今回は「ありがとうございます」と仕上がりに口出しすることなく帰っていった。





髪型なんて自分で決めればいいんだし、美容師とはいえ友だちでも何でもない俺がアレコレ注文をつけるのはおかしいと思う。
けれど次に白石さんが来た時はどうやって断髪をすすめようか?と、この何ヶ月かはなんとなく考えていた。


「白石さん、こんにちは」


そして前回の来店から二ヶ月後、白石さんはやって来た。前までの少しだけ素朴な雰囲気とは打って変わって、華やかな服装に晴れやかな表情、ついでに歌でも歌いそうな明るい声で「こんにちは!」と挨拶をしてくれたのだ。
一目見て分かった、好きな人もしくは彼氏が出来たのだと。


「何か良い事あったんでしょう」
「え」
「顔に書いてあるっすよ」
「え!?」


俺がそう言っただけで顔を真っ赤にして動揺する様子はドンピシャとしか言いようがない。「そうかなぁ」「どのへんですか」と前髪の分け目を触りながら小声になる姿、これはもう恋する乙女のそれである。しかも恋愛の真っ只中。


「嘘です、前と雰囲気違うから。服装とかね」
「え…すご。よく見てますね」
「そりゃねー。…ズバリ当てにいくけど、出来た?」


ここまで来れば隠される事も無いだろう思い聞いてみると、白石さんはこれまでに無いくらい顔をふにゃりと緩めた。これはもうメロメロの様子だ。

話を聞いてみると既にその彼とは付き合っていて、今夜はお泊まりなのだとか。
泊まりの前に美容室なんか寄っちゃって気合入ってるね、なんてのは下手したらセクハラだから言わずに留めておく。
でも、彼氏も美容の仕事をしているという事でなんとなく気になってしまい、白石さんへの質問はこれまでより多くなったかも知れない。白石さんも白石さんで大好きな彼氏の話を聞いてもらうのが楽しかったみたいで、俺に色んな惚気を聞かせてくれた。


「…で、髪の毛さらさらだねって撫でてもらうのが嬉しくてですね」
「へえー」
「あっ興味ないんでしょ」
「あるある、ありますって」
「ホントにー?」


白石さんは花が咲いたように笑ってて、幸せそうで何よりだなぁと純粋に感じた。


「…で、だから髪はこのまま伸ばしたいんです!これが取り柄ですからっ」


この言葉を聞いた時も、俺はこれ以上口出ししないでおこうと思った。
そう思ったのにどうしても俺の中に納得のいかない事があって、でもそれは表に出してはいけない感情だった。けど、


「髪以外もちゃんと見てもらいなね」


と、俺は無意識のうちに呟いてしまっていた。やべ、と思ったが白石さんは疑問符の浮かんだ顔でちらりと俺を見ただけであった。ドライヤーのおかげで聞こえていなかったようだ。


「お幸せに〜」
「ありがとうございまーす!」


ルンルン気分で帰っていく背中を見送りながら、とうとうあの子の髪を切ってみる夢は叶わなかったと肩を落とした。「違う髪型にすればいいのに」と感じた事は白石さんが初めてじゃないのに、白石さんの持つ素朴な感じが居心地よかったのかも知れない。
とにかく俺はあの子が彼氏と上手く行きますようにと祈りつつ、ほんの数センチだけ切られた白石さんの髪が散らばる床の掃除を始めた。

そんな会話が最後だったから、まさか白石さんが「彼氏に振られた」という理由で髪を切りに来るなんて思いもしなかったのだ。
喜べばいいのか悲しめばいいのか分からなかったが、とにかく俺の役目は「来店時とは違う顔色で帰ってもらう」事。
最後まで切るかどうかを悩んでいた彼女に俺は言ったのだ、「俺なら似合うように切ることが出来る」と。