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先生のことを考えれば考えるほど気持ちがふくらんでいく。先生が居ない場所でも。「あのとき笑ってくれたのは…」と先生の笑顔を思い出すと、蜂蜜でも舐めてるのかっていうくらい甘い気分になる。

これってユリコの言うとおりじゃんか。ユリコの言葉が正しいのなら、わたしは国見先生に恋してるっていう事になる。
今までなんとも思わなかった日曜日の家庭教師の時間は、緊張しっぱなしで終わってしまった。「先生とふたりきり」「先生がわたしを見てる」という事を意識しすぎてしまったから。


『…好きじゃん』


この問題を、誰に打ち明けるってやっぱり一人しか居ない。先生への気持ちが恐らく恋なのだと分かってしまった夜、すぐにユリコに電話した。


「やばい!どうしよう」
『どうもしなくていいよ』


どうもしなくていいと言われても、これからあと半年くらいは毎週二人きりの時間がやってくるのに。その都度わたしは先生への恋心と戦わなければならないのか。
恋ってこんなに切羽詰まったものだったっけ?というか勉強に集中できなくなったらどうしよう。せっかく国見先生に教えてもらってるのに!


『すみれってたぶん、今までもずっと先生を好きだったんだよ』


ユリコはお菓子でもつまんでいるのか、電話口でボリボリと音を鳴らせながら言った。
しかしそんな世間話みたいに言われても困る。わたしが先生の事を好きだとか。


「………嘘。」
『無自覚片想いってやつ』
「無自覚ってそんな小学生じゃあるまいし!さすがに自分が恋してるかどうかくらい分かるよ」
『ホントに?』


お菓子をやめたのか、耳元のボリボリ音が止まった。
静かになったら改めて冷静になる。自分がいつから国見先生にこんな気持ちを抱いているのか。これは本当に恋で合っているのか。そうだ!過去の経験から今回のコレを分析しよう、そうしよう。
…でも結局答えはひとつしか浮かばなかった。


「…どうしよう!?」
『だからどうもしなくていいんだってば!』


とにかく今まで通り勉強を頑張ればいいのだとユリコは言う。
そんな簡単に言うけど、ユリコは恋した事ないのだろうか?恋をしたら何も手につかなくなるのだ。勉強も、ご飯も何もかも。今だって寝る前に勉強しようと思ってるのに国見先生の事ばっかり浮かんでしまうし、ああもうどうしたらいいんだろ。



人間って驚く程に簡単だ。一晩寝たらちょっとだけ気持ちが落ち着いた。スッキリしたので今日は勉強に集中できるかもしれない。


「…うん。勉強漬けにして他の事を考える余裕をなくせばいいや…」


家庭教師の時間以外は、先生の事を考える暇もないほど勉強しておけばいい。集中力を途切れさせないように!途切れたらその時だ。

というわけで、大きな書店で参考書や赤本を見る事にした。結構高いものが多いからなかなか買うことは難しいけど、手頃な問題集でも見つかったら買えばいい。
大学受験向けのコーナーで隅から隅まで本の背表紙を辿っていくと、志望校の赤本が。見てみようかなと手を伸ばすと、ちょうど同じ本を取ろうとしていた誰かと手が触れそうになった。


「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ」


譲ろうと思い手を引っ込めると、相手も手を引っ込めた。
しかしわたしは引っ込めた自分の手を睨みながらしばらくの沈黙。…今の声、絶対に聞き覚えがある。


「あれ。白石さんじゃん」
「く…っ国見せんせい!?」


何とそこに居たのは国見先生で、しかも先生のほうからわたしに話かけてきた。そりゃ教え子がいるのに無視したら問題だろうけど、今回ばかりは無視で良かったのに!


「ななななにをされていらっしゃるんですか!」
「何って…白石さんこそ」
「わたしはあの、新しい問題集とか赤本を探しに」
「俺もだよ」


先生はわたしの存在は無視しなくとも、慌てっぷりは無視しているらしい。棚に並ぶ問題集を眺めたまま話を続けた。


「勉強進んでる?家で」
「えっ」


そこでちょうど一冊の本を手に取り、先生がわたしを見下ろした。
どうしよう。先生に見られてる。今日のわたしどんな服を着てるっけ?ダサくない?ちゃんと可愛い?いやいや「ちゃんと」って何だよ、見た目に気を使う暇があるなら勉強しろって何回も言われただろすみれ!浮かれるな!


「す、進んでます。先生が教えたとおりに進めてます」


何とかトチ狂った返答をすること無く、お手本みたいな答えを言うことが出来た。


「…まあ、俺がどうとか言うよりも白石さんの頑張り次第だと思うけどね」
「そんな事ないです!」
「そう?」


国見先生は首を傾げると、たった今手に取ったばかりの問題集を棚に戻した。買わないのだろうか。不思議に思いながら先生を見ていると、またもや先生がこっちを向いた。


「なんか買うの」
「え!あー…今日は大丈夫です」
「そう。コーヒーでも飲む?」


今日はあんまりお金を持ってきていないし、今度お母さんと来た時に買ってもらおう。そんな事より今もこうしてドキドキしてるって事は、やはりわたしは先生の事が好きなんだ。しかも先生、こんな場所で会った教え子に向かって「コーヒー飲む?」とか聞いてくるなんて…え…コーヒー?嘘。


「………え?」
「何」
「い…え…コーヒー!?」
「解散しようか」
「ま、待ってください!いります!飲みます飲ませて下さい!」
「分かったから静かにしてくれる?」


あまりの驚きで、本屋の中だと言うのに声のボリュームが大きくなってしまった。国見先生はいつも通りにピシャリとそれを叱ってくる。

先生は、そうだ、確かにいつも通りだ。今この場で頭がおかしいのはわたしだけ。どうしたらいいの。


「はい」
「…ありがとうございます」


エレベーター近くにある休憩所みたいなところに座り、先生が自販機の缶コーヒーを買ってくれた。しかもカフェオレ。この間わたしが砂糖もミルクも欲しいと言ったのを覚えてくれていたのかな。そう思うだけでまたドキリと心臓が鳴った。

長いベンチに腰掛けたわたしの隣に、国見先生もゆっくりと腰を下ろした。缶を開ける音が響き、それを飲む音だけが聞こえてくる。
無言というのがとても辛い。元々先生はお喋りな人じゃないけれど、何かを話さなきゃならない気がしてきた。


「…先生、忙しくなかったですか」
「大丈夫」
「そ、そうですか」


馬鹿かわたしは。わざわざ先生から声を掛けてきたんだから、忙しくないに決まってるじゃん。暇ではないにしても今は時間があるって事じゃん!ユリコに遠隔で助けを求めたい気分。


「オープンキャンパス行った?」


すると、いつもアレコレと騒がしいわたしが黙っているのが不思議なのだろうか、先生のほうから質問をしてきた。


「一回だけ…あと何回かは行こうと思ってます」
「ふーん」
「あっ、行ったら先生に会っちゃうかもですけどね!」
「……」


辛い間。
わたしの志望校は国見先生の居る大学だ。だからオープンキャンパスに行くという事は、先生に会う可能性があるという事。それについて無言で返されるという事は、わたしには大学内で会いたくないという事?
家庭教師と生徒としての間柄以外では、外で会うのは控えたいという事?


「…先生」
「うん」
「あのー…先生は、先生だから…あんまりわたしとプライベートで会うの、嫌でしょうか」


気付いたらわたしはこんな事を言っていた。言ってからハッと我に返った、余計な質問をしてしまった事に冷や汗をかいた。


「会いたいの?」
「う、いや」


その質問に即答する事は出来なかった。だって前までのわたしなら、外で先生と会わなくたって別に良かったからだ。

それなのに今は、昨日から、わたしはやっぱりおかしい。
もしかして昨日からじゃなく、先生に元気になってもらうために勉強を頑張り始めたあの時から、わたしは先生を好きだったの?だとしたら結構前から好きじゃんか、どれだけ鈍いんだ。

という事は、こんなに好きなのに毎週二時間しか会う事が出来ないのってよく考えたら結構苦痛。
もっと会いたい。外で会いたい。先生からの「会いたいの?」という問いに対してイエスの解答するため、わたしは息を吸った。


「…会う約束はできない」


…けれどわたしが何かを言う前に、先生が言った。
頭をガツンと殴られた感じ。そりゃそうだよ、会えるわけない。現実を見ろ。目を覚ませ。


「で、ででっですよね!すみませんちゃんと分かってるんですけどあの」
「けど、偶然会っちゃうのは仕方ないよね。今日みたいに」


そう言うと、ごくり、と先生が最後の一滴を飲み終えた。

今日は確かに偶然だった。偶然ここの書店に問題集を見に来て、偶然国見先生に会った。ひとりの家庭教師とその生徒がわざと待ち合わせて二人で会うなんて、そんなのおかしいから。あってはならないから。
偶然ならば仕方ない。そんな当たり前の笑い話みたいな事、どうしてわたしの目を見て言ってるの?


「たとえば俺が週末の花火大会で、六時に商店街の入り口に立ってたとして」
「え…」
「そこに白石さんが偶然来ちゃったら、それはもう仕方なくない?」


話が見えない。花火大会。今週の土曜日、ここらでは少し大きな花火大会が行われる。彼氏が出来たら行きたいなぁなんて思いながら何年間も過ごしてた。好きな人と行けたらいいなって思いながら、何年間も過ごしてた。

でも国見先生は今、いったいどう言うつもりでその「偶然」の話をしてるんだ。


「………せ、先生」
「今日はそろそろ行かなきゃ」


先生はベンチに座った時と同じように、ゆっくりと立ち上がった。

カランカランと空き缶がゴミ箱に捨てられる音が聞こえる。それとは対照的に静かな先生の足音が。エレベーターのボタンが押それた音。エレベーターの到着する音、ドアが開き、先生がボタンを押す音、そしてとうとうドアが閉まる音。

エレベーターが閉まった瞬間に、静かだったわたしの周りは途端に騒めきを取り戻した。書店のBGM、入口に置かれたテレビモニターからは夏休みの自由研究を紹介する軽快な音。

あれ、ここってこんなにうるさかったんだ。先生と一緒にいる間はとても静かだったのに。という事はさっき、先生がわたしに言った言葉は聞き間違いだったりして?自由研究の音が混ざって、あんなふうに聞こえただけだったりして?

だめだ、今夜もユリコに電話しなきゃならなくなった。