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先週の日曜日に国見先生が来て、先生の前で泣いてしまって、先生が少しだけ優しくしてくれたのは良いのだが。

わたしはちょっとだけ、おかしな気持ちが涌いてきてしまった。国見先生はただの家庭教師の先生で、しかも超厳しくて最初は全然好きじゃなかったというのに。この「おかしな気持ち」っていうの、どの教科書にも参考書にも載ってない。きっと学校の授業では教えられない内容。


「それはきっと恋ってやつだ」
「こっ!?」


お盆に入る直前、ユリコと少しだけ会って近況報告をする事になった。
そのとき当然ユリコにもこのおかしな状態について相談してみたけど、彼女は開口一番迷いなく言ってのけたのだ。


「あんた国見先生の事が好きなんだよ、やっぱり」
「やっぱりって何」
「前からそんな雰囲気あったもん」


香ばしく揚げられたフライドポテトをつつきながらユリコは言う。前からっていつからだろう。


「…そう?全然好きとか思った事なかったんだけど…」
「でも、落ち込んでる先生励ますために成績上げようとしてたじゃん。寝不足になってまで」
「そりゃあ自分のためでもあるし」
「キッカケは先生でしょ?」


ちょうど摘んだとっても長いフライドポテトをこちらに向けて、ユリコが言った。凄いスピードでフライドポテトを食べてるくせにツッコミは的確だ。タイミングも内容も。


「…わたしって国見先生が好きだったの?」
「それしか考えらんない」
「え、ちょっと待って、だってさあ毎週同じ部屋で勉強してたんだよ?でも全然ドキドキしなかったよ」
「今は?」


それと同時にユリコはついにフライドポテトを平らげて、ジュースをずずずと吸い上げた。


「……しない」
「ハイ嘘」
「するけど!するけどさ、最後に先生に会った時は大丈夫だったもん」
「それ以降先生の事を考えたらドキドキするんでしょ?」
「…何故か。」
「何故かじゃないよ。理由は簡単!」


鞄からティッシュを取り出し手を拭くと、ユリコは両手をわたしの肩に置いた。と言うよりは肩をがっちり掴まれた。痛い。


「先生のこと、考えれば考えるほど気持ちがふくらんでくの。胸がドキドキすんの。本人が居ない場所でも。あの時のアレってもしかして…とか考えると、先生が居なくてもキュンってするの。それが恋!」
「はあ…」
「この前会った時に何か無かったの?」


力説するユリコから目を逸らし、先生と最後に会った時のことを思い出していく。
変わった事なんて何も起きなかった。ただわたしがひとりで盛り上がって、ひとりで泣いて、先生をビックリさせたって事くらい。恋するキッカケなんか見当たらない。


「…わかんない。泣いちゃってよく覚えてないし」
「そのさー、小田っちと元カノが先生の事悪く言ったのが悔しくて泣いたっていうのもさー、恋じゃん」
「そうなの!?」
「そうだよ。むしろ恋してないのにその理由で泣く人居る?友だちでも無いのに」


という事は、わたしはこの前の日曜日に国見先生を好きになったのではなく、もっと前から好きだったという事になる。そんなの全然自覚が無い。…でも先生の事を悪く言われて悲しくなってしまったのは、「好きだから」という理由なら納得が行くような。


「………いや違う、まだ分かんないよ…まだ好きとかじゃないかも」


こんな事ばかり考えてたら、本当に先生で頭が一杯になってしまいそう。冷静に別のことを考えて落ち着かなくては。
必死にブツブツ喋るわたしを見て、ユリコは「もう立派な症状が出てるのに」と言いながらシェイクを追加注文しに行った。



お盆明けの日曜日。前とは違う理由でギクシャクしながら国見先生を待つわたし。前回は先生の悪口を言った人に対してのモヤモヤを抱えていたけれど、今日は自分だけのモヤモヤであった。
果たしてわたしは国見先生の事が好きなのかどうか。それを今日の二時間で見極めてやろうではないか。


「すみません。これ、つまらないモノなんですけど」


国見先生はやって来て早々、持っていた紙袋から何かを取り出してお母さんに渡した。お菓子のようだ。お母さんは目を丸くしてそれを見つめている。


「…え?下さるんですか?」
「いつもお世話になってるんで…」
「やだ!お世話になってるのはコッチですよ!ありがとうございます」


あははと豪快に笑いながら、「ホラあんたもお礼言いなさい」とわたしのお尻を叩いて(また先生の前でお尻を叩かれた!)、お母さんは台所へと引っ込んでいった。

国見先生はどうやらお盆の間、親戚の家へ行っていたらしい。そこのお土産なのだとか。わざわざ我が家にも買ってきてくれるなんてビックリだ。


「…先生、お土産ありがとう」


部屋に入ってから、わたしは改めてお礼を言った。
先生は静かに首を振るだけで何も言わない。こんなお土産のひとつやふたつ、大した事じゃ無いって事か。社交辞令ってやつなのかな。
そんな事よりボヤボヤしていたら「さっさと用意しろ」なんて怒られるかも知れないので、机に用意していたペンケースを開けた時。


「ハイ」


ポンと机になにかが置かれた。素朴な感じのちいさな紙袋。持ち手からはちょうど国見先生の手が離されるところだった。


「……?」
「あげる。お土産」
「え…?でもさっき、」


お母さんにさっき渡してくれたお菓子は何だったのだろう、あれもお土産じゃないのだろうか。


「これは白石さんの」


と、言って国見先生はちいさな紙袋を指さした。
国見先生がわざわざわたしにお土産を買ってくるなんて何かがおかしい気がする。もしかして幻覚?先生の事を好きかも知れないからって、わたしは都合のいい幻覚を見ているの?

一度ぎゅっと目を閉じて深呼吸。今起きている事は夢かもしれないから。
ヨシ!と目を開けるとやっぱりそこには先生が居て、先生からのお土産が机の上に乗っていた。ちなみに先生は冷めた目でわたしの一連の動作を見ていた。


「…ホントにわたし専用ですか!?」
「変なふうに受け取らないでよ、こないだのお礼だから」
「お礼?」


はて、お礼。わたしからお礼をする事はあっても、先生がわたしに礼を言ったり渡したりすべき事なんて見つからない。前回の家庭教師の時に何かしたっけ。いや、わたしが泣いてただけだ。


「わたし、なにかお礼されるような事しましたっけ」


全く心当たりが無いので聞いてみると、先生は少し戸惑ったかに見えた。


「…分かってないならいいや…」
「えっ、気になるんですけど」
「気にしなくていい」
「なりますよ」
「すんなって」
「しますってば!」
「ウルサイ」
「うっ」


結局いつものように叱られて黙らされてしまった。どうして教えてくれないんだろう。お礼をされる側の人間として、何のお礼なのかを聞く権利はあるんじゃないか!先生は全く教えてくれる素振りがないけれど。


「…とにかくソレあげるから。分かったらさっさと勉強道具出して」


しっしっ、と払うような動きで先生が言った。

その時の先生の顔。向こうを向いててよく見えなかったけど、なんとなく照れているような。顔が赤くなっているような、いつものポーカーフェイスが崩れているような気がした。

嘘、もしかして先生照れてるの?わたしを前にして照れてる?何が原因で?男の人にしては白いその肌が、うっすらと赤みがかっているのにジッと見とれてしまった。


「白石さん」
「!」


しかし先生が目線をわたしに向けたもので、凝視しているのがバレないように慌てて明後日のほうを向いた。


「…あのさあ」
「は…ハイ、なん、でしょ」


国見先生が身体ごとこちらを向いて、ずいっと体重を前に乗せた。
うわあ、先生の顔が近い。先生の目が近い。何を言われるの、何でそんなにわたしを見つめるの、もしかして先生もわたしの事が…


「ソレだけ賞味期限、今日だから」


聞こえてきたのは好きとか嫌いとかの話なんかじゃなく、お土産の賞味期限の話だった。今世紀最大の拍子抜けである。もう!このドキドキを返して欲しい。

…あれ、わたしドキドキしてたっけ?いつの間にか心臓が激しく動いてる。確かユリコはこう言った、考えれば考えるほど気持ちがふくらんでいくのが恋だと。胸がドキドキするのだと。
つまり今、わたしの胸がドキドキしているという事は。