高校生になってから変わった事がいくつかある。授業の内容が難しくて全然ついていけない事。家からの通学距離がほんの少し遠くなった事。バレー部の連中が良くも悪くも細かい事で俺に話を振ってくる事。
部活の中に、中学の頃には居なかった「女子マネージャー」という存在が居る事。


「影山くん!今の凄かったね!」


サーブ練習をしていた時に声をかけてきたのがそのマネージャーで、同じ学年の白石さん。彼女は常に色んな部員に声かけしているように見えた。だからこうして俺のサーブとか、普段の練習をスゴイねと言って褒めてくるのは初めての事ではないし、珍しい事でもない。


「…そんなに、凄くは無いけど」
「そうなの?でも他の人より一番スゴイ」


だからこうして、さも俺だけにニッコリ笑いかけているかのように見えたって、きっとそうでは無いのだ。


「俺は別にスゴイとかじゃねーけど…ただヘタじゃないだけで」
「ヘタじゃないって自分で言えるのが凄いよ、ねえ日向」
「自意識過剰なんだろ?」
「もういっぺん言ってみろ」
「嘘嘘嘘嘘なにも言ってねーって」


何かと俺に張り合ってくる(俺からも張り合っているのだが)日向はその性格のせいか、白石さんとも仲が良い。正直それはちょっとだけ羨ましかった。俺は「女子マネージャー」との接し方がよく分からないから。


「影山くんが居ると空気が締まっていいね」


ニコリと白石さんが笑ってみせるだけで、なにか甘いものでも食べているような気分になる。マネージャーってそういうオーラを発信するものなんだろうか。
烏野に来てからもう半年も経つのに、どうも慣れない事ばっかりだ。





「…やっちまった」


サーブ練習を終えた後、汗をかいた自分が気持ち悪くてタオルを濡らしに水場へ行った。濡らしたタオルで顔や身体を拭こうかと思ったのだ。
蛇口がいくつか並んでいるうちの一番左を捻った時、ぷしゃっと音をたてて水が溢れだしてしまった。締めようと思ってもう一度反対側に回してみても、カラカラと回っているだけの蛇口。どうしよう壊した。


「あれ、どうしたの」


そこへちょうど、白石さんがやって来た。手ぶらのところを見るとドリンクの補充などではなく、休憩中か何からしい。


「いや…蛇口が壊れた」
「え?」


もしかしたら俺が壊したのかも知れないが、壊れた事にして白石さんに伝えてみた。
すると彼女は俺が試したのと同じように蛇口を反対側に回し、効果が無いことが分かると更に反対側に回してみた…ら、さっきよりも勢いよく水が溢れてきた。


「うわっ!」
「大丈夫っすか」
「つめたっ!あはは、きもちーねコレ」


今はもう秋だが、蛇口の水を浴びて気持ちがいいと笑っている。ちょっと変なやつだなと思った。水が気持ちいいというその感覚は分かるけれども。
しかし、やっと納まった蛇口の様子を見ている白石さんであったが、俺は重大な事に気付いてしまった。


「…白石さん」
「ん?」
「あの…ソレ…たぶん…まずい事になってる」


ソレ、と言いながら俺が指さしたのは白石さんが着ている白いティーシャツだ。それがびっちゃりと蛇口の水で濡れている。
それだけならまだ良いのだが、そこにはうっすらと、いやしっかりと、白石さんが身に付けている下着らしきものの色が。


「!!やっ」
「お…俺は見てないからな」
「いやっゴメン私のほうこそ見苦しいものをお見せしました」
「べべべつに見苦しくは」
「ほんとにゴメン!」


洗濯物が乾いてなくて派手な下着になっちゃってーとか、昨日の夜雨がパラついたじゃん?とか、白石さんは必死にあれこれ喋っている。身振り手振りをするせいで透けた下着が全く隠されずに見えているなんて言えやしない。
どうしたもんかと考えたところ、対策がひとつだけ浮かんだ。


「これ着てて」


汗が冷えて風邪をひかないように、俺は長袖のジャージを羽織っていた。ジャージも少し水を浴びてしまったけど致命的ではないし、何より透けた下着をさらけ出されたままよりは良い。


「え…これ影山くんの」
「俺は無くても平気だから」
「私も体育館に戻ったら置いてあるし、いいよ」
「しょ…正気か!?戻るまではどうすんだよ」


その状態でトロトロ外を歩いて(白石さんは歩くのが遅い)体育館まで戻る気なのか。
白石さんも俺の心配事を把握してくれたようで、あっと声をあげてからよそよそしく両手を差し出した。


「……お借りします」
「っす」


俺の手から白石さんの手へ、黒いジャージが渡される。渡す時にちょっとだけ指先が触れたような気がする。そんなのどうでもいい事なのに、いちいち気になってしまうのは何故だろう。
触れた指先の感触を誤魔化すようにぼりぼり頭をかいていると、白石さんは俺のジャージを広げ袖を通していった。


「わ!見て見て」
「あ?」


なるべく見ないようにしようと思っていたのに、見て見てなんて言われると見るしかない。そこに何があるのか、ある程度の予測が出来ていたとしても。


「影山くんの、大きいね」


白石さんは両腕とも俺のジャージに袖を通して、だぼだぼの状態で立っていた。
だらしない、しっかり着ろ、そんな事を普通は言われるのかもしれないが、サイズの合わない俺のジャージを羽織った女の子というのはとても新鮮で、どきどきして、また口の中に甘い感触が広がっていくようだった。これも相手が「女子マネージャー」だからなのか、それとも白石さんだからなのか?


「困ったな…」


何が困ったって、あれから白石さんの事ばかり考えてしまうこと。
そうでなくても俺は、「ああマネージャーってこんな仕事をしてくれるのか」とか「自分たちは試合に出ないのに有難いな」とか少なからず思っていたのだ。

特に白石さんは、調子が悪い時でも彼女の顔を見るだけでなんだか力が出るような気がしてきたし。理由は分からないけどとにかく俺の調子を上げてくれる有難い存在だったのだが、あの事があって以降、帰宅してもひとりでロードワークをしていても寝る前も、頭にちらついてしまうのだった。

このよく分からない状態を他人に相談するのは気が引ける。だから頼れるものはインターネットしかなくて、スマートフォンに心当たりのある症状を入力して検索してみた。


「…コイ」


恋とは、別の人間に対して特別な感情を抱くということ。意味くらい知っている。恋をするとどうなるのか、なんとなくは分かってる。ただ自分がそれを経験した事があるかと問われると、ノーである。

意味分かんねえ、これがコイってやつなのか?でもコイをすると会話をする時も緊張したり、普段はスムーズに行くことも上手くいかなかったりするんじゃないか?俺は上手くいかないどころか、白石さんの前だと気合いが入ってとても調子がいいのに。


「あ、影山くん!これ昨日はありがとう」


翌日の朝、白石さんは俺が貸していたジャージをきれいに畳んで持ってきた。いつもと違う香りがするジャージ。白石さん宅の柔軟剤を使って洗濯機に回されたようだ。


「洗わなくても良かったのに」
「そうはいかないよ!濡れちゃったんだから」
「…そうか」


濡れたと言ってもどうせ水道の水で、汚くなんか無いけれど。
でも自分のジャージから白石さんのと同じ香りが漂ってくるのは悪くない気分だった。そして今、ちょうど近くに誰もいないこのタイミングは絶好のチャンス。


「なあ、白石さん」


俺が話しかけると、白石さんは顔を上げた。…なんかいつもと違う。確かにいつもの白石さんなのに、いつもと違って見える。これも症状のひとつと言えるのか。


「コイって知ってるか?」


あまりに単刀直入だなんて事は分かっているが、これを解決できるのは俺か白石さんのどちらかだけだ。だから一応恥をしのんで聞いてみると、白石さんは魚の鯉みたいに口をぱくぱくさせていた。


「…コイ?魚の…鯉?」
「じゃないほうの恋」
「恋愛の…恋?」
「そっち。した事あんのかなって」


白石さんは俺から見ると普通の女の子だから、コイの一度や二度くらい経験はあるだろうと思う。コイの先輩ってやつだ。そして恐らく、俺のコイの対象。


「え…え?そりゃあ…あるっちゃあるけど…なんでそんな事聞くの」
「俺、初めて恋したかもしんねえから」
「ええ!?」
「白石さんに」
「なんと!?」


思わず大声が出てしまったのか、白石さんは両手で口を覆った。そしてあたりをキョロキョロ見渡し、精一杯のヒソヒソ話を始めたかに見えた。


「お…落ち着いて?影山くんホラ、昨日までは普通だったんじゃ…?」
「昨日、白石さんが俺のジャージを羽織るまでは普通だった」
「え」
「影山くんの大きいねって言われるまでは普通だった」
「!?」


普通だったというのは白石さんを「女子マネージャー」の一人だと認識していたって事だ。
でも、他に二人居るマネージャーの中でも白石さんは俺にとって元々ちょっと特別だった。それが昨日のアレで、「ちょっと特別」だったのが「うんと特別」にランクアップしたような感じ。でも明確な理由は分からない。予想でしかない。


「一晩悩んだけど自分じゃ解決できない」
「ちょ…ちょ待っ」
「白石さんは俺の事、好きか?」


今はとにかく答えが欲しい。俺の頭に白石さんばかり浮かぶのは何故なのか。もしこれがコイだとしたら、コイはひとりでは実らせることが出来ない。相手も俺にコイをしてなきゃいけないのだ。


「…影山くんは、どう、なんですか」


ところが白石さんは俺の質問に答えず、視線だけを動かしながら言った。
俺は白石さんに「コイしているような気がする」という状態だ。「コイだ」と肯定されても納得できる、むしろ誰かに「それはコイだ」と言って欲しいくらい。


「…昨日から白石さんの事ばっかりちらつくから…ネットで検索したらコイの症状だった」
「ネット!?」
「これがコイってやつなのかって思ったけど」


白石さんは俺の話を聞いて、ぎゅっと口を結んだ。かと思えば開いて息を吸い、何かを喋ろうと動かしている。その唇の動きに目を奪われていると、やっと声が聞こえた。


「…恋は、きっと、その…特定の人の事をずっと考えちゃうっていうのも、あると思うけど」
「うん」


ひそひそ声では無いが、静かにゆっくりと白石さんが言った。


「その人の事を考えると、胸がどきどきするっていうか…自分が自分じゃなくなるみたいな、そういうのを恋っていうんだと、思う」
「どういう事っすか」
「う…えっと…」


自分が自分じゃなくなるなんて、そんな恐ろしい事にはなっていない。俺は俺だし、俺自身が白石さんへの気持ちについて悩みを持ってるんだから。
でも確かに、何も食べていないはずなのに甘い感触が広がったり、白石さんのそばに居ると不思議な事は起きていた。


「白石さんの経験した恋はそうだった?」


それを聞いた瞬間に、白石さんは全身がかあっと赤くなった。魔法でもかけられたみたいに、一気に真っ赤に染まったのだ。白石さんは俯いて俺に旋毛だけを見せる状態になり、また唇をコイみたいにぱくぱくさせた。


「…ウン。そうだよ」


そして、うすい唇の隙間から発せられたかすれた声。
今度は俺がそれを聞いた瞬間に、何かで心臓を突き刺されたみたいな気分になった。苦しい。初めての感覚だ。


「自分が自分じゃなくなる、ってのはなんとなく…分かるかも…だけど」
「…うん?」
「この、心臓が痛くなるみたいなのも?」
「心臓?」
「俺は今、心臓付近に痛みを感じてる」
「え、それ危ないんじゃ」
「爆発しそうなくらい」


膨れ上がった心臓が風船みたいになって、そこに針を突き立てられて破裂してしまうような。とにかく過去にないほど俺の心臓は異常な動きを見せていた。
まさにこれがそうなのだろうか、自分が自分でなくなるというのは。心臓が自分のものじゃ無いような気分だ。


「……俺のコレも恋?」


そうだと言ってもらわなきゃこのままここで破裂して死ぬ。答えを出せるのも、そしてコイを実らせることが出来るのも白石さんしかいない。
今ここで白石さんに逃げられるわけには行かない、と無意識に俺は白石さんを壁際まで追い込んでいた。


「わか、んな…いけど、とにかくちょっと離れて」
「無理。」


離れたらどこかに去ってしまうかも知れない、そうなると俺は悩みを抱えたまま悶々と過ごす羽目になる。自分が自分じゃないみたいな状態のままで。


「まだ答え聞いてない。白石さんは俺の事どう思ってる?」


白石さんの瞳はゆらゆらと揺れていた。泣きそうなのか光の加減のせいか、潤いを持って光っていた。また俺の心臓にもう一本、何かが刺さるような気分。苦しさと心地よさとが共存する、わけのわからない感覚に陥る。
これだ。自分が自分じゃなくなるっていうのは、正しくこれ。


「…影山くんの事を考えると」
「おう」
「胸がどきどきして」
「おう」
「…自分が自分じゃなくなるみたい」
「って事は?」


俺たちはふたりとも数々の症状に悩まされていた。苦しくて、自分が自分じゃない気分になって、思ったようにいかなくて、特定の人物のことをずっと考えてしまう。
白石さんは「鈍すぎるよ」と何度か答えをはぐらかしたけど、俺は鈍くなんかない。分かっていた。
ただ白石さんの口からそれを聞かなければ、コイが俺の中に浸透する事は出来ないと思ったのだ。

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