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久しぶりに日曜日を迎えるのが嫌になった。特に夕方の、家庭教師の時間を迎えるのが。

というのも昨日、一日で色々な事があった。家庭教師としてやってくる国見先生を、小田くんに悪く言われてしまった事。女子高生目的で家庭教師やってんじゃないかとか、部屋の中で二人きりで何やってんだよ、みたいな事を。

それだけでも十分なダメージだったのに、夕方行ったコンビニでは国見先生の元彼女と遭遇してしまった。向こうはわたしの事を知らないから直接何かを言われたわけじゃないけど、またも彼女は国見先生を良くないふうに話していたのだ。
真面目でつまらないとか、偉そうだとか言っていたけど、それってあの人自身に原因があったんじゃないの?
そんな怒りを持っていた時、とうとうあの人が国見先生と別の男性とで二股をかけていた事を知ってしまった。

先生はそのことを知っているんだろうか。そんなのわたしが気にするなんてお門違いだけど、国見先生は小田くんやあの人が言うような人じゃない。みんな絶対に国見先生の事を誤解している。

悶々としたまま一夜しか開けていないのに、今からわたしは平静を装って、国見先生と直接顔を合わせる事ができるかどうか。


「先生、いらっしゃーい」


インターホンの音と、それに続くお母さんの声とでわたしの身体に緊張が走る。ついに国見先生がやって来たようだ。


「昨日はびっくりしちゃいました、マユちゃんと知り合いだったなんてぇ」
「いえ、ろくな挨拶もせずにすみませんでした」
「いいのいいの。すみれ!先生きたよー」


いつもならわたしも玄関まで迎えに行くのに今日はリビングに引っ込んでいたので、ついにお母さんに呼ばれてしまった。
知ってるよ、先生が来た事は。分かってるんだよ、今から教わる側のわたしが出迎えなきゃいけない事も。
でも今日はどんな顔して迎えれば良いか分からなくて、そろそろと廊下を歩いて玄関まで出た。


「…ドウゾ。」
「何しおらしい態度してんのアンタ。先生、今日もお願いしますね」


お母さんにベシンとお尻を叩かれ(男性の前なのにこの人おかしい!)、先生は軽くお辞儀をしてからわたしに続いて部屋に入った。とうとう先生とふたりきりの空間になってしまった。


「…過去問やった?」
「あ、はい」


でも先生はわたしの様子がおかしい事なんて気に留めていないのか、てきぱきと勉強の用意を始めていく。
今回は志望校の過去問を解いて自己採点しておくという宿題が出ていたので、結果を先生に広げて見せた。


「結構いいじゃん。ココなんで間違えたんだろ」


そう、結果は悪くなかった。ここ最近のわたしはノリにノッているのだ、こと勉強に関しては。
先生はわたしの結果を見ながら不正解の理由を探っている。仕事とはいえこんなに必死にわたしの勉強を見てくれているのに、知らない場所で女子高生に手を出す犯罪者みたいに思われるなんて心外だ。この現場を小田くんに見せてやりたいくらい。


「…白石さん?ねえ」
「!」


悶々と考え事をしていたら、国見先生に呼ばれてびくっとした。


「すみません…なんでしょう」
「さっきから呼んでるんだけど。…集中力ないけど、どうかした?」
「……なにも…」


国見先生はペンを置いた。わたしが勉強以外の事を考えていると気付かれてしまった。しかも恐らく、それがあまり良くない内容だって事も。だから「集中しろよ」と怒るのではなく、彼はペンを置いたのだ。
それだけでも良く分かる。国見先生はちゃんと優しい人だって事が。


「…なにも、ない…です」
「は…えっ?」


先生はぎょっとした。わたしもぎょっとしてしまった。まさか、またもや国見先生の前で涙を流す羽目になるなんて思わなかったのだ。


「大丈夫?」
「う、ごめ…ごめんなさ、い」
「ごめんじゃなくて…え、嘘、俺なにかした?」
「ちが……」


何もされてない、誰も何も悪くない。しいて言うなら小田くんと先生の元カノのせいなんだけど、でも今わたしが泣いちゃったのはわたしの集中力が無いせいだから。
泣き止まなくちゃと思えば思うほど涙は溢れて、先生の顔には疑問符が浮かんでいく様子がうかがえる。


「先生、国見先生は…あの、もう、すっごくイイ先生です」
「…は?」


ついに国見先生は顔を大きく傾げてしまった。でも、女の子って一度泣きだしたらなかなか止まらないじゃん?だからわたしは泣いた勢いのまま、思っている事を言う事にした。


「先生のおかげで数学も出来るようになったし!勉強楽しいって思えるし!テストで良い点とれました。国見先生が居なかったら未だにフラフラしてた」
「どうしたの一体」
「せんせ…、先生は、良い人です。すごく。みんなに言ってやりたいのに、わたし、」


言ってやりたい。小田くんにも元カノさんにも。先生が誰かに悪く思われている事がとても悔しい。


「…みんなって誰?」


国見先生の声が低くなった。そこでわたしはハッとして血の気が引いた。やばい。余計な事まで口走ってしまった。


「…ごめんなさい」
「謝らなくていい。何かあった?」
「……」


先生はあくまでわたしを諭すように言うけれど、わたしが先生の元カノに何度か遭遇していた事なんて知りたくも無いんじゃないだろうか。それに、どんな付き合いをしていてどんなふうに別れたのかを、無関係のわたしには知られたく無いに決まってる。


「…言いたくないです」
「言って。怒らないから」
「絶対怒ります」
「何で?何かイタズラしたとか?」
「違います、けど」
「じゃあ言って」


じっと目を見られると、もう逃げる事が出来ない。勉強イヤイヤ期だった時にはよくこの目で睨まれていたっけ。

観念したわたしはぽつぽつと話し始めた。自分のクラスメートが変な勘繰りをして先生に失礼な事を言っていた事や、先生の元カノさんに数回遭遇して、先生たちが別れた事やその理由を知ってしまった事。


「…わたし…友達に…ちゃんと言ったんですけど。先生はそんな人じゃないって」
「……そう」
「あの人にも、あの、先生の…元カノにも、言ってやりたかった」
「それは言わなくて正解だよ」
「言いたかったんですっ!」


この時初めて国見先生の声を遮って叫んでしまった。やばい怒られる?と思ったけれどそんな様子は無く、先生はわたしの不細工な泣き顔から目を離して肩を落とした。


「……はあ。なにを落ち込んでるのかと思えば」


そう言って、近くに置いていたティッシュの箱から何枚か取り出すと、わたしの前にそれらを持ってきた。


「俺が元カノに冷たかったのは事実だよ。悪かったなって思ってる。だから俺も悪い」
「でも!陰であんなの言わなくたっていいじゃないですか!」
「それはそうだけど…そこまで干渉できないし」
「二股されてたんですよ!?」
「まあ、それで揉めて別れたからね」


国見先生は淡々としていた。文字通りわたしが一人で騒いでいる状態だ。先生、元カノさんと別れたばかりの時は元気が無さそうだったのに。あれは失恋のせいじゃなくて、単に調子が悪かっただけ?わたしが一人で気にしていただけなの?


「なんで…なんでそんなに平気な顔してんですかあぁぁ」
「うわっ」


恥ずかしくなって、でも喚くしかなくて、先生がくれたティッシュで思い切り鼻をかんだ。二度も国見先生に泣き顔を見られるとは。しかも勉強中に。


「…平気じゃなかったよ。悪いけど」


ひととおり涙を拭いて鼻をかんで、ゴミ箱がティッシュで一杯になりそうになった時。国見先生がぽつりと言った。
平気じゃなかったって、いつの話?まさか振られてしまった時期?


「そうなんですか…?」
「これでもちゃんと悩んでたしそれなりに落ち込んではいた」
「……」
「けど、もういいかなって思える事があった」


すると国見先生は、じっとわたしの顔を見た。涙でマスカラとか落ちちゃってるから見ないでほしいのに、わたしが質問するまで先生はわたしを見続けた。


「…それって、何ですか?」
「死んでも言わない」
「えっ!」
「とにかく白石さんが俺の事でそんな顔する必要ないってこと」


やっと国見先生は過去問に視線を戻して、わたしの情けない泣き顔は彼の視界から消えたと思われる。
先生、一度は落ち込んじゃったけど何かがきっかけで吹っ切れたって事なのかな。もう未練とか無いって事だろうか。

涙がすっかり渇いたわたしは質問を続けようか迷っていたけど、国見先生は先に勉強モードに入っていた。


「頑張れる?今日も」
「は、ハイッモチロンデス」
「そう来なきゃ」


でもその勉強モードは、なんとな〜くいつもより柔らかい感じがした。国見先生って意外と女子の泣き顔に弱かったりして。