03


人生初のボブカット。自分に短い髪が似合うなんて考えた事も無かったけど、美容師の花巻さんが言うんだから間違いない。…と思う。営業トークじゃ無いなら。

髪型を変えたのが土曜日だったので、翌月曜日は会社に行くのがドキドキだった。職場の人にどんな反応をされるだろうかと。


「おはようございまーす…」
「おは……?」


事務の仕事をしているわたしは自分のデスクにつくと、隣の席の先輩に挨拶をした。
先輩は顔を上げて挨拶を返そうとしてくれたが、途中で声が途切れた。「誰?」という顔をして固まっていたのだ。


「えっと、白石…です」
「白石さん!?えっ全然気づかなかった!」


先輩は飛び上がって驚いていた。こんなに大きな反応をされるなんてちょっと気持ちがいい。ビックリしたお陰で先輩が始業のために用意していた書類が床にばら撒かれ、一緒に拾う羽目になったけど。


「髪切ったの?」
「はい…」
「すごい似合うじゃん〜」
「ほ、ほんとですか?」
「うんうん。全然こっちのがいいよ」


いつの間にか近くの席の何名かもわたしの髪型に注目して、先輩に同意していた。
もしかしてわたし、人生の大半をロングヘアで過ごして損をしたんじゃないか?まぁそれは大袈裟にしても、そんなふうに感じてしまうほどの評価だった。

イメージチェンジはどうやら成功で、これから新しい恋に向けて良いスタートを切れそうだ。そう思った矢先、先輩が小声で一言。


「さては彼氏に切ってもらった?」


…美容師の彼氏に振られたことを言い忘れていたせいで、古傷を抉られた。





あの後、朝礼開始までの間に先輩には手短に説明した。以前付き合っていた彼には浮気をされていて、問い詰めたらアッサリ振られてしまった事を。

すると先輩は二十代女子にとって「男に振られる」という事がどれほどのダメージで、浮気をした男がいかに罪深いかを語り同情してくれた。たぶんこの人も酷い失恋を経験してるな。

失恋なんて初めてじゃないし、誰にでも起こりうることだ。浮気しただのされただの、珍しい事じゃない。でも自分が浮気をされたのは初めての事。この人といつかは結婚するのかな、って思っていたから余計にショックだった。
髪を切っただけでは、まだ完全には立ち直れそうにない。でも切り捨てなくては、バッサリとハサミを入れた長い髪のように。


「……すみれ?」


そう思っていたのに運命は残酷だ。忘れよう、前を向こうと思って歩いていたところで元恋人の声がわたしを呼んでくるなんて。


「わ…え…、ま、誠」
「合ってた。全然気付かなかった」


浮気をした張本人である誠という男は、悪びれる様子なくわたしに近付いてきた。わたしはもちろん警戒して、彼が一歩近づいてくるごとに後ずさり。

誠は自分から逃げていくわたしに気を悪くしたのか眉をひそめた。そして、以前までわたしの唯一の自慢だったさらさらの髪が、今は姿を消していることに気付いた。


「つーか何、その髪」


人に向かって指をさすなと習わなかったのか、この人は。習わなかったんだろうな、思いっ切りわたしの顔と髪とを指さしまくっている。
わたしもそれにカチンと来て(そもそも謝罪無しに近寄ってくること自体が不愉快だった)、気合を入れて言い返した。


「…切っただけですけど」
「見りゃ分かりますけど」
「じゃあ何で聞くの」
「俺が長いの好きだって知ってるくせに切ったんだ?」


この期に及んでそんな事を言われるなんて思わなかった。わたしはもうあなたの彼女じゃないんだから、髪をどうしようとわたしの勝手だ。

誠への未練が全く無いわけじゃない。浮気はショックだったけど、好きなところも沢山ある。だからこそ無理やり気持ちを断ち切るために切ったのだ。それなのに、そんなわたしの前でこの言い草。


「べつにもう関係ないじゃん。わたしより良い人できたって言ってたでしょ、そっちと仲良くすれば!」


精一杯の強がりだった。もしも今、誠が「あの子とは別れた。酷いことしてごめん」と謝ってくれば、弱いわたしはきっとまた気持ちが揺れてしまう。それほどまでに未練タラタラなのだ。だから、これを言うだけで本当に精一杯。


「へー…そんな事言うんだ」


交際期間中は反抗なんかしなかったわたしがこんな事を言うもんだから、誠は驚きと苛々が募っているようだった。
にゅっと手が伸びてきて、殴られるのかと思い身体をビクリと引き攣らせたが、彼の手は切ったばかりのわたしの髪へ。


「ちょっと!触んないで」
「はあ?良いだろ別に、俺は美容師だぞ」


花巻さんが綺麗に切ってくれた髪を、表面から内側から観察している。そして最後に真正面からわたしを見て、両サイドの長さが均一であるのを確認したかと思えばパッと手を離した。


「なんだよコレ。誰が切ったんだっつうの!顔真ん丸じゃねーかよ」
「………」


気にしていた顔周りの髪がすっかり短くなったのを見て、誠は呆れたように言った。
やっぱりわたしの顔は丸い。誰が見たって丸いのか。「可愛い」「前よりもいい」と言われたってそれはあくまで髪型の話で、短くした事によってわたしの丸さは強調されてしまったのだろうか?やっぱり切らないほうが良かったの?


「…切ったのは俺ですけど。」


そこに聞こえてきたのは、二ヶ月に一度、わたしの髪を触っては色々な話をしてくれる美容師さんの声であった。


「は…え、花巻さん?」


わたしはびっくり仰天だ。ここは美容室から数駅離れた場所だし、花巻さんが偶然通りがかるのも凄い確率。しかもわたしが元恋人と揉めているところへ。ついでに元恋人がわたしの髪型に苦言を呈しているところへ。


「誰?」
「美容師の人だよ…わたしの髪、切ってくれてる人」
「ふーん」


誠は自分よりか背の高い花巻さんを見て少し大人しくなったかに見えたが、その失礼な態度はあまり変わらなかった。


「白石さんの髪型について文句があるなら俺にどうぞ、参考にしたいんで」


花巻さんはと言うととても冷静で、笑顔すら浮かべているように見えた。
短気なわたしの元恋人は、相手がそんな余裕綽々の顔で見下ろしてくるのが当然頭にきたようである。


「…すみれは頭の形が丸くはないっすよ」
「左側のほうが丸いですよね?ついでに毛量も左右で違いますよね、知ってます」
「頭のうしろはゼッペキだし」
「当然それが分からないように切ってます。きっとコンプレックスでしょうから」


ふたりの男性がわたしの事について言い合っているが、とても気持ちのいいものではない。わたしが自分の頭、髪の毛について気にしている事をバンバン言われてしまった。
というか花巻さん、数ヶ月に一度しかわたしの頭を触らないくせに、そんなの気付いていたのか。


「長けりゃ色々工夫して隠せる事でも、短くなるとどうにも出来なくなる事くらい知ってますから。それでも切りたいって言ったんですよ彼女は。理由は知りませんけどね」


最後の一言を強調して花巻さんが言った。「理由は知りませんけど」と。
花巻さんは理由を知っている。わたしが失恋した事を。花巻さんも今、彼に向かって攻撃してくれたのだ。わたしの代わりに。


「…そうですか。勉強になりました」


誠は決して諦めてはいない顔だったけど、花巻さんの前で美容師と名乗るには自分がまだ未熟である事には気付いたらしかった。


「それはよかったです」


にこりと笑った花巻さんを見て、今日はこれ以上この場にいない方が良いと判断したらしい。誠はほんの少しだけ、気のせいかもしれないけどぺこりと頭を下げてから、その場を後にした。