09


いつかわたしも背の高い男の人を連れて、颯爽と街中を歩いてみたい。
…というのは女の子なら誰でも夢見たことがあると思う。わたしも小学校の時、少女漫画に出てくる格好いい男の子を見てそう思った。学園ドラマだって男役はたいていイケメンで背が高い。

まあ、実際わたしがそんな素敵な人と歩く機会なんてやって来ないと思っていたけれども。


「何か食いたいもんある?」
「い、いえっ、特には…」


なんと今、三つ年上の大学生と並んで歩き喫茶店に入るという、どこからどう見ても「デート」な事をしている最中。
しかも相手は家庭教師として毎週うちに来ている国見先生だ。その厳しさに何度涙をこらえたか分からない。最初は鬼みたいで厳しくて最悪だと思っていたけど、やっと会話が弾み始めたかなあと思ってきたところ。国見先生がわたしとの会話を「弾んでいる」と感じているかは別として。

とにかくそんな微妙な関係なのに机を挟んで一緒にメニューを覗きこんでいるというシチュエーションで、わたしが大変混乱しているという事だけは伝えたい。


「俺コーヒーでいいや」
「じゃあわたしも…」
「ホット?」
「あ、アイスで」


国見先生は頷くと、すみません、と小声で言いながら片手を挙げた。


「コーヒーふたつ、アイスとホットで」
「はい。お砂糖やミルクはどうされますか?」
「要る?」
「欲しいですっ」
「ください。どっちも」
「かしこまりました」


そして店員は席を離れていった。
ほんとうはわたし、コーヒーじゃなくて紅茶が良かったんだけど。先生と二人きりのシチュエーションに緊張して、メニューをゆっくり見る事が出来なかった。コーヒーも飲めないことはないから大丈夫かな。


「えらい静かじゃん」
「え!いやっ」


やばい、コーヒー紅茶論争を頭の中で繰り広げたせいで無言になっていたようだ。
先生はリラックスした様子でテーブルに片肘をつき、ポケットから携帯電話を取り出した。
携帯の画面を見る先生の目が、瞬きするたびにまつ毛が揺れている。先生の顔、いつもわたしの部屋の中で見ているのに今日は雰囲気が違う。


「だ…だって先生と外で会うの、初めてじゃないですか」
「そだね。財布を取り返した時以来」
「あ、そっか…」


そう言えば、わたしと国見先生は仙台駅で会ったのが最初なのだった。もう「財布を取り返してくれたAさん」ではなく「家庭教師の国見先生」という肩書きに慣れてしまったけど。

やがてホットコーヒーとアイスコーヒーが机に置かれて、「先にどうぞ」と言う先生に甘えてコーヒーにミルクを注いだ。こういうところは何か優しいな、わたしが歳下だから?それとも外だからかなぁ。


「今日ほんとに暇だった?大丈夫?」


今度は先生がミルクを注ぎながら言った。


「平気です!でも…」
「でも?」
「わたしと一緒に居ても、大丈夫なんですか?」
「…なんで?あー生徒だから?別にいいんじゃないのこれくらい」
「そうじゃなくて…」


この喫茶店はガラス張りでは無いから、外からは見えないけれど。わたしと一緒に居るのを知り合いに見られたら、ややこしい事にならないだろうか。


「もし、彼女さんに見られたりしたら…」


そう、特に彼女に見られてしまったら。


「……あー、そんな事」
「っすすすみません差し出がましい事を」
「ていうか彼女居るって言ったっけ?」
「!!」


言われてない!ただわたしが!この間道端を歩いてるのを勝手に見かけてしまっただけだ。国見先生はちょっと不審そうに眉を寄せている。わたしが変な勘ぐりをしてると思われている?


「や、聞いては無い、ですけど。もし居るんだったらヤバイんじゃないかなぁと」
「それはどうも。今日の相手は男だから平気だよ。こないだ一緒に居たノッポのやつね」
「あ…!あの人」


ノッポの人はBさんだ。愛想が良くていかにも温厚そうな人。スリの犯人を取り押さえてくれたほうの人だ。


「あの、あの人にもお礼言っといてくださいね」
「もう言ったよ、きみのお母さんがくれた菓子折りもちゃんと渡したよ」
「そうですか…」


実はうちのお母さん、国見先生が家庭教師に来た次の週にはしっかりとお礼の品を用意していた。それを「もう一名の方にも渡してください」と先生に預けておいたのだ。


「もしかして、あの人もバレーボールやってたんですか?」
「うん。今も時々」
「あ、まだやってるんですね」
「そうだね…ガッツリじゃないけど」


そう言うと、コーヒーを冷ますようにふーっと吹いて、先生はカップに口を付けた。


「やっぱりなかなか辞められないもんですか?」


わたしと先生とでは境遇が違うと言うのは重々承知だけれども、他の人がどうなのか気になってしまう。部活の引退も試合に負けた事も、始めはなかなか割り切れなかったから。
先生は高校三年でバレー部を引退した時に、すっぱりと気持ちを切り替えることが出来たのだろうか。


「白石さんはどうなの?」


しかし先生の答えを聞くことはできず、逆に質問された。


「…ずっと一緒に頑張ってきた友達が居るんで、寂しいですけど。もうすっかり受験モードですね」
「ふーん…」


元々強い部活じゃ無かったから、そんなに引きずらなかったのかも知れない。何だかんだ皆勉強を優先する事もあったし、プロになりたいとかスポーツトレーナーになりたいとか、専門的な道に進むチームメイトも居なかった。
だから皆、引退と同時に「ただの受験生」へと姿を変えたのだ。

私も少しだけ引きずったけど、今じゃ立派な受験生。厳しい家庭教師のお陰もあるだろうけど、なんちゃって。こんな事言ったら怒られそう。


「何か、白石さんって凄いね」
「はい?」


ふと国見先生が言った意味が一瞬分からなくて、失礼な聞き返しをしてしまった。でも先生は気にする様子なくコーヒーカップを置きながら続けた。


「半ば無理やりとはいえ、家庭教師つけてちゃんと勉強してんだもん」


それが凄いと、国見先生は言う。わたしはただ親の言うとおりに家庭教師を受け入れて、勉強しているだけなのだけど。
わたしが凄いと言うなら、この勉強嫌いなわたしに勉強させている先生のほうが凄いと思うんだけど。


「…すごいですか?」


わたしの、どこが?
先生は一瞬わたしと目を合わせ、すぐにテーブルの上へと視線を落とした。


「俺は暫く受験とは向き合えなかったから…」


その時初めて、国見先生の寂しそうな顔を見た気がした。遠くを見るような目をしているのに、じっとテーブルを見つめている。
先生はそんなに真剣に、部活に取り組んでたの?もしかしたら高校時代は部活ばかりで勉強なんかそっちのけで、わたしのように高三になってから慌てて受験勉強を…


「まあ俺はもともと成績良かったけどね」
「うっ」


なんだ、やっぱりわたしとは違ったらしい。
その時ちょうど先生の携帯電話が鳴り、ノッポのBさんから連絡が入ったようだ。
「着いたみたい」と顔を上げた先生は、いつの間にかいつもの顔に戻っていた。