06


大きな歓声、大勢の観客によるスタンディングオベーション。吹奏楽部が校歌を演奏するのを聞きながら表彰台に登る。

…なんてことを一度も想像しなかったと言えば嘘になる。これでも三年間休まず練習に出席したんだし(インフルエンザの時以外は)、隠れて練習したりしていたんだから。自分の頑張る姿を見られるのは恥ずかしくて、ユリコにも内緒にしていたけどさ。

そんなわたしの青春を捧げた部活動は今日で幕を閉じた。高校生最後の大会で、わたしたちの学校は華々しく一回戦で散ったのだ。


「嘘みたいだねえ…」


帰り道、わたしとユリコは夕日に向かって歩くという青春の一ページを謳歌していた。

自分たちが負けてからは他の試合を観てもいいし観なくてもいいという状況になり、そんな時にまだ先ヘ進むチームの試合なんか観る気分になれなくて、わたし達の学校は試合会場を後にした。
女子バドミントン部はわたし達三年が抜ければ部員は六人だけ。小ぢんまりとした引退の挨拶をして、あっさりと解散したのである。
これで三年間頑張ってきた部活が終わりなんて、本当に嘘みたい。


「…そうだね。まあ優勝できるとは考えなかったけど、最後の最後も一回戦負けとは」
「ねー」
「やっぱ悔しいわ」


ユリコは特にうちのバドミントン部の中でも上手かったし、悔しさも人一倍だと思う。歩きながら足元の小石を蹴るのはまだまだ納得いってない証拠かなぁとか。そして、何個目かの石を蹴った時にユリコが言った。


「わたしねえ」
「ん」
「すみれが一緒に頑張ってくれてよかった」
「…えっ?」


思わず声が裏返った。空耳かと思ってユリコのほうを見たけど、どうやら空耳では無い。照れくさそうに鼻をぽりぽりかいているからだ。
そんな事されたら、そんな事言われたらこっちまで恥ずかしいじゃん。


「な、ナニソレ超照れるっていうか、えっ何それ」
「すみれが居たから頑張れたモン」
「え、えええ」
「すみれはどうよ?」


そんな事、面と向かって言われた事ない。今日で引退だから?わたしだって一人で続けるなんて無理だったし、今日だってできるなら勝ちたかった。不運にもうちの学校には「コーチ」と呼ばれる人が居なかったから、あまりテクニックを磨くことは出来なかったけれど。


「わたしもユリコが一緒だったから、続けられた…と思う」


あなたのお陰だとよ言い切るのは恥ずかしかったので、語尾を曖昧にしてしまった。それでも彼女には届いていそうだけど。
ユリコは「あーあ」と息をついて、溜息混じりに言った。


「こっからは完全に個人戦だね」
「個人戦?」
「そう。受験戦争」


受験戦争。今、最も聞きたくない四字熟語ナンバーワン。最も忘れかけていた単語ナンバーワン。最も忘れたい未来ナンバーワンだ。せっかく感傷に浸ってたのに!


「いい雰囲気だったのに嫌な事思い出させないでよおぉ」
「えー、だってすみれはAさんとのバトルが残ってるじゃん」
「…国見センセイね」
「へー、国見先生っていうんだ」


国見先生との「バトル」って言い方は言い得て妙だ。わたしは毎週日曜日、これからも国見先生との二時間を耐え抜かなければならない。もしかしたら三年間の部活より辛いかも知れないけど。



そんな、三年間の部活動に終止符を打つというイベントから一週間。非情にも日常はすぐに戻ってきて、皮肉にもわたしはすぐにそんな日常を受け入れた。さすがに受験生なもんだから。

国見先生とはこれまで、一番苦手だった数学の勉強に重きを置いていた。おかげで他の科目はまだ少ししか見てもらってないけど。
その代わり、初めて数学の小テストで満点を取るという事態が発生したのだ!


「…やっとスタート地点だね」


日曜日、その小テストを見せると国見先生は無表情で言った。てっきり少しくらいは褒められると思ったのに。


「やっとですか…」
「だって白石さん、俺が来るまでは家で自主勉強とかしてなかったよね?」
「うー…はい」


そうか、受験生は言われなくても自習をするのか。習ったばかりの内容すらテストで解けないようでは、まだまだ先生に認められるのはほど遠いらしい。

でも、今までは部活を理由に勉強をして来なかった。実際練習終わりに帰宅してから教科書を開くのは苦痛だったし。今はもうそんな事は無い。


「…これからは頑張ります」
「うん。是非よろしく」
「時間も余裕できますしね…はは」
「余裕って?」


わたしに出来た時間の余裕。これまで部活に費やしていた時間が丸々空いたという事だ。
部屋の隅に立てかけてあるバドミントンのラケットを指さして見ると、国見先生もわたしの指の先を見た。しばらくの静止。そして、音もなく瞬きをして一言。


「……部活、引退した?」


さすが国見先生は察しがいい。わたしも無言で頷いた。


「…そう。」
「はい」
「そういや先週は大会だったんだっけ」
「はい…」


あれからもう一週間が経つ。今日は朝から暇で暇で仕方がなかった。もう日曜日の練習に行かなくても良いなんて不思議だ。朝は自然と目が覚めてしまうので、一日が長く感じてしまう。


「お疲れ様」


国見先生は無言のわたしに声をかけてくれた。
その言葉は、先生の得意な社交辞令ってやつかも知れない。
心にもない言葉だったかも知れない。
でも、わたしの心には充分に響いてしまった。一年生の時から続けてきた事がゼロになって、たったの一週間では整理できないのだ。地区予選敗退の常連だったとしても。


「……」
「……何、どうし…、?」


二週間前の日曜日、せっかく国見先生に頑張ってみればと応援してもらったのに。結局は最後も一回戦で負けてしまった。
それが悲しくて悔しくて情けなくて、今更だけれども涙がでてきた。


「ちょ…白石さん?」
「す、すみません」
「大丈夫?」
「だいじょ、あのっ気にしないでくださ」
「そうは行かないよ…」


先生が初めて慌てる様子が見えた。すごく貴重な表情が見えそうなのに、涙のおかげで視界が悪い。指で一生懸命涙を拭おうとするけど間に合わない、袖を使ってやろうかな。やばい、鼻水出てきた。垂れそう。


「はい。きみん家のだけど」
「…ずびばぜん」


国見先生が床に置いてあったティッシュケースを寄越してくれたおかげで、長い鼻水を垂らす姿を見せずに済んだ。
ティッシュを数枚引っ張り出してチーンと鼻をすすり、更に数枚取り出して涙を拭く。…今日は予定もなくて暇だったから少しメイクしてるのに台無しだ。気合を入れたところで「そんな暇があるなら勉強して」と言われるのだが。


「勉強、止めてすみませんでした…」
「気にする事ないよ」


涙が落ち着いた頃、お詫びをすると国見先生はやはり無表情で言った。でも、その言葉にはいつもより棘が少ないような気が。


「…先生、なんか今日優しくないですか」
「いくらなんでも泣いてる子に向かって厳しくするほど鬼じゃないよ」
「……。」
「…けど」
「けど…?」


わたしが聞き返すと、先生は鞄の中から何かを取り出した。それをドサッと机に乗せて、その上に先生の手がドンと乗る。


「って事は今まで部活に割いてた時間、自分で勉強してくれるんだよね?」


そう言って手をどかすと現れたのは、分厚い数学の問題集。こんなに分厚いの、当然買ったことも借りたことも無い。一生かけても終わらないんじゃなかろうか。


「これ、白石さんにあげるね」
「……アリガトウゴザイマス。」


国見先生から貰った初めてのプレゼント、見たこともないほど分厚い数学の問題集。これを毎日少しずつ解いていけと。部活が無くなったんだから出来るよねと。国見先生の静かな目からは言いたいことが全て伝わってきた。