02


家庭教師なんて絶対に嫌だ。そりゃあ受験生にしては自覚が足りなかったと思うけど、わたしは部活だってしているんだしそこまで厳しくされなくても良いんじゃないか。テストで赤点を取った事は無いし、最低限の成績は保っているんだから!

…とお母さんに直談判してみたものの相手にされず、憂鬱な気分のまま迎えた日曜日。


「すみれ、家庭教師って今日からだっけ?」


部活を終えて、隣で着替えている友人のユリコが言った。
彼女はわたしが先日スリに遭った時、待ち合わせをしていた相手である。一番の親友なのでスリの事も、あの時知らない人が助けてくれた事も、そして強制的に家庭教師を雇われてしまった事も知っているのだ。


「そうだよ。もう最悪」
「すみれのお母さんって意外と強硬派なんだねえ」
「娘の意見ムシだよ!信じらんない。しかもわざわざキビシイ先生をお願いしたんだって」
「ひー」


ユリコは苦そうな顔をしてロッカーを閉めた。わたしも先週初めて聞いた時はそうだった、一晩中青汁を飲まされたような顔で過ごしたと思う。
昨日の夜も今日を迎えるのが嫌過ぎて逃げ出したかったけれど、仕方なく部屋だけは片付けておいた。が。


「…帰りたくない」
「帰らなきゃ。どのみち受験からは逃げられないよ」
「分かってるけどお」
「報告待ってるね!どんな鬼教師だったか!」


わたしの肩をポンポン叩いて励ますユリコだけど、ユリコはまあまあ勉強が出来る子だ。…「勉強が出来る」んじゃなくて、彼女自身が努力している結果なんだろうけど。どうして部活で疲れて帰ってるのに、その上勉強まで頑張れるのか不思議だ。


「…ただいま」


結局ユリコと別れた後は、家に帰るのが億劫すぎてわざとゆっくり歩いて帰ってきた。電車もわざと乗り遅れたし、用事もないのにコンビニに立ち寄ったりもした。
けれど夕方の五時、家庭教師の先生が来る時間になっても帰らないのはさすがに先生に失礼だろうと、足を引きずるような気分で帰宅したのである。


「おかえりすみれ!遅いじゃないの」
「……うん。色々やってて」


色々っていうか寄り道だけど。玄関の時計は四時五十五分を指している、もうすぐ五時だ。そしてこのお母さんの慌てっぷり。
…更に靴を脱ごうと足元を見れば、見慣れない靴が一足置いてあるではないか?


「先生もう来てるよ。挨拶して」


やばい。既に家庭教師が到着しているらしい。
ユリコに「頑張ってくる」と隠れてメールを送り、部活の鞄を背負ったままリビングへと歩く。
どんな先生だろう。おじさん?お姉さん?お兄さん?波長の合う人だといいな、と思いながらお母さんの後ろについてリビングに入った。


「ほらすみれ!」
「こんにちは…」


わたしの挨拶を聞いて、広いとは言えないうちのリビングの真ん中にあるソファに腰掛けていた人物が腰を上げる。
すらりと高い身長。我が家はここまで背の高い人がいないから、天井で頭を打つのではないかと冷や冷やした。そして振り向いた先生の顔を見た時に、わたしは思わず声を上げた。


「…あ」
「?」


わたし以外の二人、お母さんと先生はきょとんとした様子でわたしを見た。

この人のことを知っている。会ったことがある。それどころか助けてもらった。全財産の入った財布を、鞄を取り返してくれた人!AさんBさんのうちの、Aさんだ。


「あ!あっ、あの!あなたは」
「…?」


ぼんやりした表情で首を傾げるその姿、間違いない。
身長も高いし、そういえば髪がさらさらで綺麗だった。鼻筋が通ってて愛想の良くなさそうな、でも最後の最後にちょっと優しい言葉をかけてくれたあの人。仙台駅で会ったAさん!


「あの、先週わたし仙台で財布盗られそうになって!捕まえてくれた人ですよね!?」
「あ…ああ。あの時の」
「えっ!あなたが!?」


どうやらAさんも思い出してくれたようだ。そしてお母さんがビックリ仰天してAさんを見、先程よりも慌てた様子で頭を下げ始めた。


「その節は娘が申し訳ございませんでした!」
「いや、そんな」
「この子の事だから、ボーっとしてたんだと思いますので!先生が居てくれて助かりました」
「俺じゃなくて一緒に居た友人が」
「そのうえ勉強まで見て下さるなんて!」


お母さんの勢いが凄すぎてAさんが少し引いている。そんな彼には気付かずにお母さんが「何か持って帰ってください!あっ勉強見てくださってる間に何か買ってきますから!」などと一人でキャンキャン話している。

お母さんが慌てているお陰でわたしは少し冷静になれたのだが、つまり、Aさんが今ここにいる。ちょっと格好良かったなぁ、と思ったあの時のお兄さんが。お母さんが雇った家庭教師として。って事は。


「…わたしの家庭教師ってこの人?」
「そう。国見英先生」


クニミアキラ先生。名前が「アキラ」って、わたしが名付けた「Aさん」は完璧な仮名じゃないか。
お母さんに紹介されたAさん、いや国見先生はわたしのほうに向き直ると、駅で会った時のように軽く頭を下げた。


「よろしくお願いします。」


嘘みたいだ。Aさんがわたしの家庭教師!ドキドキするのは初めての家庭教師だからか、この偶然に驚いているせいか、それともAさんが見れば見るほど格好良いから?



「白石すみれです。お願いします」
「国見英です」


わたしの部屋に入ってから、わたしたちはもう一度自己紹介と挨拶をした。

国見先生にはお母さんが用意した新しい座布団(たぶん高いやつ)に座ってもらい、わたしはとりあえず部活の鞄を部屋の端に置く。
こんな事ならもっと早くに帰ってきて、私服に着替えておけば良かった。汗をかいたままの格好で、髪の毛もきっと少しくずれているに違いない。


「…白石さんは部活か何かの帰り?」


あれこれと考えながら勉強道具を取り出していると、国見先生が言った。


「はっ、はい。すみません見苦しい格好で!」
「何部なの?」
「えと…バドミントンです」
「へえ。難しそう」


残念ながら、あまりバドミントンに興味は無さそうだ。まあ、わたしも何か特別な思いがあってバドミントン部に入ったわけじゃない。親友のユリコが入ると言うから一緒に頑張っているだけで。


「早速だけど苦手科目は?」


本当に早速、ずばりと勉強の質問をされた。苦手科目は殆どだ。得意な科目なんてない。強いて言うなら英語はそこそこ好きだ。だって喋れたら格好良いじゃん。だからって英語の成績がいいかと聞かれれば答えは否。


「主に数学…あと…日本史とか…まぁそのへんです」
「国語も苦手だったりする?」
「うぇ!?な、なぜ」
「なんとなく」


なんとなく、って言うけれど絶対わたしの言葉選びが下手くそなのを見抜いて「国語も苦手」と言い当てたに違いない。
この人、駅で会った時もそうだけど、何も気にしてない振りして色々見ているようだ。侮れない。


「志望校は?」
「…決まってません。県内としか」
「どこでもいいの?学部とか」
「自分の頭で入れるところ…」


なんとも情けない話だが、そうとしか答えられない。入れるならどこでも良いのだ。私立は学費が高いからやめてくれと親に言われているので、国公立を目指してはいるけれど。明確にココ、と言える志望校は無い。
だから「自分の頭で入れるところ」という答えなんだけど、国見先生はそれを聞いてシャーペンで頭をかいた。


「…わかった。じゃあ決まり作ろう」
「決まり?」
「今日から毎週日曜日、この二時間だけは集中して勉強すること」


五時から七時までの二時間、国見先生と勉強するあいだは集中すること。
もちろん先生が見ているそばで勉強するなら集中せざるを得ない。国見先生みたいな人と二人っきりの部屋で集中出来るかどうかは分からないけど、なんちゃって。


「…わかりました」
「あともうひとつ」


国見先生も彼自身の鞄からノートなどを出しながら言った。


「俺の前で勉強に関する後ろ向きな発言は一切しないこと」


そのノートを机に置き、じっとわたしの反応を見る。わたしは言われた事の意図が分からずに首を捻った。だって仮にも家庭教師としてやって来た先生が、いきなりそんな事を言うとは思えなかったので。


「…一切?」
「一切。…一切って意味わかるよね?」
「そ、それは分かります」
「そういう事だよ」


何食わぬ顔でノートを開き、わたしの出した教科書をぺらぺらとめくりながら先生が言葉を続けていく。


「せっかく親御さんが高い金出して家庭教師つけてるんだから」
「はい…」


それは確かにそうなんだけど。わたしは嫌だと言っているのに、無理やり家庭教師を頼んだのはお母さんじゃんか。
結果的に来てくれたのがAさん、国見先生だから少しだけ気力が湧きつつあるけれど。


「それに俺、やる気ない人に教えるほど暇じゃないから」


ところがその時、幻聴か?と思えるような言葉が聞こえた。


「………え?」
「何?」
「いやっ…え?」


今のは幻聴じゃなかったのか?初対面の生徒に向かって「やる気ない人に教えるほど暇じゃない」なんて普通、言うだろうか?わたしの聞き間違い?
そんな、ハテナマークだらけのわたしを見て国見先生がずばりと一言。


「事前に聞いてなかったの?厳しい先生が来るって事」


…やっぱり家庭教師なんて受け入れるんじゃなかったかも知れない。