人間誰しもコンプレックスのひとつやふたつ、持っていると思う。脚が太いとか顔が丸いとか外見的な事は勿論、物覚えが悪いとか人見知りが激しいとか男性恐怖症とか目には見えないコンプレックス。
私も鼻が低い事と二の腕が太い事がずっと悩みだけれど、それともうひとつ。


「じゃあ次、白石」


現代文・または古典などの授業中に当てられた日には大きな溜息をつきたくなる。
教科書の読み上げなら特に問題ないけれど、前に出て答えを黒板に書けと言われたら消えて無くなりたくなるのだ。


「もう見慣れたけど・・・ちょっと丸文字すぎないか?」


書き終えた私の文字を見て先生が言う。はは、と苦笑いで返す私、ちょっとざわつく教室内。
私は恐らくこのクラスで、いや青葉城西高校の中で一番字が汚い人間である。「丸文字」なんてオブラートに包んでくれているのはせめてもの配慮で、本当はこう言いたいのだろう「女子のくせに字汚くねえか?」と。


「マークシート以外の入試もあるかも知れないからな」


そのように先生が続けて、分かってるっつーの、と思いながら私はまた苦笑いで返した。


「すみれの字は愛嬌はあるんだけどねえ」


昼食を食べながら友だちがフォローしてくれるけど、字に愛嬌って必要だろうか?
そもそも「愛嬌」という言葉選びだって「字が汚い」のを柔らかく言ってるだけじゃん、なんて卑屈になってしまう。
どうして私は女の子らしくて細く綺麗な字、または程よく丸いだけの可愛い字が書けないんだ。小学生低学年のころには書道に通っていたんだけどなあ。


「白石ー」
「!」


そんな、字の汚い私も人並みに恋とかしちゃってるわけで。
同じクラスの及川徹に名前を呼ばれて跳ねあがり、振りむいてみれば先日提出したプリントを及川が配っているところだった。どうやら彼は今日、日直らしい。


「これ返すね。リーディングの」
「ありがとう」
「はい。ていうかさ、ほんとに白石の字ってビミョーだね」
「うっ」


痛い痛い痛い、心が痛い。及川徹は良くも悪くもはっきりとものを言う性格だ。きっと及川の辞書に「オブラート」という単語は存在しない。

及川の配るプリントは私のぶんが最後だったようで、そのまま彼は近くの椅子を引いて座った。たった今私のコンプレックスをグサリと攻撃したくせに、私の近くに居座ろうと言うのか。悲しさと嬉しさがものすごいスピードでやってきて感情が追いつかない。


「試しにカワって書いて」
「えっ?カワ?」
「さんずいじゃないほう。三本川」


三本川のカワ、つまり及川徹の「川」。これは非常に難しい漢字のひとつだ。三本それぞれの縦線の長さ、向きなどが均一すぎても変だし違いすぎても変だし。それに、好きな男の苗字の一部を、その本人に見られながら書くなんて。

当然私は緊張してしまい、丁寧に書いたつもりなのに見栄えの悪い「川」の字になってしまった。


「へったくそだね三本線書くだけなのに」
「ば…バランスが難しいんだもん」
「じゃあイチは?イチ」
「イチ?」
「イワイズミハジメのハジメ」


岩泉は及川と仲のいい同級生で、彼の名前はとても書きやすい。岩も泉も難しくないし、下の名前のハジメなんか「一」のみだ。
それくらいなら、と返ってきたプリントの裏に横一本の線を書き及川に見せた。


「わあ上手〜」
「馬鹿にしてんでしょ」
「ちなみに及川のオイは?」


これまた難しい字を指定してくるもんだ。そもそも「及川徹」の字は三文字とも簡単ではないのだ、私にとっては。と言うか平仮名だって片仮名だって満足いくよう書けたことなんて一度も無い。
案の定、及川の「及」をゆっくり書いてみたけれどバランスの悪い変な文字になってしまった。


「…難しい…」
「ぐにゃぐにゃじゃん」
「これは私じゃなくても難しいと思うけど!?」
「あっそう」


あっそうって何だよ。どうせ私が字を書くのが得意じゃないのを弄ろうとしたんでしょ、知ってますからね。小学生の頃から慣れっこのイジリだもん。
だから、いつ笑われてもすぐに怒り返す用意はできていたけれど。


「今のうちに練習しといたら?」


及川は笑い声ひとつあげずにこう告げた。練習しといたらって、字を?それとも、「及川」と書くのを?いやいや、ご冗談を。
でもその真意が分からないまま及川は立ち上がり、自分の席へと戻ってしまった。

今のうちに練習しといたら?

及川の言ったあの一言が頭の中を駆け巡る。字を書くのを練習すべきなのは重々承知だけれども、わざわざあのように言ったのは彼の目の前で不細工に書いてしまった「及川」の文字を練習しろという意味なのか。でも私が練習したからって、成果を発揮する時なんて無い。私が頻繁に「及川」と書く機会なんて。


「おい…かわ…及川、及川…」


それでも好きな人に練習しろと言われたら、家に帰ってからも勝手に手が動いてしまうのだった。だって好きな人の名前だし、私のノートに「及川」の文字が増えていくたびに好きな気持ちが膨らんでいくようで、相手に伝わるようでドキドキする。

…学園ドラマの見すぎだな。現実の恋は上手くいかない。ちまちまと及川の名前を書き連ねても彼に届くわけないし、なんたって書かれた文字は総じて丸っこく、バランスの悪い字なのだから。


「むずっ」


やっぱり及川の唯一の問題は、名前の漢字が書きづらいことだ。万が一いつか私と及川が結婚すれば私は及川の姓を名乗ることになる。そうなれば私は事ある毎に書かなくてはならない、及川すみれと。


「……及川すみれ…」


ノートを埋め尽くす及川という文字の中で、一つだけ後ろに自分の名前を合わせてみる。汚い文字で。

そうか、私はもしも及川と結婚したら「及川すみれ」になるんだ。
私たちの子どもも及川になり、幼稚園や小学校の持ち物に「及川」と書かなくてはならない。もしそうならば練習しなくちゃならない、この文字を書くための。もしかして及川はそのために「今のうちに練習しといたら」と言ったんじゃ…

そこまで考えたとき「お風呂入りなさいよ」と親に呼ばれてやっと我に返った。少女漫画思考も大概にしろ、私。





あれからほんの数日ほどは、及川のことが気になって気になって仕方が無かった。こっそり「及川」と書く練習だって続けたし、もちろんほかの文字だって綺麗に書けるように努力した。成果は全く見られないけど、とにかく「及川」だけはしつこく書き続けたのだ。

及川、好き。そんな事を考えながら好きな人の名前を書く時だけは、少しだけ筆圧が弱まって、お上品な感じになれたのだ。


「白石ー日誌書いてくんない?」


ある日、私はとてもラッキーな事に及川と一緒に日直をする事になった。部活も違うし共通の話題も多くない私が、及川と少しの時間だけでも一緒に過ごせる貴重なチャンス。
ただ、一緒に行う作業は放課後に日誌を書くことで、書くのは私で、私は字が汚いんだけれど。


「…わざと私に頼んでるでしょ」
「名答〜」


及川は調子よく答えると、いつかのように近くの椅子を引っ張ってきて座った。

どうせまた私の書く字を汚いだの何だの言うに違いない。そりゃあ好きな人に弄られるのは嬉しいけれども、女のくせに字が汚いなんて恥ずかしい。
でももう及川は目の前に座っているし、日誌は今日のページが開かれている。この苦痛とも幸運とも言える複雑な時間を平常心で過ごすため、私はなるべくいつも通りに字を書いた。


「さすがに自分の名前はそこそこ綺麗に書けるんだね」
「うるさいなあ…」


まずは日誌の一番上に、今日の日直の名前を。自分の名前は小さなころから嫌というほど書いてきたし、慣れているから書きやすい。それでも周りの女子に比べたら可愛くもなんともない字体だろうけど。
だから「そこそこ綺麗」と言われたところで喜びも浮かんでこず、続いて同じく日直である及川徹の名前を書いた。


「あれ…」


私が書き終えた瞬間に、及川が小さく疑問の声を漏らす。どうかしたのかと顔を上げるも、彼は何も反応しない。


「何」


聞いてみるけど、やはり無反応。及川の目は私の顔ではなく、日誌の上を凝視していた。


「何よ?」


一体どうしたと言うんだ、今更私の字の汚さをわざとらしく指摘するつもりか。
睨みつけてやるけど反応はなく、だんだんイライラしてきた。もういい無視して書き続けよう。そう思ってペンを握り直した時にやっと、及川徹が言った。


「俺の名前、練習した?」


握り直したはずのペンが私の手からすり落ちて、かしゃんとプラスチックの音がひびいた。


「え…」


練習?名前?及川の?まさかそんな。するわけが無い。え、いや、ごめん嘘。した。したけれど。バレた?いや、バレるはずは無い。練習なんてしていない。そういう事にすればいい。だって私が家であれほど「及川」の字を書いて、ついでに「及川すみれ」なんて書いていたとしても、それが本人にバレるわけが無いんだもの。

…一瞬の沈黙でこれだけのことが頭を過ぎったというのに、私の口から出てきたのはあまり賢いとは言えない内容であった。


「…ってない!してない!一切してない!一回もしてないから!全然してないからね!」
「いや否定し過ぎじゃない?」
「うるさい!してない!」


どうしよう。明らかに怪しいぞ私。ほらまだ教室に残っている数名の生徒も、私がなにを血迷っているのか怪しげな目でこちらを見ている。
一生懸命否定する私をどうも信じていないようで、日誌を思い切り閉じた私に及川はしつこく頼んできた。


「ねー書いて、机に書いてみてよ鉛筆で」
「絶対やだ」
「書けって」


すぐ消せるじゃん、と言いながら無理やり鉛筆を持たされてしまった。やばい。

確かに私は「及川」の二文字だけをしつこく練習した。あれは果たして練習と言えるのか分からない、だって「好きな人の名前だから」書いてたってだけなんだし。そして、前よりも少しだけ、ほんっっっの少しだけまともに「及川」と書けている事には自分でも気付いていた。

だからと言って練習したのを知られるのは照れくさい。天邪鬼の私は机の上にしぶしぶ書いた。「及川」と。なるべく下手くそに見えるように。


「…わざと崩した」
「違います」
「わざとだろ?ちゃんと書いて」
「……」


なのに、どうしてこの人すぐ気付くんだよ。目で強く訴えられて、仕方なく二度目の「及川」を書いていくのを、及川本人にガン見されるだなんて。


「上手くなってる」


書き直した字をしばらく眺めた及川は納得したように言った。そして目線を上げるが、私はふいと及川から顔を逸らして見られないようにする。こんな顔見られるわけには行かない。


「…別に!及川に言われたからじゃないよ?ずっとの悩みだったしっ、そろそろ年相応の字が書けなきゃって思って」
「その割には他の字は上達してないんだけど」
「な、」
「もしかして及川の文字だけ練習したとか」
「うっ!?」


だから、なんですぐバレるんだよ本人に!私があまりにも分かりやすいの?それとも、他人から見ても私の字は極端に綺麗になったの?


「ち…ち…違う、から。違うからね」
「ふうーん?」


及川は眉毛だけを動かして、余裕綽々の様子で言った。
きっといくら誤魔化してももう遅いんだ。でも及川の前でそれを認めるのはあまりにも恥ずかしい。乙女心とはそういうもんだ。


「貸して」
「え」


私の手から鉛筆を取り上げると、及川が机の上に何かを書いた。ここ、私の机なんですけど。消したらいいんだけどさ。
すぐに及川は鉛筆を置き、いま書かれたものが現れた。及川徹の「徹」の字だ。


「読める?」
「…トオル」
「書き順分かる?」
「は…?」


なんで書き順?ぽかんと口を開ける私を鼻で笑って、もう一度鉛筆を持った及川は大きめに文字を書いた。書き順が分かりやすいようにゆっくりと、「徹」の漢字を。
書き終えたら今度は机に置くのではなく、「はい」と私に鉛筆を差し出した。


「こっちの字も練習しなきゃね」


及川徹、同じクラスの片想いの男。私の書く字を汚いだの何だの散々言って、上達したらすぐに気づいて、今度は彼の名前の文字を練習しろと言う。
言われなくても練習しますとも、字が汚いのは私のコンプレックスなんだし。いつか私が「及川徹」と頻繁に書く日がやってきても恥をかかないように。
ついでにバランス良く「及川すみれ」と書けるように、もう少し工夫してみよう。

あきらめて好きなままです