10「あかーーしー!」
月曜日の朝クラスに足を踏み入れると突然聞こえてきた明るい声。
このような呼び方、教室の中では聞いたことがない。しかも女の子の声で。
眉をしかめて振り返ると青山さんが立っていた。
「何でその呼び方、」
「今朝男バレからあかぁぁしぃ〜!って聞こえてきたから真似てみた」
「あ、そう」
「それはさておき、ありがとう」
青山さんがぺこりと頭を下げた。
ストレートの長い髪がさらりと揺れる。何の事だろうと一瞬考え、すぐに答えが分かった。
「白石さんと話せた?」
「うんすみれから久しぶりに電話きて…赤葦が相談乗ってくれてたんだね」
「相談っていうか、たまたま」
「マジありがと!これからもすみれの事世話してやってよ」
「…はあ。世話?」
青山さんまで俺の事を親扱いするのかと聞き返すと、ちょうど白石さんが登校し教室内に入ってきたので青山さんは「じゃっ」と去っていった。
世話しているつもりなんか無かったんだけど、やはり世話焼きだと思われていたのかな。結果オーライだと思いたいけれども。
「赤葦くん、おはよう!」
そう、結果オーライ。
なぜなら白石さんが以前のようなにこにこ顔で登校し、明るく挨拶をしてくれたあと俺の隣に座ってくれるからだ。
「おはよ。元気出て良かったね」
「赤葦くんのお陰だよ」
「俺は何もしてないから…あ、タオルありがとう朝練で使った」
「え!早ーい」
そう言いながら白石さんがけらけらと笑った。
この笑顔に前からドキドキしていたけれど、以前にも増して息苦しい。
まさか、俺の気持ちが増長しているのか。
笑顔だった白石さんの弱い部分に触れてLINEを交換して、タオルをプレゼントしてもらうという(仕方なく新品をくれただけだが)経験を経て、好きな気持ちがどんどん大きくなっている。
く、苦しい。
「赤葦くん、これ」
白石さんが鞄の中から紙を一枚取り出した。
「…退部届?」
「うん。今日出してくる」
「そっか。…あの、俺が言うのもなんだけど本当に辞めて大丈夫?」
「え?」
「じつは続けたいって気持ちがあったのに、俺があんな風に言ったから辞める事にしたんじゃ…」
「赤葦くん。そっから先は聞きません!」
「!」
いつもより強気な白石さんの顔は自信に満ちていた。
俺は自分の心臓が胸をはち切って飛び出すんじゃないかと言うほど苦しかった。心地いい苦しさ。
隣の席ですごく嬉しいのに、苦しい。息が出来ない。
普段通りの顔を作るのにかなりの労力を使った。
昼休みのうちに白石さんは退部届を出したらしい。青山さんに報告するのが聞こえてきた。
そういえば、ここ最近あの二人が仲良く会話している姿を見なかったから良かった。白石さんに限らず、女の子は笑顔で居てこそというのが俺の考えだ。
ホッとしたついでに金曜日の夜手につかなかった宿題をそのまま放置していたのを思い出し、5限目の古典が始まるまでに終わらせるべく机に開く。
が、青山さんと白石さんの会話がどうしても耳に入ってしまう。
「なんか別の部活するの?」
青山さんが聞いた。
「うーん、考え中」
「別の運動部とか」
「あはは!運動は勘弁!」
がーん。
男子バレーボール部はれっきとした運動部だ。そんな「運動は勘弁!」なんて明るく言われると勧誘できないじゃないか。わざと聞こえるように言われたのか?
そして結局宿題が終わらず、先生に少し怒られた。
◇
強豪だから色々と学校からの融通が利いているバレー部には、たくさんのお金がかかっている。
遠征費用に合宿施設の完備、個々のバレーシューズを買うのも学校からの援助があったり。
その代わり学業を疎かにしてはならないと言う暗黙の了解がある。
だから俺もある一定のラインで成績を保つよう努力していた。テストで高得点までは行かなくても、提出物は期限を守ろうと。
「赤葦くん珍しいね?宿題忘れるなんて」
「う、うん」
「言ってくれたら助けたのに」
そう言ってもらえるのは有り難いが、好きな女の子に宿題を写させてもらうなんて恥を忍ぶことは俺にはできない。
「いいよそんな、バレたら白石さんもやばいしね」
それもそうだね、と白石さんはけろりと笑った。この笑顔を見せてくれただけで、先生に怒られたぶんの落ち込みは回復できた。
そして6限目と掃除、ホームルームが終わり放課後となった。
俺は古典の先生に出された小さなプリントを終わらせて提出してから部活に行かなきゃならなくなり、少しだけ教室に残るはめになってしまった。
でも隣の席の白石さんが帰るまでは会話できるから良いんだけど。
…と思ってたのに白石さんは誰かに呼ばれて、鞄を持ってさっさと教室を出てしまった。
そうなれば仕方ない、ざっとプリントを仕上げるしかない。
15分くらいでぱぱっと終わらせることができたので職員室まで行き、先生に提出してきた。
「おう、バレー部頑張ってんな。でもコッチもな!」と背中を叩かれ、ハイすみませんありがとうございます、と会釈して戸を閉めた。
職員室のある棟から部室棟まではいつも運動部の連中が歩いているけれど、すでに部活の始まっている時間帯なので皆んなグラウンドや体育館に居て今は人通りが少ない。
急がないと、と早足で歩いていると誰かの声が聞こえた。
「…で、付き合う?付き合わない?」
おっと誰かの告白タイムだ。
いつかは白石さんに告白したいと思っているのでどんな告白パターンがあるのか勉強したいが、「付き合う?付き合わない?」なんてのは俺の考えには合わないのであいにく却下。
「…ごめんなさい。」
ほら振られた。
こんな悲惨な場面早く立ち去ろうと足を進めると聞き捨てならない一言が。
「なんで?白石付き合ってる奴いんの?」
思わずぴたりと動きが止まった。
瞬きをするのも、息をするのも、更には心臓を動かすのも忘れてしまうほどの衝撃が走った。
いま告白を受けているのは白石さんだったのだ。
こんなの聞いちゃいけない、と思いつつも静かに近づき、建物の影に隠れて聞き耳をたてる。
「いないけど…」
「じゃあ試しに付き合ってみよ?俺ら家近いしデートも沢山できるジャン」
「でも、えーと」
「好きな奴が居るとか」
「……」
「居んの?」
「いる…けど」
先ほどから俺の息は止まったままだったが、今度はマイナス100度の冷凍庫にぶち込まれたような感覚に襲われた。
白石さんに、好きな人が居る。
誰だ?
そんな話、全然聞いていない。
いやただのクラスメートに言える訳ないか。
だんだん頭の中がぐちゃぐちゃで熱くなり、冷凍庫にぶち込まれた次は火山の中に放り投げられたような気分になった。
「それって赤葦?」
そこで、俺!?
なぜ自分の苗字が男の口から出てきたんだ?学校内では特別な会話なんてしていないし、二人きりで会ったりしていないのに。
「なんで?」
「お前ら昨日二人で居たじゃん駅前で」
そうかあいつも白石さんと家が近いなら、最寄駅が同じなのか。だから昨日、一緒にいるところを見られていた、と。
「……いたけど」
「付き合ってないんだよな」
「ないよ」
「…でも赤葦の事が好きなんじゃ」
「違う。とにかくごめんなさい」
そして、そこから足音が遠ざかっていくのが聞こえた。続いてもう一つの足音も別の方向へ遠ざかっていった。
そして、俺の意識も遠のいていった。
いま確かに「違う」ってはっきり言われた。
俺は梟谷に来て初めて、自分自身がしょぼくれるのを感じた。
10.マイナス100度