すっかり桜がきれいに咲いているころ。わたしは高校3年生となり、いよいよ本格的に志望校を決めたりしなければならなくなった。
去年からの成績では問題無く県内の大学を狙えるだろうと思う。でも今は、大学受験と同じくらい大きな課題を抱えていた。今日は川西先生の誕生日なのだ。


「先生!」
「ん、ああ白石さん」


体育教員室に行くと、川西先生は笑顔で迎えてくれた。笑顔と言っても先生はあまり表情豊かでは無いので、満面の笑みというわけでは無いけれど。


「おはようございますっ」
「おはよ、元気だなあ」
「今日は先生の授業があるから」


わたしの言葉に先生はまたもや笑っていた。笑うしかないんだと思う。
わたしは2カ月前のバレンタインデー、先生に本命チョコレートを渡そうとして断られた。きっとわたしの事を恋愛対象として見ていないのだ。教師と生徒という間柄だから、そのようなややこしい関係になってはならない。

それならそれでチョコレートだけでも受け取ってくれればよかったのにと、バレンタインは目が腫れるほど泣いた。でももうあの日のことは忘れようと誓った。


「川西先生、今日誕生日だよね?」


そう、あの日のことは忘れて何も無かった事にする。わたしは今まで通り川西先生のことが好き。先生にバレていようといまいと、この気持ちを無理やり抑えるのはやめようと思ったのだ。


「…どこで聞いてきたのそれ」
「えっと…噂」
「あはは、俺もついに噂されるようになっちゃったかあ」


4月15日は川西先生の誕生日。ほかの先生から聞き出した情報だが、川西先生は照れくさそうに笑っていた。照れ隠しでは無くて、わたしの気持ちに気付かないふりをするために笑っているのかも知れないが。そんなのはもういい。ただわたしが先生の事を好きでいるだけなんだから。


「で、だからコレ…」


わたしはこっそり持ってきた川西先生へのプレゼントをサブバッグから出した。
何が良いのか分からなかったけど、先生はバレー部の顧問だし体育の教師だから。当たり触りなくスポーツタオルを選んでみたのである。ラッピングされたそれを見た先生は、文字通り目が点になっていた。


「…俺にくれるの?」
「そうだよ、誕生日だもん」


先生はしばらくの間、考え込んでいるようだった。もしかしたらまた突き返されるかもしれない。先生がわたしの気持ちに気付いているなら、こんな面倒なものを受け取るのはマイナス効果であると分かるから。

でももし返されたとしても構わなかった。わたしはこれだけ先生が好き、というのをアピールする事に決めたのだ。その気持ちを込めてじっと見つめていると、川西先生が声のトーンを落として言った。


「…没収されるよ、ほかの先生に見つかったら」
「見つからなかったもん」
「本当は俺だって、学校に関係ないモン持ってるの見つけたら没収しなきゃいけないんだから」
「そうだけど……」


ああ、やっぱり返されるのか。想定していたけれどやはりショックだ。差し出したプレゼントを引っ込めようとしたとき、先に川西先生の手が伸びて来た。


「…っつーワケでこれは没収ね」
「ぼっ…没収?」
「そ。当たり前じゃん」


プレゼントを渡す事すら叶わず、そのプレゼントを家に持ち帰る事も許されないなんて。先生は私の手からプレゼントを取り上げるとじっくり眺めていたが、やがて口を開いた。


「個人的に没収しちゃう。アリガト」


そして、わたしのどん底まで落ちた表情を見てにやりと笑ったのだ。

先生、ほんとは気付いてるんでしょう。わたしが先生の事をどう思っているか。だからあの時、チョコレートを受け取ってくれなかったんでしょう?それなのに今、そんな顔してプレゼントを没収するなんてずるい。
それでも返されるよりはずっといい。先生の事、好きで居るだけなら許されるって事で良いのだろうか。





あっという間に桜は散り、気温が上がり夏を迎え、夏期講習に明け暮れて、紅葉を楽しむ暇もなく枯葉が舞った。クリスマスや年末年始を楽しむ余裕なんてなかった。それでも、楽しいことを全部捨ててやってきた事が報われた時の喜びを得ることが出来たのだ。

大きな掲示板に張り出された中に、自分の受験番号があるのを見つけた時は鳥肌がたった。自己採点では恐らく大丈夫だと分かっていたのに、合格した事実をこの目で見るのは格別で。

応援してくれた親とか友達に報告し、ひととおり泣いたところで向かうべきところに向かった。今日は記念すべき2月14日だから。


「先生!」
「…あれ?」


わたしは川西先生がひとりきりで居る時間を狙っているわけじゃないが、運良く今日も先生はひとりだった。
3年生は自主登校になっている2月、突然わたしが現れたのを見て川西先生は驚いていた。


「白石さん…?どうしたの、こんな時期に。進路指導?」
「違います。えっと…」


持ってきた紙袋をぎゅっと握る。でもまだこれを渡す時じゃない。


「わたし、合格したんです。志望校」


大学合格を伝えると、先生の机ががたんと揺れた。たぶん先生の長い脚が机に当たってしまったのだと思う。打った膝をさすりながら川西先生が身体ごとこちらを向いた。


「…まじ?おめでとう」
「ハイ」
「やべ、超おめでとうじゃん」
「先生、相変わらず表情変わんないね」
「いやいやすげぇ祝ってるよ今」


そのわりにはいつもの冷静な顔だけど、それでもわざわざ向き直って「おめでとう」と言ってくれるのは嬉しい。先生の顔が真正面から見えるなんて幸せだ。身長も座高も高い先生は、椅子に座っているのにわたしとの顔の高さがとても近い。


「それ報告にきたの?」
「それもあるけど…」
「澤村先生は職員室に居ると思うよ」


と、わたしの担任である澤村先生の居場所を教えてくれた。合格したのを当然、澤村先生にも伝えなければならないからだ。


「…じゃないよ。先生、きいてよ」


でもそれは既に済ませてきた。担任への報告を済ませてもなお学校に滞在し、体育教員室へ赴いている理由はひとつ。


「これ」


ついに持っていた紙袋ごと、川西先生の胸の前へ差し出した。先生はきょとんとした表情で(もしかしたら造りものの表情だったかもしれない)、紙袋をじっと見る。そのあと目線だけをわたしのほうへ向けた。


「……これは?」
「分かってるくせに」


わたしと先生の目が合って、途端に川西先生が目を伏せた。やっぱり分かっているのだ。


「バレンタインだよ。あげる」


先生はまだそれを受け取らない。大きな息をついて、長い手で首の後ろをぽりぽりと掻く。川西先生が考えごとをする時の癖であった。断るための文句を考えているのだろうか。


「…俺なんかに渡しちゃって。本命、作らなくていいの?」


わたしのことを思っているようで、とても優しいことを言っているようで上手く話を逸らす台詞。それを言われてわたしは思わず紙袋を持つ手を下げた。手がだるくなってきたからじゃない。こんな仕打ちは耐えられないと思ったからだ。


「……ずるいよ。先生」


わたしのことが嫌いならそうと言え。恋愛対象に見えないならはっきりと言え。春には誕生日プレゼントを受け取ってくれたくせに。それからもずっと、話しかけるたびに笑顔で接してくれたくせに。わたしの気持ちを知りながら。


「…白石さん、だいじょぶ?」
「大丈夫なわけない」


わたしの涙が体育教員室の床を濡らしていた。面倒くさい生徒だと思われるだろうか。でもそんなの関係ない。わたしは川西先生が好き。その気持ちを殺さずに一年間過ごしてきたのだ。
去年のあの日、ショックだったけど先生への気持ちだけは大事に持っておこうと思ったのに。わたしのことを突き放さないどころか、以前よりも友好的に接していたくせに。


「ずっと先生が本命だよ。去年だってそうだったのに」
「……」
「他の人からはチョコ貰ってたくせに!わたしのだけ突っ返してきたんでしょ」


川西先生は学校の先生で、わたしはその生徒である。覆すことの出来ない大前提すらわたしの頭からは消えていた。
後からわたしは後悔するだろう。先生を困らせてしまったことを。でも今年が最後だし、今が最後のチャンスだから。気持ちをぶつけるための。


「白石さん」
「………」
「白石さーん」
「……なんですかっ」


わたしはすっかり顔を下に向けて、ぐしゃぐしゃの顔を隠すのに必死だった。ティッシュもハンカチも持ってきていない。興奮して忘れてきてしまったのだ。だからこんな不細工な顔、見られたくないのに。


「白石さんもさ、結構ずるいよ」


そう言いながら、川西先生が机に置いたティッシュを1枚、2枚と取り出した。


「…わたしが!?」
「うん。かなり」
「なんで、え?」


そのティッシュでわたしの目元の涙を拭いて、足元のゴミ箱へ。
…わたしは先生にずるいと言われる覚えはない。ずるいのは川西先生のほうだもん。


「いくら生徒に好かれたって、俺には越えちゃいけないものがあるわけですよ」


諭すように川西先生が言う。とても正しい大人の意見。辛くて厳しい現実の壁。見て見ぬふりをしてきたそれを、好きな人に「理解しろ」と諭されるなんて。


「…知ってるもん」
「知ってるの?ますます重罪じゃん」
「重罪って…」
「知ってて俺を翻弄してるんだよ、きみは」


未だに止まらない涙を、今度は先生の指がすくい上げた。
何でこんな格好悪いところを見せなきゃならないのか、苛々してきた。わたしが先生を翻弄してる?翻弄なんかされてないくせに。いつもいつも顔色ひとつ変えないで、余裕ぶっているじゃんか。今もこうしてわたしの気持ちを知ったうえで、わたしの涙を自らの手で拭いてくれるなんて。


「…翻弄…できるなら苦労しません。願ってもないです」
「言うねー」
「だって、いつから好きだとっ、」


と、抗議しようとしたわたしの声は引っ込んだ。今まで目元の涙を拭いていた川西先生の手が、わたしの頬を覆ったからだ。


「いつから好きだと思ってた?」


川西先生はわたしの言葉を奪い、わたしに同じ問いかけをした。
その質問の意味も理解できないし、今どうして先生の手がわたしの頬を撫でたり、涙で頬に引っ付いた髪を耳に掛けたりしてくれているのか、それも分からない。
聞き返すための言葉も浮かばないので、ただただ先生の目に疑問をぶつけるしか無かった。


「……せんせ?」
「好きだよ」


ぞわっ、と身体じゅうに鳥肌が立つ。合格発表の瞬間をも凌駕するその感覚に、夢と現実の区別がつかない。もしかしてわたしの気持ちを先生が代弁してる?ちょっと、色々と意味が分からない。


「…それ、わたしの台詞」
「俺のですけど」
「……わたしの…きもち」
「俺のだよ」


なんで?なんで?どういう意味だ。
ぽかんと呆けるわたしを見て、川西先生がぷっと吹き出した。


「白石さん、分かりやすいって言われるっしょ」
「うっ?え、はい」
「顔に書いてあったよ。俺のことが好きで好きでたまりませんって」
「なっ」


たしかに隠す気はなかったし、先生も絶対に気付いてるとは思っていたけど。顔に書いてあるとまで言われるとは思わなかった。
今度は先生がわたしの肩をぎゅうと持ち、そのまま腕へと下がってきた。川西先生の両手がわたしの二の腕を、ぎゅって。してる。熱い。先生の目も、これまで見てきた中で一番熱い。


「先生はさあ、毎日大変だったよ。嬉しいのを隠すのが」
「…先生、…」


それからまた川西先生の手はするすると下に降りてきて、わたしの持つ紙袋へ触れた。


「…これは没収ね」
「えっ?あ」


紙袋をひょいと持っていかれて、思わずわたしの手が伸びた。
川西先生は反対の手で、伸びたわたしの腕をがっしり掴んで引っ張られる。思わず態勢を崩してしまったけど、尻もちを付いた場所は先生の膝の上だった。


「ちょっと早いけど」


ちょっと、と言うのはどのくらいなのか。早い、と言うのは何が早いのか。
頭に浮かぶ疑問はとても多かったけどすぐに理解できた。わたしを膝に乗せた先生が、さっきよりもうんと近い距離でわたしを見て、うんと優しく頭を撫でてくれるおかげで。

いい?と、聞こえるか聞こえないかくらいの声で先生が言った。何が「いい」ってそんなの愚問だったので、わたしはうんと頷いて目を閉じる。
卒業までちょっと早いけど、川西先生とわたし、キスしてしまった。何回も何回も、体育教員室の外から足音が聞こえてくるまでずっと。

慌てて唇を離した瞬間は「ここから先は卒業後かな」と笑って、先生はわたしを立ち上がらせた。
先生に会えなくなるくらいなら卒業なんかしたくなかったはずなのに、早く卒業式を迎えたい気持ちでいっぱいだ。大学の入学準備も、先生と付き合うための心の準備も、いっぱいしなくちゃならないのになあ。

さくらふぶき前線にて

2018年度のバレンタインデーのお話として、川西太一先生でした。生徒と教師の恋に憧れたので書いてみました。バレンタインの時期に合格発表をする大学ってあるんでしょうか。そのへんの事はスルーでお願いします、ありがとうございました!