バレー部を引退してから、いやバレー部に所属している時からなんとなく考えていた将来のこと。

俺はきっとプロのバレーボール選手になる事はないだろう。そんな冷めた考えを持ってはいたものの、バレーと切り離された未来は想像できなかった。何らかの形で携わっていたいと考えた結果、選んだ道は高校の教師になる事である。


「おっす」
「おお、一月ぶり」


恒例となった同級生の白布賢二郎との飲み会は、月に1度のペースで行われる。毎回おなじみの居酒屋で互いの近況を報告したり思い出話に浸ったりと、大して中身のない集まりなんだけれども。


「最近どうよ」
「どうもない」


賢二郎はいつも同じような回答だった。
「どうもない」と言うのは万事順調と言う意味だ。何かしら問題が起きた時には勝手に俺に連絡してくるので、それが無いという事はきっと順調なのだろうと思う。

逆に俺は、あまり自分から悩みを話す事はない。というか、話す暇が無い。教師って意外と大変なのだ。土日祝日だって休みではない。
俺は高校時代の経験を認められて、男子バレー部の顧問を任されている。そっちのほうも忙しいし、体育の授業だって生徒ひとりひとりの運動能力とか性格とか、その他もろもろで頭がいっぱい。図太いはずの俺がこんなに神経をすり減らす日が来るなんて思いもしなかった。

去年の4月に働き始めてから1年半以上が経過しているのに、今でも毎日家に帰るとぐったりである。特に今日なんか、新たな悩みで頭を抱えそうだ。


「あーバレンタインか」


賢二郎の声でぎくりと肩が揺れた。が、賢二郎は俺ではなくて近くの席で騒いでいる女の子たちを見ていた。彼女らはどうやOLで、チョコレートか何かの交換をしているようだ。


「生徒からチョコ貰ったりすんの?川西センセー」


たんなる興味本位の質問であると分かっている。どうして今月の飲み会を14日に設定してしまったのだろう。そんなことを悔いてももう遅い。
話すかどうか迷っていた事をいきなり突っ込まれた俺はしどろもどろになった。


「まーね…」
「さっすが」
「まあ皆、配り回ってるから」


だから沢山配っているうちのたったひとつを「あ、川西先生もどうぞ」と渡された、それだけなら良かったんだけど。
いや途中まではそうだった。「生活指導の先生に気を付けなよ」なんて言いながらも、休憩中に糖分を摂取できるのは身体にも脳にも嬉しい事だったので俺はありがたく受け取っていた。バレンタインくらいは学校にお菓子を持ってくるのを許しても良いと、大半の先生は考えているようだったし。

でもひとつだけ、受け取ってはならないと判断したチョコレートがあるのだ。


「俺ら高校生の時、若い先生いなかったけどさ。お前けっこうモテんじゃねえの」
「…そう見える?」
「見た目だけは良いからな」
「悲しい」
「うるせーよ、大学入ってからも身長伸びやがって」
「はは」


高校で身長が止まってしまった賢二郎は毎度この話をしてくる。いつもなら「賢二郎だって低いわけじゃないじゃん」と軽く返すのだが、生徒にモテるモテないという話は俺にとって非常にタイムリー。


「実はさ、俺…」
「ん」
「生徒にチョコ渡されたわけよ」
「それはさっき聞いた」
「じゃなくてじゃなくて」


一応周りに保護者とか、ほかの教師が居ないことを確認してから賢二郎を手招きする。顔を寄せてきた賢二郎に、居酒屋の雑音に紛れるくらいの声で耳打ちした。


「本命のやつを」


聞き終えた賢二郎は無言で体勢を戻し、飲みかけのビールジョッキをぐいっと一口。何事も無かったかのようにふぅと息をついてから賢二郎が言った。


「……通報しとくか?」
「辞めてください」
「生徒と教師の禁断の愛」
「辞めろってば、断ったんだよ俺はちゃんと」
「女子高生の恋を無残に散らせたわけか。最低なやつ」


こいつ、なにがなんでも俺を悪者にしたいのかね。


「告白はされてないけど。明らかに本命だったよアレは」
「断ったってのは?受け取らなかったって事?」
「そう」
「なんで。貰っとけばいいのに」
「軽率にそんな事できません」
「丸くなりやがって」


賢二郎は鼻で笑った。
高校の時も思ったけど、こいつの見た目に騙されると痛い目を見る。一見真面目で大人しそうなくせに、考える事は過激派なのだ。


「受け取るって事は期待させるって事だし…」
「太一はその生徒の事、どう思ってんの」
「どうも思ってねーよ!高2だぞ」
「7歳差か……」
「アリだな…とか考えるなよ」
「ナシだろ高校生は」


賢二郎が犯罪思考でなくて安心した。7歳差、という事だけを考えれば男女交際においてそこまで不自然じゃない。37歳と30歳、30歳と23歳、という組み合わせなら珍しくはないと思う。
しかし俺は24歳の社会人2年生、相手は17歳の高校2年生。これは色々無理がある。

けれどもせっかく用意されたチョコレートが俺宛の本命だと気付いてしまった時、知らんぷりして受け取るのは酷であった。


「咄嗟に出た断り文句が、俺に構ってたら本命逃しちゃうよ〜って台詞だったんだけど」
「うっわ」
「何」
「残酷かよ…」
「それは俺だって思ったよ!だからさ、俺は先生だから生徒からのそういうのは受け取れないよって言ったの」


そう、後からこれを付け足したのだ。お菓子を持ってくるのは校則違反。教師は生徒の校則違反を見過ごすわけにはいかない。
だから違反物をプレゼントされても受け取るわけにはいかない、それが当たり前なんだよというふうに。


「けど」
「けど?」
「その子が帰ってから気付いちゃったんだけど」
「うん」


白石さんがチョコレートを持って去った時、その場は耐え凌いだかに思えたのだ。しかし安堵の息を漏らしたとたんに、致命的なものが目に入ってしまった。


「俺、思いっきり他の生徒に貰った義理チョコ机に置いてた」
「うっわあ」
「先生だからっていう理由、通用しねえ」
「お疲れ。」


体育教員室には俺の他にも男の先生、女性の体育教師だって居る。白石さんがやってきた時は俺一人だったけど、正直言って休憩の合間にかなり食べていた。だから何も考えずに机に置いていたのだ。


「どうしたらいい?すげえ傷つけたと思うんだけど…」
「仕方ないだろ。太一は別に間違ってない」
「そうかな…」
「その子も高2だろ?理解してくれるだろ、生徒ひとりを特別扱いすんのが無理だって事は」


そんな理屈はきっと、白石さんの頭にも入っている事だろう。だから体育教員室に俺だけがいる時を狙って来たんだろうし。
渡されたチョコレートを返した時の目を思い出すと罪悪感でいっぱいだ。いつかこの気持ちから解放される日が来るといいのだが。





「先生!」


数週間後の体育で、授業前に白石さんに呼び止められた。ギクリと反応してしまったが俺は身体が大きいので、小さなリアクションも大きく見えてしまう。なるべく平静を装って振り向く事に徹した。


「…おお。コンチハ」
「今日の体育何ですか?」


白石さんはバレンタインとは関係の無い普通の質問をしてきた。そういえば3学期、このクラスの体育委員は白石さんだったっけ。
ほっとしたものの、なるべく白石さんを刺激しないような返事をするのに必死であった。


「えーと今日は…3学期最後だから、多数決で何かやろうと思ってたんだけど」
「やったあ」
「ドッヂボールとかかな」
「うんうん」


それなら特に用意するもの無いですよね、と白石さんが言う。普通だ。もしかしてバレンタインの出来事は吹っ切れた?もしくは俺の自意識過剰だった?


「白石さん」


去ろうとする彼女に声をかけると、白石さんが立ち止まった。


「はい」
「えっと…」


俺はどうして白石さんを呼び止めたのだろう。チョコレートをその場で返してしまったのにあまりに元気で明るい姿を見せてくるもんだから、俺はますます感じてしまったのだ。「無理をしているんじゃないか」「俺に気を遣わせないように、わざと明るくしているんじゃないか」と。


「怪我しちゃ駄目だよ」


バレンタインのお詫びも込めて、こんな気遣いの言葉をかけてみる。
言った後で気付いたけど、ドッヂボールで怪我なんてしないよな。しかも女子。白石さんも不思議そうに首をかしげて笑っていた。


「怪我?しませんよお」
「あーうん…だよね。」
「わたし、元気が取り柄ですから」


にっこり。と擬音が聞こえてきそうな顔で白石さんが笑った。それがあまりに不自然だったから、またギクリとしてしまった。
そして残念ながら俺の勘は鋭いので、気付いてしまったのである。やっぱり彼女は強がっているんだと。


「…そっか」
「はい。元気ですから」


元気、の部分を強調するように白石さんが繰り返す。顔には作りものみたいな笑顔が貼り付けられていた。
生徒にそんな顔をさせるって、俺は教師失格か?女の子にそんな顔をさせるなんて、俺は男として失格だろうか。


「だから川西先生もわたしの事、気にしなくていいんで…」


そう言って白石さんは、ぺこりと頭を下げてクラスメートのもとへ走っていった。
…気にすんなって言われたらどうしても気になっちゃうんだけど。こんな気持ちで授業に集中できやしない。ドッヂボールで良かった、コートの外で生徒の様子を見ておけばいいんだから。

そう思っていたのにこの授業のあいだ、俺はひとりの女子生徒にしか注目することが出来なかった。ただ「心配」という気持ちだけではない、他の感情を胸に抱いた状態で。
まずい。色々まずい予感がする。賢二郎にはとてもじゃないけど言えないな。

ぼくらの関係にはバリエーションが無さすぎる
2018年度のバレンタインデーのお話として、川西太一先生。もう少しだけ続きます。