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キーボードの音と、時々電話が鳴り響く秘書課の執務室内。しかしムードは良好、斜め前には課長と主任が座って仕事の件で談笑している。
デキる女性がてきぱき働くイメージだった秘書課は、そのイメージ通り全員が仕事をそつなくこなす場所であった。でもドラマのような嫌味ったらしい上司は居なくて良い人ばかり。更に私はここ最近、色々な事を任せて貰えるようになった。


「白石さん、覚えるの早くて助かるわあ」


秘書課の久保田主任はハードな研修をしてくれたけれど、家に帰ってからも復習していた私は「せめて同じ質問はしない」という最低限の目標をかかげて仕事に挑んでいた。おかげで上記のような言葉を頂けて恐縮である。


「そんな事ないですよ、主任がいろいろ教えてくれたんで」
「鬼だったっしょ?」
「ちょっとお、やめてください」


久保田主任のスパルタ研修を見ていた課長はくすくすと笑っていた。もちろん厳しいとか鬼だとかは感じていない。新しい仕事を覚えるなら、多少の辛さは付いてくるものだと思っていたからだ。


「白石さん、うちに来てから雰囲気変わったね」
「……え」


ふと久保田主任が興味深そうに私を眺めた。雰囲気、どこか変わっただろうか。体重の増減も無いし、髪型・髪色も変えたりしていない。何か意識して変えた部分はあったかなぁと考え込んでいると、主任がフフフと笑みを漏らした。


「男かあ…」
「ええっ」
「当たりだね」
「ちょっと、私語しないよ」
「ハイ。」


さすがに課長の注意が飛んできて、主任はそそくさと自席に戻っていく。何でも完璧に見える久保田主任が注意されてるなんて新鮮だなあ。私も気を付けないといけないけど。と、机に向き直った時に課長が今度は私に言った。


「白石さん。男の事は定時後に私まで報告して」
「ほ、報告いるんですか」
「要る!」


聞くところによると婚期を(ほんの少しだけ)逃してしまったらしい課長、彼氏の作り方について悩んでいる様子。私にアドバイス出来ることなんて何も無いぞ、どうしよう、と慌てていたら「ジョーダンに決まってんじゃん」と隣の席から笑い声が聞こえた。
ああ楽しい、よかった、秘書課に来て。これまで関わってくれたすべての人達、私は元気にやってます。

それから数時間後には退社時刻となり、今日は全員残りの業務が無さそうなので片付けの音が響いていた。
私は一足先にデスクをきれいにし、コートを持って立ち上がる。ちょっと急ぎの用事があるもので。


「じゃ、あの…お先に失礼します」
「男だな…」
「うっ」
「良い人居るんだ?」


もうバレバレみたいだ。今日の私は念入りにメイクをしているし、髪の毛だって早起きをして寝癖を直した。服は仕事に見合った服装だけど、自分が一番良く見えるシルエットのものを選んでいる。今から好きな人に会いに行くのは一目瞭然なんだろう。

ちょっぴり恥ずかしいけど、嬉しい。言ってやりたい。今から会う人がいかに素晴らしい男性なのかを。


「めちゃくちゃ良い人、です」


退社際にそう告げると、課長がデスクで項垂れた。ごめんなさい課長、きっと課長にも良い人が現れると思いますから!





なるべく履きなれた、けれども程よく高めのヒールで早足に向かうのは待ち合わせ場所。どんなにヒールの高い靴を履いたって、私が彼を見下ろせることは無い。だってその人はとても身長が高いし、顔が小さいし、モデルみたいなのだ。

今も駅前で私を待っている立ち姿さえ絵になっている。信じられない、あの人と私が両想いだなんて。


「赤葦さーん」


私が声をかけると、赤葦さんはすぐに振り向いた。片耳だけイヤホンをしていたらしくて、それを外している仕草が魅力的だなあ。


「お疲れ様」
「お疲れ様です、お待たせしました」


今日の赤葦さんは、少し冷え込んでいるからなのかスーツ姿にマフラーを巻いている。
正直言って何を着ても似合うんだけど、一段と素敵に見えるのはどうしてだろうか。つい先日、道ばたで啖呵を切ってしまった私のことを「好き」だと言ってくれただけでも素敵なのに。


「どうしたの、にやにやして」
「えっ!してますか」
「うん、何かいい事あった?」


いけない、顔に出ていたらしい。しかもニヤニヤしてしまってた、絶対気持ち悪い顔してた。
いい事があったというよりも、今がまさに幸せ。赤葦さんといるのが嬉しくて、ついつい顔が緩んでしまっているのだ。


「特に…ただ、赤葦さんと会えるのが嬉しくって」


言ってる途中で恥ずかしくなってきて、尻すぼみになってしまう。けど赤葦さんには最後まで聞こえてしまったらしい。私が話し終えたのを聞いて目を丸くしたかと思うと、ぽりぽりと頬をかき始めた。


「それを本気で言っちゃうんだもんなあ…」
「え、ごめんなさい」
「いや……」


と、言いながら今度は口元を手で覆う。そのまま私とは反対側を向いてしまった。


「…赤葦さん?」
「駄目。あっち向いて」
「うぇ!?なんで」
「向いて」


あっち向いてと言われても、赤葦さんだって外側を向いているのに私まで反対を向いたらおかしな事になる。並んで歩いているのにお互いそっぽを向いてるなんて絶対に変な光景だ。
「赤葦さんってば」と呼びかけると観念したのか、ゆっくりと顔から手を離した。…ら、赤葦さんは見た事もないような肌の色になっていた。


「……顔あかっ」
「だから見るなって言っただろ…」


耳まで真っ赤になった赤葦さんが、もう見ないで、と手で制するので私も彼から顔を逸らした。だって赤葦さんを見ていたらこっちまで赤くなりそうだし、と言うかもう赤いと思う。
赤葦さんが私のことを見て赤くなった。照れていた。それだけで胸がきゅううと熱くなる。


「…ちょっと歩こう」
「はい」


やっと顔の色が落ち着いた赤葦さんは私にむけて手を差し伸べた。今日初めて、戸惑うことなくそれに自分の手を重ねる。するりと指が絡められた時はドキッとしたけど、赤葦さんの手は大きくて心地いい。
皮が分厚くて指の関節がしっかりしているのは男の人だからなのか。赤葦さんの手が偶然こんな造りなのか。


「赤葦さんて、手ぇ大きいですね」
「そうかな…そうかも」
「あったかいです」
「それはよかった」
「繋いでたら安心する」


片手を繋いでいるだけなのに全身に熱が宿るような、そんな感じだ。好きな人と触れ合うのってこんなに気持ちのいいものだったっけ。すごく幸せで、この先なんの試練も来ないんじゃないかと思うほどに。
と、浮かれた気分に浸っていたら赤葦さんが喉を鳴らして言った。


「…そうだね。俺も安心する」


びっくりして顔を上げる。赤葦さんも私と手を繋ぐことによって安心しているの?私の手には誰かを安心させられる要素なんて無いと思うんだけど。


「……そうなんですか?」
「うん」
「私の手、小さいですけど」
「大きさの話じゃないよ」


赤葦さんがくしゃりと笑って、その顔に心臓を射抜かれたとたんに別の刺激が走る。繋いでいた手にぎゅうっと力が込められたのだ。


「わっ、」
「こうしたらもっと安心する」


なんなんですか、その言葉。私と強く手を握りあって、それであなたは安心できると言うんですか。そんなの赤葦さんの口から聞けるなんて思わなかった。
赤葦さんの手から私の手へと熱が伝導してゆく、その熱は全身に流れ渡り心臓を飛び超え、顔まで伝わってきた。私、顔、熱い。


「……わたしも、あの、安心します」
「繋いでたら俺が逃げ出さないから?」
「ち!違いますってば」
「ふふ」


そんな冗談を言える余裕があるなんて、やっぱり赤葦さんは私より歳上で何枚も上手なのだ。ほんのちょっとの事で緊張したり不安になったり慌てたりする私はまだ到底適わないな、この人には。


「白石さん、今更なんだけど」


ぴたりと赤葦さんが立ち止まった。気づけば冬のイルミネーションが輝く広場に着いていて、恋人たちが肩を寄せあって写真を撮っている。とても幸せそうに見つめ合って。
赤葦さんはそんな彼らをぼんやり見ていたが、やがて目を閉じ深呼吸したかに見える。そして次に彼の目が開いた時は、瞳に私が写っていた。


「俺達、ちゃんと付き合いませんか?」


おかしな事にその瞬間は冷静で、時が止まったような、ドラマのワンシーンみたいだなと思った。
でもすぐに現実なのだと思い出し、なにか答えなくてはと息を吸う。声は出ない。代わりに別のものが目から溢れてきた。


「……う」
「え、なんで泣くの」
「だって…うっ、嬉しくて」


赤葦さんは私の事が好き、それはこの間言われて知っていたはずなのに。改めて「付き合いませんか」と言葉にされる事がどれほど幸せなのかを思い知った。


「赤葦さん、ほんとに私の事すきで居てくれたんだって思ったら」
「好きだよ、なに言ってんの」
「夢みたいで…」


今朝張り切ったベースメイクも退社後にトイレで直したチークももう知らない。全部流れたっていい。流れてしまえ。これが夢じゃないのなら私の顔なんてどうだっていい。


「現実だよ。白石さんの事がすごく好き」


ほらまた夢みたいな事を言う、それがますます私に涙を流させる言葉だと知りながら。


「…私もすごく…すごくすごく好きです」
「俺はその10倍好きだよ」
「なっ、わ、私のほうが1億倍好きですから」
「あー1億には負けた」
「え」
「っはは、おかしい」
「ちょっと!」


赤葦さんは心底面白そうに声を上げて笑った。低くてきれいな赤葦さんの声は、思い切り笑うとこんなふうに聞こえるんだ。ここに来て新たな発見と、新たなときめきを見つけてしまうなんて。
ひととおり笑い終えた赤葦さんは「ごめんごめん」と私を嗜めて、手を繋いだまま私の正面へと移動した。


「付き合ってくれるよね?」


イルミネーションを背にしたその告白、私が受けないはずは無い。
よろしくお願いします、と頭を下げると赤葦さんは「ありがとね、ちゃんと大事にするから」と私の背中を優しく撫でた。
大事にしてもらわなきゃ困る。もう赤葦さんのこと以外は考えられなくなってしまったんだから、死ぬまで責任取ってもらわなきゃ。

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり