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赤葦さんをこの距離で見るのはいつぶりだろうか、声が届く距離に来られたのも。でもせっかく偶然出会ったのに、私の口からはなかなか言葉が出てこなかった。


「……あの」


あの、私なにか悪い事をしましたか?このあいだ一緒に居た男性は、そういう関係じゃないんです。

言いたいことは山ほどあるのに言えなかったのは、赤葦さんの目がとっても暗かったから。
優しく私の背中を押してくれた赤葦さんのそれとは完全に別物だったのだ。まるでとても冷めていて、怒っているかのような。


「……じゃあね。」
「えっ?」


それでも、いくら冷められていたってここで無視されるなんて思わなかった。
踵を返して去っていく赤葦さんの背中を追いかけるが、ちょうど飲み歩いたサラリーマン達の帰宅ラッシュと重なっており、早足で進む赤葦さんにはなかなか追い付けない。でもここで引き離されたらきっと終わりだ。


「ちょ、赤葦さん待っ…待って」


必死で名前を呼ぶけど、振り向いてくれない。わざと聞こえなりふりをしてるんだ。


「待ってくださ、あ」


ごつん、とつま先に何かが当たる。道行く人をかき分けながら、いろんな人にぶつかりながら走った結果、足元の段差に躓いてしまったのだ。

ぐしゃぐしゃっと音を立てて崩れる私、周りの人とぶつかる衝撃。誰かの持っていた紙袋が、転んでしまった私の顔に思い切りぶち当たった。


「いた…」


鼻の頭が痛む。
こんな場所で転んだ私が悪いのだ。

あと数十分で終電で、我先に帰ろうという人が多い中、転んだ私は立ち上がることが出来ない。ストッキングは破れてしまい、膝から血が出ている。転げる時についた手のひらにも擦り傷が。先月買ったばかりのマフラーは誰かに踏まれて汚れてる。もう、最悪だ。これ以上ない最悪の事態。


「すみません、通ります」


その時、誰かの声がした。こちらに向かって歩いてきている男性の姿。それはさっきまで私に背を向けて、逃げようとしていた人の姿だ。今は座り込む私に向かって真っ直ぐに、すれ違う人と時折ぶつかりながら進んでいる。そして、私の目の前で立ち止まった。


「……あかあしさ、」


名前を呼ぶのと同時に、赤葦さんのきれいな手が伸びてきた。この手に触れてもいいものかどうか。赤葦さんの温かみに触れたくて触れたくて仕方がなかったのに、ずっと避けられていたんだから。


「…つかまって」
「………」


でも、渋っていた私にもう一度赤葦さんが声をかけてきたことでやっと私も応じる事にした。
赤葦さんは軽々と私を起き上がらせて、地面に落ちたままのマフラーを拾い上げて汚れをはらってくれる。
どうしてそんなに優しくするんですか?と、聞くべきなのか。ありがとうございます、とお礼を言うべきなのか。


「…すみません」


結局どちらの言葉も言えなくて、謝罪しながらマフラーを受け取るはめになった。
受け取ったマフラーを首に巻こうかと思ったけど、地べたに落ちて踏まれた直後のものなんか巻けやしない。情けない気持ちで鞄の中に突っ込んでいると、赤葦さんの声が降ってきた。


「追いかけて来なくて良かったのに」


思いやりも優しさの欠片も感じない台詞であった。どうしてそんなことを言われなきゃならないのか?と顔をあげると、赤葦さんと間近で目が合う。しかし、以前のようなドキドキは感じない。


「…なんでですか?」
「終わりにしようって言っただろ」


まるで睨み合いだ。でも負けるわけにはいかなかった。終わりにするならどうして今、転んだ私のところへ引き返してきたんだ。
このまま訳の分からないまま終わらせてたまるか、この野郎、と半ばやけくそな気持ちが芽生え始める。


「…わたしが、嫌だって言ってもですか」
「白石さんは良い人がすぐに出来るよ。実際もう退屈してないみたいだし」


ぴき。今まで聞いたことのない音がする。耳から聞こえた音じゃなくて、私の中から発せられた音。私の中で何かが切れた、あるいは亀裂の入った音である。


「……赤葦さん」
「なに…」


赤葦さんが返事をするのも待たずに私は右手を振り上げて、パシンという景気のいい音が鳴り響いた。
一瞬私たちの周りが静まり返るが、すぐに夜のざわめきへと戻る。
ただひとり、赤葦さんは言葉を失った状態で自身の左頬に手を当てていた。たった今自分にビンタをかました私のことを、驚いた様子で見つめながら。


「……?いて…」
「大っ嫌いです」
「…え?」


右手のひらがじんじん痛むけど、それ以上に目頭がじんじんと熱くなる。声はもはや震えてうまく喋れない。が、私の口から発せられた言葉が予想外だったらしい赤葦さんは切れ長の目が丸くなっていた。


「赤葦さんなんか大っ嫌い」
「……どうして」
「私の事なんにも分かってないじゃないですか!聞いてくれないし!逃げるし!最低ですよ!ほんとに最低」


続いて一気にまくしたてる私、例えるなら「火がついたように泣き出す子ども」だろうか。昔の人はよく言ったものだ。
溜まりに溜まったガソリンに発火した私の心は爆発し、赤葦さんのことを睨みあげていた。力強く。そのはずなのに、視界がじんわり霞んでくる。今は泣きたいわけじゃないのに。文句を言ってやりたいのだ。


「…あんなふうに接してきたくせに…、終わらせるなんて、無理に決まってるじゃないですか」


でも結局文句なんてあまり出てこなくて、私は下を向いて鼻をすすった。
ぽたぽたと地面を濡らす涙、あるいは鼻水が目に入る。情けない。社会人になってまで、こんな道端で泣きじゃくる日が来るなんて思わなかった。

でもこんなの全部赤葦さんが悪いんだもん。私の事を振り回す赤葦さんが。私の心を逃がしてくれない赤葦さんが。


「私もう、赤葦さんのことが好きです。好きで好きでどうしようもないです」


下を向いた私からは、赤葦さんの足元しか見えない。視界からはわずかな情報しか入ってこないが、戸惑っている事は分かった。


「……でも…」
「あの人は…あの男のひとは、同じ会社の…ずっと断ってます。この前赤葦さんと会った後ですぐに説明しました、それ以降は何も言われてません」


私は杉本さんのこと、何とも思っていないのに。ただただタイミングが悪かったのだ。社内で話しかけられたのを見られたのも、先日道端で出会った時も。ずっと私の中には赤葦さんしか居なかったのに。


「他に良い人なんてできません!他の人の事、好きだなんて思えませんからっ!」


まわりに人がいるとかどうでもいい。このイライラとモヤモヤと、赤葦さんへの想いを大声でぶつけてやった。これがきっかけで赤葦さんにドン引きされて正々堂々振られても構わない。言うことは言ってやったんだから。
私は完全に開き直って、まだ涙でぐしゃぐしゃの顔を拭こうともせずに赤葦さんを睨みあげた。


「……白石さん」
「なんですか」
「顔、」
「見ないでください」


私のほうから顔を上げたのに「見ないでください」なんて勝手だけど、このくらいの勝手は許されていいと思う。赤葦さんは困ったように目を伏せて、鞄の中からポケットティッシュを取り出した。


「ごめん…俺の問題で」
「どういう問題ですか」


ティッシュを一枚、二枚取り出しながら赤葦さんは唸った。私の顔がぐっしゃぐしゃの状態で世間の目に晒されている事以上の大きな問題があるって言うのか。


「白石さんが俺の知らないところで他の男性と話してるの、どうしようもなく嫉妬するんだ」


悔しいほどにきれいな声で、赤葦さんはそう言った。続いてティッシュを使い、私の頬を流れる涙を優しく拭き取ろうとする。
そんなの要らない!と手を振りほどきたいのに出来ない。この紳士的な行動に感動したからじゃなくて、今の赤葦さんの台詞にポカンとしてしまったから。


「……なんですかそれ」
「なんですかって言われても」


赤葦さんはばつが悪そうにして、次のティッシュを取り出していた。


「…なんですか、その学生さんみたいな理屈」
「学生さんみたいで悪かったね」


今度はムスッとした様子で赤葦さんが言った。

だって、本当に学生さんみたいじゃん。私が他の男性と居るのを見て「こいつ、結局オトコ作ってんのかよ」と思うんじゃなくて「どうしようもなく嫉妬する」って。
そもそも会社には男性社員が多いんだから、赤葦さんの知らないところで男性と話すのは仕方ない事だ。杉本さんに限らず。それに嫉妬するって、単なる嫉妬によってあのような態度になってしまったと言うのか。


「本当にごめん。俺のほうが年上なのに情けないって分かってる」
「……」
「けど、好きになったら自分だけのものにしたくて」
「……」
「だから白石さんが他の人と喋ってるのめちゃくちゃムカついたし、頭が真っ暗になった」


さっきまでの無言が嘘みたいに、赤葦さんが話し始めた。私が他の男性と話しているのが、めちゃくちゃムカつくと。
私はイライラしたのも忘れて聞き入っていた。赤葦京治という男の思考回路を理解するために。


「…けど、」


赤葦さんは頬をぽりぽりとかきながら、私を見下ろした。


「こんなクソみたいな男、好きだって言ってくれるなら…」


そして、私の顔に手を伸ばす。涙で張り付いてしまった髪を優しく避けて、目尻に溜まった涙をその指ですくい上げた。
さっきまでイタズラを謝る子どもみたいだった彼なのに、大人で素敵な赤葦さんへと早変わり。そんな姿見せられて、そんなこと言われて断る女が居るもんか、この野郎。


「…好きですよ」


悔しいけど、やっぱり好きなのだった。初めて会った時の少し素っ気ない感じも、プライベートで会った時のくだけた雰囲気も、優しく私を支えてくれるところも。意外と簡単に入ってしまう怒りのスイッチさえも。赤葦さんだから全部好き。


「…ほんとうに?」
「ほんとです」
「さっき大っ嫌いって言ったよね。何回も」
「さっきは大っ嫌いでした」
「ふ、今は?」


いつの間に余裕を取り戻したのだろうこの人は。未だに顔を膨らませる私の頬をつんと突いて、笑っているではないか?そして分かりきった質問をする。答えは決まっている。


「…好きです」


でも、もう一度聞いて安心したかったのかも知れない。私の「好きです」を聞いた時、赤葦さんの肩から力が抜けたように見えた。


「…ありがとう。俺もすごく好きだよ。ほんとにごめん」


ぺこりと赤葦さんが頭を下げた。
あ、そういえば。赤葦さんから「好き」って言われたのは初めてのような気がする。そういう雰囲気だなって思っていた時期はあるけど、「好き」ときちんと言葉にされるのは。


「本当ですか…?」
「もちろん」
「でも…でも、もしかして私のこと嫌いになったかと思って」


あの時は本当に冷やりとした。顔を合わせた時に素っ気なかった時とか、電話やメールがなんとなく味気なくなった時。更には来社履歴に赤葦さんの名前が一切無くなっていたのを見た時。


「最近、会社にも来ないから…私のせいでうちの会社の事まで嫌いになっちゃったり」
「違うよそれは、最近はそっちの山田さんがうちに来てくれてたからで…さすがに仕事にまで影響させないよ」


赤葦さんは別人みたいに笑っていた。仕事にまで影響させないよって、仕事中の私の姿に嫉妬した男性が言うなんて信じられないような立派な台詞だ。


「…オトナですね。」
「あ、それ嫌味だね」
「そんな事ないですー」


やっと私も、赤葦さんを前にして久しぶりに笑うことが出来た。
心配ごとが全部吹き飛んで解決して、好きな人と仲直り。私の顔を見た赤葦さんは「俺のせいだけど、その顔はちょっと駄目だね」なんて笑いながら新しいティッシュを渡してくれた。
赤葦さん赤葦さん、しっかり者の大人のくせに意外と子どもで天の邪鬼なあなたがやっぱり好きです。

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり