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この感情、いったいなんと呼べばいいんだろう。戸惑い、怒り、悲しみ、色んなものが溢れかえって来た。だって赤葦さんは私の事をあんなふうに扱っておいて、今更無かった事にするなんて無理に決まっている。

…けれども、冷静に考えれば私たちは立派な社会人で、取引のある会社の社員とプライベートで交遊するのは褒められた事ではない。それが分かっているから今は仕事に集中しようと割り切っていたのに。こんなんじゃ仕事にすら集中できないじゃないか。


「白石さん、考えてくれた?」


そのうえ、このあいだ私に声を掛けてきた男性社員が再び目の前に現れた。


「…なんの事ですか?」
「だから、ゴハン行こうって話」
「お断りしたはずですけど…」
「何でよ?あ。俺、企画部の杉本って言うんだけど。このあいだ社内表彰されてたの。覚えてる?」
「……」


覚えてない。…と言うのは嘘で、なんとなく覚えている。何の表彰かは忘れたけど、半年に一度優秀社員が何名か選ばれて発表されるのだ。
そこに名を連ねるという事は仕事は出来るのかも知れないけど、会社の廊下でこんな誘いをしてくるなんて、ちょっとどうかと思う。しかもしつこい。そして私は今、あまり機嫌が良くない。なんたって赤葦さんからも訳の分からない事を言われて混乱しているんだから。


「とにかく無理なんで」
「もしかして、この前一緒に居た人と付き合ってんの?」


ぴたりと動きが止まり、ひやりと心臓が冷える。この前一緒に居た人?いつ?


「…誰の事ですか?」
「誰かは知らないけど。下のコンビニで喋ってたよね。うちの社員じゃなさそうだったけど」


赤葦さんだ。この間確かにコンビニで少しの会話をした、見られてたんだ。目立たないようにコンビニに入ったつもりだったのに迂闊だった。


「関係ないですよね」
「ないけどさあ」
「あの人とは別に何でもないんで」
「何でもないなら俺と」
「あなたとも何でもないんで!」


しんと廊下が静まり返る。はっとして周りを見ると幸い誰もいなかったが、目の前の杉本さんは私の大声にぎょっとしていた。


「…すみません。」


杉本さんへ頭を下げて、私は秘書課のフロアへ戻るためエレベーターに向かった。
赤葦さん以外の人とそういう関係になるつもりなんて無い。赤葦さんに会いたいのに。


「あ、白石さん白石さん!」


夕方歩いていると、受付の里香さんに出くわした。相変わらず綺麗でかわいくて、「今日の仕事を終えた」という解放感からかすっきりしている。


「里香さん…!」
「元気?私もう上がるとこ」


そういえば受付はもう終わりの時間かと腕時計を見やった。私も前はこの時間に帰っていたんだなあ、帰ったって何もしていなかったけど。
それに今は例え早く帰れても、一緒にデートに行く相手すら居ない。ちょうど「無かったことにしたい」と爆弾を落とされたところなのだから。


「…元気じゃないです」
「おや」
「色々ありまして…」


里香さんに相談するかすまいか。里香さんはとても信用できる人だし、赤葦さんと私がプライベートな関係にあることを口外しないだろうけど。


「…あの。時々山田部長を訪ねてきてた、背の高い人覚えてますか?」
「背の高い人…?」
「仕事ができそうな…あのー…黒髪で短髪で、落ち着いた感じの」
「あ!あのイケメン?」
「そ、そうですね…イケメンです」


里香さんは手をぽんと叩いた。赤葦さんは間違いなくイケメンの部類だけれども、里香さんが赤葦さんのことを「イケメン」と覚えている事にすら嫉妬を覚えた。なんて自分勝手なんだ、私。


「その人、最近来てます?」
「最近かあ…そういえば見てないね」
「そうですか…」
「あの人がどうかしたの?」


赤葦さんを見かけなくなったのは、私が受付から秘書課に行ったおかげですれ違っているのかも、と思っていたけど。うちの会社にすら来ていないようだ。


「…大丈夫です。なんとなく気になっただけなので」
「もしかして白石さん、タイプなんだ」
「う…」
「見かけたらメールするからさ!」
「は、はい」


どうして来なくなってしまったんだろう?もしかして私のせいとか?私に会いたくないとか。だからもううちの会社との取引を辞めるとか。

いやいやそんな公私混同するような人じゃない。きっと私には関係の無い理由で来なくなったんだ。…それはそれで悲しい。どうして私、赤葦さんのことばかり考えてしまうんだ。





やっと退社したのは、里香さんと会話をした2時間後くらい。すっかり暗くなった帰り道、駅までの道を歩いていると途中で誰かが立っていた。


「…どうして居るんですか」
「どうしてって言われても」


立っているのが赤葦さんだったら良かったのに、そこに居たのは企画部の杉本さん。昼間あれほど頑なに断ったというのにメンタルが強すぎるんじゃないか。


「晩ご飯どう?」
「いいです」
「ガード堅いね、そういうところも良いと思うよ」
「何で上から目線なんですか…」


私の何が良くて好意を寄せてくれているのかは分からないが、もちろん嬉しい事は嬉しい。でも今じゃないし、貴方じゃない。
だから晩ご飯の誘いも受けることなく「結構です」ともう一度伝えて歩こうとした。ら、帰宅を急ぐ人混みの中で頭ひとつ抜き出た人物を発見した。


「あ、」


目を凝らして見るとどうやら一人で歩いているその人。
ネイビーのスーツを着こなす黒髪の短髪、どう見ても赤葦京治だ。いやでも確証はない…と思っていると顔が見えた。赤葦さんだ!


「ちょっ失礼します」
「えっ、白石さん?待って」
「ついてこないで下さい!」
「何で」


杉本さんが後ろで私を呼ぶのは聞こえなくなっていた。杉本さんの声が小さいんじゃなくて、私の頭が赤葦さんのことしか察知しないよう切り替わったのだ。

瞳に赤葦さんだけを写してそこに辿り着くように、何人かにぶつかりながら早足で歩く私は迷惑だったろう。でも今は他の人なんか目に入らない。赤葦さんがそこに居るんだ、これを逃すと直接会って話せないかも知れない。


「赤葦さん!」


名前を叫ぶと赤葦さんは驚いて顔を上げ、こちらを振り向いた。そして恐らく「振り向かなければよかった」と思ったのだろう、私の姿を見て目を見開き、しばらく静止した。そして顔を逸らして立ち去ろうとした時だ。


「白石さん走るのはっや!」


後ろから別の男性、杉本さんが私を追いかけてきた。
途端に私は我に返り、赤葦さんも目線は私ではなく、私の後方にいる人物を捕らえる。それから視線を私に戻された時、あ、これって良くない状況かも知れないと感じた。


「……」


赤葦さんは無言で会釈をしたかと思うと、踵を返して行ってしまった。
追いかければいいのに、私。でも出来なかった。今きっと、いけない勘違いをされてしまった。ずっと仕事が仕事がと言っていた私が男の人を連れて歩いているなんて、どう考えても悪いシナリオしか浮かばない。


「…杉本さん。」


後方の男性へと発した声は、自分でも驚くほど低かった。


「ほんとに、もう…大丈夫です。こういうの、やめてください」


杉本さんは私の声を聞いて驚き、さらに顔を見て冷や汗をかいたに違いない。声の冷たさ、低さとは裏腹に今にも崩れ落ちそうな顔になっていたから。


「もしかしてさっきの人…」
「それ以上言わないでください」


さっきまで寒くなんかなかったのに鼻水が垂れてくる。目頭からはもう、溢れてきてる。涙が。


「…ごめ…俺、悪気があったわけじゃ」
「分かってます。もういいんで…もう…誘ってくれたのに、すみません」


最後にお辞儀をしてから、私はふらふらと歩き始めた。
赤葦さんに誤解された。きっと嫌われたんだ。幻滅された。
「さっきの人とはそういう関係じゃないんです」と弁解できるわけもない。私は赤葦さんにはっきりと「無かったことにしてほしい」と言われてるんだから。

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり