11秘書課の仕事、私にうまく出来るだろうか。そんな心配はいつの間にか消えており、新しい事をするのがとても楽しくなっていた。予想よりも忙しくて難しいけどやりがいもあり、今まで関わらなかった色んな人との関わりが多くなった。全てが自分の身についている気がして、「私は今仕事をしている!」という充実感でいっぱいだ。
その代わりに残業続きで、家に帰るとぐったりしてしまい赤葦さんとの連絡をとる頻度は激変した。赤葦さんも私に気を遣っているのか、電話もメールもあまり来ない。話す機会がどんと減ってしまったのだ。
「白石さんでしたっけ?」
ある日、社内を歩いていると男性社員に声を掛けられた。見たことがあるけど名前は分からない、程度の人。
「はい、白石です」
「合ってた、よかったあ」
見た感じとても爽やかで感じのいい人である。こっち来て、と手招きされるままついて行くとパントリーのほうへ誘導された。
やばい、これってもしかして面倒くさいやつかも。と察した時にはもう遅く、その人はポケットから携帯電話を取り出した。
「受付に居る時から仲良くなりたかったんですよね、よかったらご飯行きません?」
赤葦さんと出会う前の私なら、少しは考えたかもしれないこの誘い。だってこの人も赤葦さんと同じく背が高いし、清潔感があり、顔だって整っている。
でも、誘いに乗れない決定的な理由がある。この人は赤葦京治ではないという事。
「すみません、せっかくなんですけど…」
「駄目?」
ずいぶんと食い下がって来る人だな。
同じ会社の人だから今後も会うだろうし、気まずくなるのは御免だ。あまり頑なに断れない。でも私は、赤葦さん以外の人はもう考えられない。その赤葦さんとさえ最近はあまり連絡を取れていないのに。
「…そういうのは…申し訳ないですけど、」
「誰かと付き合ってるの?」
いつの間にかフランクな口調で話されている。仕事中なので、と頭を下げてパントリーを抜け出すと、彼は後ろから「白石さん、待って」と呼び止めて来た。やめてくれ。面倒な事で会社に居づらくなるのは嫌だ。
「あの、私ほんとうに…」
と歩きながら伝えると、前方から数名の男性が歩いてきた。エレベーターホールから応接室に向かっているのだ。
ここは7階、男性を率いているのは山田部長。その後ろに居るのはまさに私の頭をいっぱいにしている人、赤葦さんであった。
「お疲れ様です」
さすがに先程まで私に言い寄っていた男の人も、山田部長の前で口説き文句なんて言えないようだ。通りすがる人達に頭を下げて、私も一緒に会釈する直前に赤葦さんと目が合った。
今のやりとり、赤葦さんまで聞こえていないよね?見られていない、よね?
「…ね、考えてくれない?」
「えっ!?」
まだ赤葦さんも山田部長も廊下を歩いているのに、この人と来たら再び私に言い寄ってきた。
「あの、仕事中ですから」
「だってなかなか会えないでしょ、秘書課の役職者怖いし」
確かに秘書課の久保田主任は怖いけれども。仕事に対して真面目で厳しいだけで、それ以外は良い人だ。この人みたいな難破な男性には仕事以外でも怖がられそうだけど。
「すみません」
とにかくもう一度頭を下げて、足早にエレベーターに向かうことで回避することが出来た。
こういうオフィスラブに憧れる時代もあったけど、なんか違う。全然違う。私は赤葦さんが好きなんだもん。
◇
「…つかれた」
今日も数時間の残業をして、帰宅した頃にはくたくただった。
受付に居たころはこの時間、ぐうたらテレビを見ていたっけ。そう考えるとアレコレ仕事のことを考えている今は、ある意味充実しているのかも。…人はこれを社畜と呼ぶのかも知れないけど。
まあ今だけだし、残業代もちゃんと貰えるし。気になるのは赤葦さんに会えないって事くらい。…会社では時々会えるけれども、私も赤葦さんも仕事中だからゆっくり会話が出来ないし。
今日なんか他の男性と喋っている(というか一方的に喋りかけられている)ところを見られた可能性がある。
『最近、お忙しいですか?』
変な誤解をされていないといいな、と思いながら赤葦さんにメッセージを入れてみた。
『ぼちぼちです』
すぐに既読がついて返信が来た。赤葦さんって友だち居ないのかな、飲みに行ってストレス発散しないのかなと心配になるスピードだ。私も人の事は言えないのだが。とにかく、きちんと返事が来たことに安心した。
『私ももう少し忙しくなりそうです。お互い頑張りましょうね!』
今の私のモチベーションは赤葦さんと、仕事への充実感のみ。それを除けば空っぽだ。
だからこのように返信したんだけど。…したんだけど。
◇
翌日、また翌日、そのまた翌日、ついには翌週末まで、私は赤葦さんとばったり出会うことも無くなった。社内を歩く時に周りを注視してみても、赤葦さんが来ている気配は無い。
これまで頻繁にうちの会社に来ていたのに、どうしてだ?偶然タイミングが合わないだけ?
私も私で例のごとく仕事で手一杯だったので、やっと赤葦さんに電話できたのは最後に会ってから10日後くらいであった。
『もしもし』
「あ、もしもし!」
ほっとしたのは赤葦さんが割とすぐに電話に出てくれたから。久しぶりに聞いた赤葦さんの「もしもし」に、自然と顔が緩んでいく。
「すみません、いまお電話大丈夫ですか」
『大丈夫…』
しかし、なんだか赤葦さんの声は気乗りしない感じだった。体調が悪いのか眠いのか。
「あの、次はいつ来られるのかなと思って」
でも最近赤葦さんと会えずにすれ違い気味だった私は、早く会いたいという気持ちが先走る。会社の中で、遠くで見かけるだけでもいいから。
『その事なんだけど…』
でも私の浮わついた気持ちとは裏腹に、やはり赤葦さんの声は低かった。
「どうしました…?」
私が尋ねると、電話口では喉を鳴らすのが聞こえた。それだけでちょっと嫌な予感がした。いや、でもまだ分からない。赤葦さんの言葉を待たなくては。
『ごめん。俺から声かけたのに』
「え」
まだ謝られただけ、まだ何を言われるかは分からない。だから落ち着いて聞かなきゃ、と頭の中で文字だけがぐるぐる回っていく。
けど、聞こえてきたのは私の考えうる一番最悪な台詞なのだった。
『無かった事にしてほしい』
先程まで暖房の音が聞こえていたこの部屋の、すべての音が無くなった。時々外からは車の走行音が聞こえるのに、それもまったく聞こえない。まったくの無音。頭の中も真っ白。ええと、それってつまりどういう事だ。
「……どうして…?」
『白石さんのせいじゃないんだけど…俺の問題で、』
「どういうことですか」
赤葦さんは口ごもった。唾を飲み込む音が聞こえる。私もつられてごくりと唾を飲んだ。そして待った。赤葦さんの言葉を。もしかして彼女や奥さんが居た?
『俺、きっとこういうの向いてない』
ところが言われたのは、彼女も奥さんも起因していないであろう一言。「こういうの向いてない」というのはつまり、違う会社の人間どうしで男女の仲を深めていく事?
「向いてない?」
『だから、ごめん』
「あ…赤葦さん?」
向いてないという理由で赤葦さんとの関係を終わらせるのはまっぴら御免というか、納得がいかない。それなのに電話はぷつりと切られてしまい、耳元では虚しい電子音が響いた。
切られた。電話。一方的に。
テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり