102日ほど色々と詰め込まれて、秘書課の研修は久保田主任の言うとおりてんやわんやだった。今までとやる事が全く違う。社員の出張の手配、海外に行く場合には航空券を予約したりパスポート番号を間違いなく入力したりとかなり気を遣う。
社員から常務や取締役への報告事項の引き上げやその他もろもろ、「あれって誰がやっているんだろう」と思っていた仕事全てやっているのか?と感じるほど。
「白石さん、これ山田部長に渡してきてもらえる?」
社外秘、と書かれた封筒をいきなり手渡されてしまった。こんな大事なものを私が任されていいのだろうか。と言っても1階下に居る山田部長に手渡すだけでいいのだから、これが出来ないようでは社会人失格である。
「わかりました、行ってきます」
「ありがとう、お願いね」
幸い秘書課の人達は、かなりテキパキとした強い女性たちだけれども、親切で頼りがいのあるひとだった。久保田主任の事ははじめは「ザ・秘書!こわっ!キツッ!」と思っていたけど話してみると時々冗談も言ってくれる。私もこういう先輩社員にならなくては。
7階に降りてフロアを歩いていると、山田部長の席にはどうやら姿が無いようだった。お手洗いか喫煙所か、と思い探してみるとちょうどエレベーターホールのところで部長の姿を発見した。
「赤葦さん、こんにちは!」
山田部長の声で「赤葦さん」、間違いなくあの赤葦さんだ。今日この会社に来る予定だったのか、知らなかった!
「今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。それじゃあこっちへどうぞ」
山田部長が自ら赤葦さんを応接室へ案内するらしい、そのために振り返った時部長が私の存在に気付いた。そして部長の後ろを歩く赤葦さんも、だ。
「…きみは?」
「あっ、」
赤葦さんが居るおかげで「山田部長に資料を渡す」ということを失念していた。慌てて持っていた封筒を手渡すと、何の資料なのか察しはついているようですぐに受け取ってくれた。
「…きみいつも受付に居る子じゃなかったっけ」
「はい、それが秘書課に異動が決まりまして」
「ああ…そうか。頑張って」
「ハイ」
山田部長のぴりりとした雰囲気にはいつも姿勢を正される。赤葦さんはこの人と二人きりで商談なんて、そりゃあ気合が要るだろうなあ。
「じゃ、赤葦さんどうぞ」
部長が手を差し出すと、赤葦さんは会釈してそのまま通り過ぎて行った。
私たちがプライベートで親交を深めているなんて会社の人には秘密だから、私にもただ会釈をするだけ。ちょっと寂しいな、なんて自分勝手な気持ちも芽生えたりする。大人になれ、私。
「白石さん?」
赤葦さんたちの背中を見送っていたら、突然廊下で声をかけられた。
振り返るとそこに居たのは男性社員。私が受付で一緒に仕事をしている、里香さんの彼氏さんだった。
「今から1階降りる?これ持って行ってほしいんだけど」
持っていたのは仕事に使う書類などではなくて、恐らく里香さんに渡したいものだと思う。不動産会社の名前が入った封筒だった。そういえば同棲の計画を立てていると聞いたので、間取り図などが入っているのかもしれない。
でも、渡したいのは山々だけど私は1階に降りる予定はない。
「…すみません、実は秘書課勤務に変わりまして…」
「え!」
「ごめんなさい」
そのように伝えると、彼氏さんは複雑な表情で頭をかいた。
「そうかあ…里香が寂しがりそう」
「そうですかね…だと嬉しいです」
「寂しいに決まってるよ。もちろん応援してると思うけど」
大好きな先輩の里香さんが選んだ人なだけあって、優しくていい人だ。しばらく里香さんには負担をかけることになるけれど、いつかちゃんと恩返しをしよう。そして、隠していた赤葦さんとの事も里香さんには話そう。
「…ですね!頑張ります」
「いいね〜」
そうしてもう一度改めて謝罪したのち、彼氏さんは自ら1階へ降りるためエレベーターのほうへ向かった。
私ひとりが秘書課に異動するだけで、いろんな人に迷惑をかける事になるんだな。でも薦めてくれた人事の木村さんや、送り出してくれた里香さんのためにも中途半端で終わるわけにはいかない。少々自由時間を減らしてでも頑張らなくては。
そして私は階段で秘書課のフロアへ戻ろうかなと振り向いた時。あっと声が出そうになった、赤葦さんが少し離れたところにひとりで立っていたからだ。
「赤葦さん、山田部長は?」
小声で話しかけながら近づいていくと、赤葦さんは目の前のドアに目配せした。中から山田部長の話し声が聞こえる。どうやら赤葦さんは少しの間、ここで彼を待っているらしい。
「山田部長はいつ頃…」
「白石さん」
「は、はい」
赤葦さんに遮られて、思わずぴしっと背筋を伸ばす。赤葦さんは唇に人差し指をあてて言った。
「ここではだめです」
そうだった。こんなところを誰かに見られたら怪しまれてしまう。最悪の場合、赤葦さんの仕事にも影響してしまうかも。
「すみません…」
「大丈夫。もう行って」
最後に聞こえたその声は優しかったのでほっとしたけど、いつも私に笑顔で、時々ふざけて接してくれる様子とは違ったように思う。会社の中だから?それとも赤葦さん、少し疲れている?
悶々としてしまったけど、私も私で自分の仕事が忙しくて、ずっと赤葦さんのことを考えるのは難しくなってしまった。
◇
それから暫くして、「急ぎでペットボトルのお茶を買ってきて」と頼まれたので隣のビルにあるコンビニへ向かった。
お茶と言っても人によって好みがあるようで、どのお茶を何本買えばいいのかしっかりメモしてある。こういうのも覚えなきゃいけないのかなあなんて思いながら両腕にビニール袋を持ってコンビニを出ると、ちょうど入ってくる人とぶつかりそうになった。
「あ、すみません」
「いえ…あっ」
なんと、その人は赤葦さんだったのだ。山田部長との打合せが終わったところらしい。
「お疲れ様です」
「白石さんも」
私たちはいったんコンビニの外に出た。赤葦さんと久しぶりに直接話せる機会だ。
「私、明日は受付勤務なんです。来られる予定ありますか?」
「…いや…無いかな」
「そうかあ…」
まだ受付に入る新しい人材が育っていないということで、私は秘書課と受付を行ったり来たりのてんてこまい。でも受付に座る日は赤葦さんと会うチャンスがある。それを楽しみにしていたけど、明日はどうやら叶いそうにない。
「あの」
「はい」
「明日の夜って忙しい?」
今度は赤葦さんが言った。もしかしなくてもご飯のお誘いだろう、飛び上がりたいほど嬉しいし即答で「空いてます!」と言いたいところだけど。
「…ごめんなさい。明日も夜は引継があって、残業が決まってるんです」
最近は赤葦さんと会う約束を全く立てられない。先日はドタキャンしてしまったし、せっかく誘ってもらえても断らなくてはならないなんて。
「そうなんだ。大変だね」
「いえ…あ、そのぶん年明けに休みもらえるって聞いてます」
「そっか」
今は仕事を頑張らなきゃいけない時期なのだと自分でも分かる。秘書課の宮村さんの妊娠とか、色んなことが重なってしまったんだから仕方ない。私だってずっと、新しい事にチャレンジしたいと思っていたから。
「…忙しい?」
「ちょっとだけ…でも楽しいです、新しい事をするのは。新しい人にも会えるし」
「いいことだね」
「赤葦さんのおかげです」
赤葦さんが「やってみればいい」と背中を押してくれたから、こうして忙しいけど充実した日々を送っている。だからいつかお礼をしなくては、と思いながら日にちが経過してしまってるけど。
赤葦さんは腕時計に目を落とし、時間を確認するとすぐに顔を上げた。
「…今日はもう帰らなくちゃ」
「あ、はい…私も戻らないと」
「うん」
「じゃあまた!」
「うん、また」
私は赤葦さんに手を振った。赤葦さんも振り返してくれたけど、笑顔ではなかった。やはり疲れているのかどうか。その原因は少なからず私が関わっているなんて、私には当然知る由もない。赤葦さんに会えないのは寂しいけれど、今は仕事が忙しく、同時に楽しくて仕方ないのだ。
テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり