09


年の瀬にこうも色々な事が起きるとは思わなかった。秘書課への異動のお誘い、赤葦さんからのお誘い。私ひとりで抱えきれる事ではないけれど、私が整理しなくてはならない問題だ。

赤葦さんは「やってみるべき」と私の挑戦を後押ししてくれた事もあり、あれからお互いの気持ちを表現するような事は言わなくなっていた。けれども「社会人としてのお付き合い」程度のやり取りは進んでいる。
正直言うと私だって、あそこまで言われたら赤葦さんを意識せずにはいられない。好きにならずにはいられないからだ。

1月末までは受付で仕事をする事になっているけど、片付けをしたり、デスクトップに散らばっていたフォルダの整理で忙しい。
でも里香さんにもお詫びと説明をしたら「かっこいいじゃん!頑張れ!」と言ってくれた。来社する人たちにも、なんだか胸を張って対応できるようになった。私はもうすぐ秘書課!その意気込みのおかげかもしれない。


「明日の夜、ご飯でもどうですか」


電話をしてみると赤葦さんは「もちろん」と答えてくれた。
いつも赤葦さんが何かとお金を出してくれるので、今回は私から誘ってお返しをしようと思うのだ。こうして思いきれたのも赤葦さんのおかげだし、それに、赤葦さんと出会ってから私には良い風が吹いている気がする。


『白石さんから誘ってくれるなんて珍しいね』


夜の静かな部屋の中で、赤葦さんの声は眠気を誘うような優しいものだった。この声を聞いていると心が洗われる。仕事の事が落ち着いたらちゃんと返事をしよう。


「いつも色々お世話になってるんで…明日は私からご馳走させてください」
『えっ、そんなの悪い』
「悪くないです」
『いや、俺のほうが年上なのに…』


年上だからとお金を出してくれるのは有難いが、私ばかりが奢ってもらうのは困る。対等ではない気がするし、私だって一応正社員として働いている。それに、答えを先延ばしにする私に会ってくれるだけでも優しいと思う。


「お礼したいんで、お願いします」
『……』


秘書課のこと、背中を押してくれたお礼。という意味で言ったんだけど赤葦さんは黙ってしまった。おかしな意味で捉えられてしまっただろうか?


『そういうこと言われると俺、素直に期待しちゃうけどいいの?』
「え、」
『や…ごめん今の無し。ごめん』


ごめんね、ともう一度赤葦さんは謝った。私の部署異動が落ち着くまで、そういう事は言わないという暗黙のルールが出来ていたから。
赤葦さんは咳払いをして持ち直すと、いつものトーンに戻っていた。


『じゃあ明日楽しみにしてます』
「…わたしもです」


でも「楽しみにしてます」なんて言葉を選ぶあたり、彼の熱は全く治まっていないようだ。
私も私で赤葦さんをご飯に誘ってしまうなんて、我慢を知らない悪い女だと思う。





「えっ、入院…」


翌日、赤葦さんとの夕食を楽しみにしつつ出社したところ飛び込んできたのは大変なニュース。現在妊娠中である秘書課の宮村さんが、体調を崩してしまい急きょ入院してしまったのだという。


「大丈夫ですかね」
「妊娠してからちょっと体調悪そうだったからなあ…幸せそうなのにどんどん痩せてたし」
「うわあ…」


宮村さんと同期の里香さんも心配そうだ。
妊娠したことが無いから分からないけど、安定期に入るまでは大変だって聞くし、つわりで激痩せする人も居るみたいだし。赤ちゃんに栄養を取られて栄養失調になった、なんて話も聞いたことがある。お腹に赤ちゃんを宿すというのは大変な事なんだなあ。
そんな時、受付に置かれた電話機がぷるると鳴り始めた。


「あ、8階から…」


8階は人事部がある階だ。もしかして私かな、と思い里香さんに「出ます」と伝えて電話に出る事にした。


「はい、受付の白石です」
『白石さん!木村です』
「あっ、お疲れ様です」


やっぱり木村さんからの電話だ。ということはもしかして、宮村さんが倒れた件と関係があるのかもしれない。


『宮村さんの件聞きました?』
「はい…大丈夫なんでしょうか」
『大事をとって、もうこのまま休職する事が決まったんですよ』
「え!」


思わず大きな声が出て、隣の里香さんも「何何?」と興味津々だ。里香さんにはあとから説明するとして、ひとまず木村さんの話を最後まで聞くことにした。


「……はい。はい、わかりました」


木村さんは要件だけをいつものハイテンションで伝えてくれると、いったん電話は終わった。…でも私は今からちょっと忙しくなりそうだ。


「どうしたの?」
「宮村さん、ちょっと危ないからこのまま休職みたいです」
「えー…」


やはり心配そうにする里香さんに、これ以上の心労をかけるのは忍びないけれども。木村さんから伝えられた、いや指示された事を里香さんにも話さなくてはならない。


「で、あの…あとから里香さんにも電話がいく予定みたいなんですけど。私今日から秘書課の研修する事に」
「きょう!!?」
「は、はい」
「…きょう!!?」
「はい」


彼女の驚きは最もだ。受付だって私たちふたりしか居ないんだから。
でも新しく受付に入る人をひとまず1年目の社員から募るのと、派遣かなにかで求人を出すかも、と木村さんは言っていた。わりと会社が大きいわりには、こういうところは人件費を削減されているんだなぁと感じる。
それを里香さんも理解しているらしく、驚きつつも納得しようとしているのが見て取れた。


「…いや仕方ないよね…」
「すみません」
「白石さんのせいじゃないよ」


ああ里香さんごめんなさい、いつかちゃんとお詫びします。そう思いながら史料や荷物をまとめて、秘書課のある10階へと上った。


『本当にごめんなさい。妊娠されていた秘書課の方が倒れてしまったみたいで、今日から研修で遅くなりそうなんです。私から誘ったくせにごめんなさい』


トイレの中で赤葦さんへ送る文章を作成した。なんと今日からの研修、定時にすべてを終わらせるのは難しいらしいのだ。
残業代は出るらしいけど正直きつい。せっかくの赤葦さんとの約束を断る羽目になってしまったんだから。しかも、私からつい昨日誘ったばかりなのに。


「…これってドタキャンだよなあ…」


社会人にもなってドタキャンする事になるなんて、会社の都合とはいえ最悪だ。
楽しみにしていた事がナシになったのも最悪だけど、それより赤葦さんに申し訳ない気持ちでいっぱいである。土下座したいくらいの気持ちでなんとか送信ボタンを押し、そのメッセージだけは送っておいた。


「白石さんですか?」


ちょうど送信したとき、秘書課の執務室前で声をかけられた。慌てて携帯電話をポケットにしまい込んで振り向くと、秘書課の先輩社員らしき人が。


「あっ、はい!」
「秘書課の久保田です。突然ごめんなさい」
「いえ」


久保田さん、じゃなくて確かこの人は久保田「主任」だ。しばらく私の研修をしてくれる人。パンツスーツがとてもよく似合っていて、見るからにバリバリのキャリアウーマンである。


「急ピッチで申し訳ないけど、じゃんじゃん詰め込んでいくんでお願いね」
「はい、こちらこそお願いします」


久保田主任はひとつに結わえたつやつやの髪を揺らしながら、執務室へと案内してくれた。
今日からここで研修だ。まだ受付も人が居ないから、受付と秘書課を行ったり来たりの大変な日が続きそうだけど、なんとか頑張らなくては。





研修は言われたとおり早いペースで進んでいき、あっという間に時間が過ぎた。
数時間後には昼休みを与えられて、やっと息がつけると思いながら会社を出た。秘書課、みんなテキパキしてる。私について行けるかな。


「あ、」


ふと携帯を開くと新着メッセージが受信されていた。「赤葦京治」と書かれている。赤葦さんからだ!


『大丈夫、急だけど頑張ってください。また俺からも誘います』


昨日の今日で断ってしまったというのに、何というあたたかい返事なんだろう。
罪悪感でいっぱいだったけど、よくよく考えれば仕事の都合なんだから仕方ない。里香さんと同じく赤葦さんも理解してくれたみたいでひと安心だ。また俺からも誘います、なんて付け加えられていて優しい。


『私もまた近いうち、絶対誘います!』


そのように返信してから携帯電話を仕舞い、昼休み中は目いっぱい頭を休ませることに専念した。

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり