06


どうしてあそこに白石さんが居たんだって事よりも、何故あんなふうに口走ってしまったんだという疑問のほうが大きい。
入学式のあの日から白石さんに惹かれて仕方が無かったのに、まともな会話が出来ない俺に何度も話しかけてくれていたのに。てっきり俺が一方的に彼女を好きで、仲良くなりたいと思っているものだとばかり。

白石さんは鞄を背負っていたおかげで遠くまでは走っておらず、思いのほかすぐに追いついてしまった。校門を出たところでスピードダウンした白石さんは、後ろから迫る俺の足音に気付いたらしくぎょっとして振り向いていた。俺は足が速いのだ。


「白石さん、あの!」
「と…とどろきくん!?」


俺が追いつきそうになった瞬間から白石さんは再び前を向き、なんとまた走り出してしまったではないか。
しかしやっぱりすぐに追いつき追い越し、白石さんの前に出て立ち止まると、やっと白石さんも観念したように走るのを止めた。


「…なんで…げほっ」
「だ、大丈夫?」
「うん…う、運動不足で」


立ち止まったはいいものの、よろよろと足取りがおぼつかない様子だ。普段あまり全速力で走らないらしい。
身体を触るのは気が引けるので白石さんの息が落ち着くまで様子を伺っていると、数十秒後に彼女はこう言った。


「……追いかけて来なくてよかったのに」


ぐさりと心に突き刺さってきた。俺は嫌われてしまったのではないか。白石さんが俺と話したい、仲良くなりたいと思ってくれている事に気付かずに、これまで散々な態度をとってしまったせいで。


「私、友達じゃないんでしょ」


同級生の女の子に刺々しい口調で話されるのは初めてではない。恐らく小学生のころから、クラスの誰も俺に好意を向けた事は無い。俺が片親だったり、会話が苦手だったり、夜中までひとりでバットを振っていたり、色んな原因のせいだ。
でもそんな変な俺にだって友達は居るのだ、ふたりだけ。今からやっと三人目を作ろうとしているところだ。


「お…思ってない。そんな事」
「うそつき」
「嘘じゃな、」
「私が話しかけたって全然相手してくれないじゃんか!」


その三人目の友達候補である白石さんは、これまでで一番声を張り上げたかと思うと肩を揺らしながら息をした。走った疲れのせいなのか、大声を出したせいなのか。
どっちにしてもその声と、白石さんの鋭い視線のお陰で俺が怯むには充分だった。

せっかく話しかけられてもまともに相手が出来なかったのは紛れもなく俺なので、白石さんが叫んだ内容に間違いはない。けど、やっぱりそんなふうに思ってたのかと思うと落胆した。


「…それは…俺、が」


俺が勇気を出せないやつだから、度胸のないやつだから。という言い訳すら口ごもってしまう俺は、何の決意をして彼女を追いかけてきたのだ。言わなきゃ、と改めて息を吸った時、白石さんのほうが先に言った。


「…ごめん…わたし」
「え?」
「わたし、最低だね」


頭の中には疑問符が浮かぶ。これまで一度も白石さんの事を「最低」なんて感じたことは無いからだ。それなのに白石さんは顔を伏せた。


「ごめんなさい」
「!? え、なんで?何」


おまけに頭を下げられた。謝るのは俺のほうなんじゃないのか。


「轟くんが人見知りで、話すの苦手だって知ってるのに。ひどい事言った」
「……」


たぶんさっきの、「話しかけても相手してくれない」と言った事について?
白石さんが話しかけてくれた時、俺は一応その声に反応している。顔を上げたり、心の中で返事をしたり、口パクで返事をしたり、でもそれでは不十分だと分かってはいる。ので、謝られるような事では無いはず。


「朝とか、みんなには分からないようにこっそり挨拶し合ったりして、そういうの…勝手に楽しくなってて…最初はそれで良かったのに」


どき、と恋の音が、振動が身体に響く。白石さんが俺との挨拶を楽しいと感じてくれていたなんて。不謹慎ながら嬉しいと感じてしまった。


「ごめんね」
「あ…謝らなくていい、っていうか俺が」
「でも私、轟くんと仲良くなりたい。それはまだ変わらないから、…」


白石さんの言葉が途切れた。理由はすぐに分かった。さっきまで泣きそうな顔で話していた白石さんの目に、とうとう涙が浮かんでいたから。


「…だから私の事も、友達にして…」


絞り出すように言ったあと、ぽたぽたと地面に涙が落ちていく。
泣き顔を見てしまった後ろめたさと、自分が原因なのだという罪悪感と、周りを歩く薬師高校の生徒がちらちら見ているお陰で俺もパニックだ。


「えっと…ここ…道端だから」
「ひっく、うん。ごめん、」


とにかく人目の無いところに行かないと、白石さんにとってもきっと良くない。この時間は部活をしていない生徒はほとんど下校しているはずだ。学校内に戻ったほうが良いかも知れない。


「こっち」


白石さんの腕を掴んで(予想よりも細くてびっくりした)、学校の裏口まで回って門をくぐる。こっち側は不便だから生徒の出入りも少なく、予想どおり誰もいない。
万が一誰かが来ても見えないように端に寄ったところで、白石さんが息を切らしながら口を開いた。


「……轟くん、私もういいから」
「白石さん!」
「へ、」


恐らく初めて俺が言葉を遮ったので、白石さんは涙が引っ込んだかも知れない。


「俺もごめん、なさい」
「…?え、なに」
「俺…俺は…いっぱいある。謝る事が」


白石さんに向けて申し訳ないと思っていることは山のように溜まっている。しかし、白石さんも俺が何を謝るのか見当が付いていないのか首を傾げた。


「最初の日、ちゃんと返事できなかった事。そっから席替えしたあとも、口パクばっかでちゃんと挨拶できてない事。あと練習、観に来てくれたお礼言ってない事と、あと…とりあえず全部ごめんなさい」
「ぜ、全部?」
「ごめんなさい!」


謝りたいこと全部を詰め込むには、言葉だけでは物足りない。だから気持ちを表すために思い切り頭を下げたところ、白石さんがぎょっとして後ずさりする足が見えた。あれ、このまま逃げられてしまうかなと思ったが再び足は近付いてきた。


「…轟くん、顔あげて…」
「ん!」
「わあっ」


今度は思い切り顔を上げたせいで、白石さんはまたもや後ずさりしていた。やばい、落ち着かないと。胸に手を当てて深呼吸してみると、白石さんがなだめるように言った。


「…轟くんが謝る事なんか無いよ。私のほうこそ我儘でごめん」
「わがままなんか…」


我儘なのは俺のほうだ。話しかけて貰える嬉しさをちゃんと表現せずに、「そんなの嘘だ」って決めつけて傷つけた。にも関わらず許してもらいたいと思っている。それに、更にお願いをしようと思ってる。


「…と…えーと…」
「ん?」


そのお願いは、なかなか口に出すのが難しい。何度も何度も心の中では念じていた事だけど、本人を目の前にすると一気にすくみ上がってしまう。でも、ここで話すのを諦めてはこれまでの俺と変わらない。真田先輩に約束したのだ、ボールをちゃんと投げてくると。


「俺も、白石さんと…友達に…なりたい、です」


決してスムーズに話せたわけではない。でも言えた。言いたかった事、ちゃんと言えたぞ俺は。ボールは投げた。投げ返されるボールを待て、そして、落ち着いてキャッチしろ。


「…ほんとに?」


白石さんは目が渇くのではないかと心配になるほど、大きく目を開いて言った。
今のは紛れもなく本当のことだ。だから俺はうん、と頷いてみせた。それでも白石さんはにわかに信じられないらしい。


「ほんとう?」
「う…ん」


今度は声に出して肯定した。まだ白石さんは受け入れられていない様子で、でも一歩俺に近づいた。


「ほんとなの!?」
「うっ、ん」


ずいっと近寄ってきた白石さんに圧倒されてしまったが、なんとかウンと声に出した。
白石さんは乾いた目を潤すためか現実を受け入れるためか瞬きを繰り返し、やがて大きく息を吸う。あ、何か言われる。と思った途端に彼女の両手が俺の手をぎゅううと握った。


「よかったああぁ」
「うわっ!?白石さ、ちょっ」
「嫌われたと思ってた…」


安堵したように笑う顔、最高に可愛い。俺の手を持ったままぶんぶん振り回す白石さんの両手のひら、超すべすべしてる。こんな子、嫌いになれと言うほうが難しい。


「き…嫌いじゃな…い、です」
「うん…ありがとう」
「ていうか…ええと…えー…と」


嫌いじゃないのは当然だ。むしろ白石さんの事が好きで、俺は恋してる。それも三島のおかげで 自覚出来ていた。
でもきっと叶わないんだろうなと思っていたから何も言わなかった。真田先輩が白石さんに親切にするのを見ても、俺とこの人は違うから、俺には無理だからと思っていたから。


「やっぱり友達、嫌かも」
「え」


友達では嫌だ足りない、と白石さんを見ると、彼女はショックを受けた顔をしていた。やばい言い方を間違えた。


「…私なにか悪い事…」
「ちが…違う違う違ッ、う」


慌てて否定してしまい、げほげほとむせてしまう。白石さんが「大丈夫?」とティッシュをくれるのを制して、話を続けた。


「友達じゃなくて…友達じゃないやつに…なりたい」
「…友達じゃないやつ?」
「ん」
「それって何…?」


伝わらない。白石さんは首をかしげて俺を見ている。ここから先は更に言いにくいのだが。


「あの…友達より…上のやつ」


これなら分かるだろうと白石さんを見ると、目と口とを開いて言葉を失っている。やっと伝わったかという安心感と羞恥心に襲われたが、白石さんがまたまた疑問形で言った。


「…親友って事?」
「んぐっ…違、違う…」
「違うの!?何?」


本当に、言わなきゃ分からないらしい。でもさすがに言葉で言うのは恥ずかしい。言いたいけれど言えない事を伝えられる方法はひとつ、口を動かす事だった。
俺は四文字の言葉をゆっくりゆっくり口を動かし、白石さんに向けて言った。白石さんは俺の口元を注意深く見ながら何を言っているのか復唱していく。


「こ、い、び、と…?」


白石さんの読唇は正解だった。ごくりと唾を飲み込む俺、そんな俺を未だぽかんと口を開けたまま見つめる白石さん。成功した。伝わった。ついに伝わってしまった。


「…に、なりたいの…?」
「うん」


俺は再び唾を飲み込んだ。絶え間なく口の中に唾液が溢れてくるのだ。打席に立って初めての投手と目が合った時も同じようになる。
白石さんは暫くだまっていたけど、やがて、俯きながら首を振った。


「……それは、無理だよ」
「えっ」


もちろん上手くいくとは思っていなかった。叶う確率の方が低かったと思う。けど、あまりに悲しそうに言われたもんだから俺がなにか悪い事をしているみたいだ。全身の骨が抜けたみたいにへにゃへにゃな気分になり、地面を見つめるしかなかった。


「ごめん…」
「無理に決まってるじゃん、そんな大事なこと口パクで終わらせるなんて」
「え、」


いつの間にか俯いていた白石さんが顔を上げ、じっと俺を睨むみたいに強い眼差しで見ていた。


「ちゃんと言ってよ」


頭の中で真田先輩の声がこだました。来るボールを待つだけでは駄目なのだと。
そうか、俺は一度ボールを投げただけで満足してしまっていたのだ。どきどきが速まっていく。これ以上速くなられたらコントロールが狂ってしまいそうだ、ただでさえ野球も会話もノーコンなのに。


「…白石さ…ん」
「はい」
「俺、俺と、ですね」


白石さんは目を逸らさずに俺を見ていた。俺の口元じゃなくて、目を。


「俺と…俺の…俺、あー」


俺が「俺と」と言うたびに白石さんは「うん」と相槌を打ってくれた。何を言うのか分かってるんだ。それが余計に俺の緊張を煽っていき、ついに声が出なくなった。やばいどうしよう。


(がんばれ)


その時、白石さんが口を動かした。がんばれ、の四文字を読み取った俺が瞬きすると白石さんはもう一度言った(がんばれ)と、口パクで。
ここまでされて言えないなんて男じゃないよな、いくら多くのホームランを打ったって、たったひとりの女の子に気持ちを伝えられないようでは。

ぎゅっと唇を噛んで、開いて息を吸い、もう一度口を閉じ、ふうぅと吐く。それを何度も繰り返してやっと、息と同時に声を吐いた。


「…コイビトになってください」


言ったあとは暫く時間が止まったような気分だった。周りから音が消えたみたいに静かになって、白石さんが表情を変えずに立っているから。でも、やがて白石さんが息を吸った。


「なる」


そして、その二文字だけ言うと白石さんが歯を見せて笑った。
今のって幻聴?これは幻覚?先程とは違う意味で頭が真っ白になる。とりあえず確認しなくては。なる、ってそういう意味でいいのかどうか。


「…まじ、すか」
「マジ!なりたい!なろう」
「なり、なろ」
「嬉しい」
「うれ」


ただでさえ舌が回らないのに壊れたオーディオみたいな音しか出なくなり、白石さんが俺の両手を握りしめたことですべての動きが停止した。
手、熱い。つるつる。すべすべ、気持ちいい。俺を見上げる白石さんの目はうるうる、きらきら、とてもきれいだ。瞳の中に閉じ込められてしまいそう。
実際、白石さんの瞳にうつる俺はそこに閉じ込められているようだった。幸せ者め。

白石さんは握った手にこれでもかっていうほど握力を込めた。全然痛くはないけど、何か伝えようとしてるのかなと感じる。


「……白石さん、?」
「轟くん」
「は、はい」
「今だけ、口パクしたい」
「え?お、おう、どうぞ」


白石さんのほうから口パクしたいだなんてよっぽど言いにくい事でもあるんだろうか。
白石さんは一度ふうと大きく息を吐き、しばらく息を止めた。次に口が開くのはいつだろう、と口元をじっと見る。と、鼻から息を吸った彼女はゆっくり口を動かした。


(す・き)


形づくられたのはたったの二文字だったように思う。二文字って、少なくないか?続きがもしかしてあるのかも?だってもし続きが無いんだったから今のって、「好き」の二文字になってしまう。白石さんが俺のこと、好き。いや、この流れで「嫌い」と言われることは無いだろうと思うけれども好きって、現実?


「す……っき!?」
「や!?ちょ、口パクの意味ないじゃん恥ずかしいんだから!」
「あ、ごめ」
「もー」


せっかく声を出さずに発された言葉を復唱してしまったせいで、白石さんは顔を真っ赤にして慌てていた。白石さんでもこんなふうに恥ずかしがったり、言いにくい事があるもんなんだ。まるで俺みたいに。


「…わたし、口パク以外で言えるように練習しとくから…」
「う、うん」


ごくりと喉が鳴る。白石さんのすべすべの手に再び力がこもる。 俺も肩に力が入る。お互いにガッチガチだ。


「次は轟くんも言ってね」


口パクじゃなくて、ちゃんと言葉に出して。と白石さんが言ったけど、それもあまり聞こえて来なかった。彼女は話している途中で下を向いてしまったから。
でもそれだけで俺は満足だった。白石さんは俺のことが好き。俺と白石さんは今日から友達じゃなくて、友達よりも上の関係性を手に入れたのだ。
明日の朝からは声に出して挨拶しなくては、今後はもっと度胸の要ることを面と向かって言わなきゃならないんだから。

リップシンクは蜜の味.06
雷市くんの話はこれにておしまいです。読んでくださりありがとうございました