08


日曜日の朝はついつい寝坊しがちだ。日曜日に限らず土曜日だって、仕事が無い日はだらだら起きてとりあえず洗濯機を回し、気が向いたら買い物に行く程度。ほとんど家で過ごす事が多い中、今日は珍しく出かける事になっていた。新しい服を買わなければならないのだ。


『あと5分くらいです』


携帯電話にメッセージが入ると、どきりと肩が上がってしまう。
実は今日、買い物をする予定であると赤葦さんに電話で伝えたところ「出てくるついでにちょっと会いませんか?」と誘いを受けたのだ。服の試着を見られたりするのは恥ずかしいので買い物は早々に済ませてしまい、買ったものを駅のコインロッカーに預けてから待ち合わせ場所へと向かった。

「お待ちしてます」と返信し、駅ビル内のベンチに腰掛ける。吹き抜けになっているここには大きなクリスマスツリーが飾られていた。ツリーの前ではファミリーやカップルが記念写真を撮っている。いいなあ、私も赤葦さんとああいう写真を撮ってみたい。


「お待たせです」
「うぅわあっ」


急に後ろから赤葦さんの声がしたもんで、ベンチをがたがたっと揺らしてしまった。おまけに変な声が出た。なんたって、たった今「赤葦さんとああいう写真撮りたいな」と妄想していたところだったのだ。


「あ、赤葦さんっ」
「びっくりしすぎじゃないですか?」
「だだだって、あと5分くらいって言ってたじゃないですか」
「そうですね、びっくりさせようかと思って」


この人、あまりサプライズとか興味が無さそうなのに今まで何度私を驚かして来たんだろう。「あと5分」というのは真っ赤な嘘だったらしい。きっと待ち合わせ場所に私が居るのを確認してから送ってきたに違いない。


「お買い物は?」
「あ、もう済ませちゃったんで…ロッカーに預けてきました」
「なるほど」


と、言いながら赤葦さんは一旦ベンチに腰を下ろした。私の隣に。でも微妙な距離が開いている、これって何の距離だろう。


「大変ですね、いきなり制服じゃなくなるなんて」


赤葦さんは特に距離を気にしていないらしく、普通に仕事の話を振ってきた。
そう、赤葦さんの言うように私は制服勤務では無くなった。正確に言えば受付に座る時は制服があるんだけど、秘書課は特に制服が無く、いわゆるオフィスカジュアルなのである。来客時にはジャケットを羽織ったり、日によってはきちんとスーツを着たりもする。その「オフィスカジュアル」な服をあまり持っていなかったので、今日は買い物に来たのだった。


「赤葦さんが背中押してくれたから、新しい事に挑戦しようって思えたんで…」


でも服が無いとか自信が無いとか、色んな不安はあったけれども最終的には人事の木村さんに「やります」と伝える事が出来た。ひとりではきっと決められなかったはず。


「それはよかったです」


赤葦さんは柔らかく笑って、ぽんと膝を叩くと立ち上がった。
改めて全身を見ると、すらっとしているのにガリガリって訳でもなくて、何より着飾っていないのに様になっている。デニムにシャツにダウン、ってだけなのに。


「ちょっと歩きますか?」
「…そうですね」
「じゃあどうぞ」


と、赤葦さんが私に手を差し出した。応じるかどうか悩んだけど、拒否するわけはない。
赤葦さんの手にゆっくり自分の手を乗せると、優しく引っ張って私を立ち上がらせてくれた。ベンチから立つ時に男性にエスコートされる日が来るとは。


「手、冷たいですね」


そのまま私の手を握って歩き出した赤葦さんが言った。こんなに顔は熱いのに、冷え性だから手は冷たいのだ。


「…す…すみません…」
「いいですよ。もしかして体調悪くないですよね?」
「それはないです、平気です」


むしろ体調が悪くたって、赤葦さんの誘いなら這ってでも来る。迷惑だろうけど。
赤葦さんは「なら良かった」と言うと、少しだけ手に力を込めた。どきんと身体が強ばって、握り返すべきなのか混乱する。もしかして偶然力が入っただけで、「ギュッてされた」のは私の勘違いかも知れないしどうしよう。


「…赤葦さん」
「はい」


ひとりであれこれ考えるよりも、赤葦さんに聞いてしまおう。今、どういうつもりなのかを。


「…今は…仕事モード…ですか?」


でも直球で聞く勇気は出ず、このような聞き方となる。仕事モードなら手を繋ぐはずは無い。でも私の事を本気で誘って、強引にでもどうにかしたいという雰囲気でも無い。今日は少し会うだけの約束だし、夜は約束があるらしいので一緒にお酒を飲む予定も無い。
この間の彼が仕事モードを外していたとしたら、今日は?


「…半分」
「半分…」
「外すと敬語が抜けてしまうので」


もっと他にも理由がありそうな言い方だった。私にとっては浮かれてしまうような理由かも知れない。赤葦さんのこれまでの言動からすると、もうそうとしか考えられないのだ。


「抜いていいですよ、赤葦さんのが年上じゃないですか」
「そうですけど…」
「敬語で話されると私も緊張しちゃうんで、是非もうタメ口で」


そう言うと、赤葦さんはこくりと頷いた。ただでさえ赤葦さんと居ると緊張するので、フランクな感じで接してもらえると有難い。赤葦さんは彼自身の中で「切り替え」を行ったのか、少し咳払いをして言った。


「…じゃあ白石さんも、仕事モード外してくれるよね?」


ぴく、と今度は私が手に力を込めてしまった。そのタイミングで赤葦さんが私を見下ろしてくる。


「……わ…私は」


私は、それを外してしまったら、もう恋の奈落に真っ逆さまだ。それが良い事なのか悪い事なのか判別できない。でも落ちたいか落ちたくないかと言えば、その奈落のどん底まで落ちてしまいたい。
けどそんな事言えるわけもなく、言葉に詰まっていると赤葦さんがくすりと笑うのが聞こえた。


「緊張してるの」
「…する、に決まってますよね」
「どうして?」
「どうしてって…」


そんなの決まっているし、理由なんて分かっているくせに。ずるい。でも素敵な人だった。どうすれば私が赤葦さんに惹かれるのか、すべて計算しているかのようだ。


「…俺も実は、すげえ緊張してるよ。白石さんの会社に行く時はいつも」
「え?」


でもそこで予想外のことを言われた。うちの会社に来る時にいつも緊張している、と。全然そんなふうには見えないのに。
赤葦さんはその「緊張」を取り払うかのように、ふうぅと大きな息を吐いた。


「だって白石さんとこの山田さん、めちゃくちゃ怖いから」
「ぶっ」
「え、怖くない?」
「いや、怖いですよ。怖いです…でも、厳しいけどちゃんとした人だと思います」


いつも赤葦さんが尋ねてくる山田部長は厳しくて有名だ。あまり笑った顔は見たことがない。自分にも部下にも上司にも厳しいけれど、そのぶん業績をあげている。悪い話も聞かないし仕事はとてもしっかりこなす人だと聞くので、社員からの信頼は厚いのだと思う。


「あの人と喋ると、自分がまだまだ未熟なんだって分かるし…そう思われないように気を張るのが疲れる。すごく」


赤葦さんの手がじんわり汗ばんできた。もしかして山田部長のことを考えると、今この時でも緊張してしまうのだろうか。


「…そうだったんですね」
「うん」


この人が仕事の悩みを持っているなんて思いもしなかった。スーツを着れば完璧に見えるのに。元々落ち着いた顔と立ち振る舞いのせいなのかも知れない。


「俺いつだったかノート忘れたよね、椅子のところに」
「あ…ああ、はい」
「あの中、すっげえ色んなこと書いてあって…マナーの事とか色々、商品の事とか方針とかめちゃくちゃに書き込んでた。きったない字で」


私が初めて赤葦さんを見かけた日、山田部長が空くまで受付前のソファに座ってもらっていた。やがて彼を7階へ送り出した時、ノートが一冊置きっぱなしになっていたのだ。中身は見ずに返したけれど、そんな事が書かれてたのか。だからめちゃくちゃ慌ててたのか、私がノートを持っていた時。


「あの日、俺緊張してたんだ。初めてひとりで山田さんに会う日だったから」


山田部長は見た目からして40歳過ぎ、赤葦さんよりも10年以上は長く生きている。つまり10年以上社会人経験が長い。
同じ会社の私でも緊張する相手だし(数える程しか会話したことは無いけど)、赤葦さんも同じように緊張していたのだ。


「だから正直、億劫だなって思ってた。早く終われって」
「……そうなんですね…」
「でもその日に初めて、白石さんに会った」


受付で名刺を見せてもらった時に初めて私たちは出会った。こんなに若い人がひとりで山田部長を尋ねてくるなんてなあ、とは思った記憶がある。


「最初は何も思わなかったんだけど。自分の事でいっぱいだったから…でも、なんていうか…」
「なんていうか…?」


湿ったままの赤葦さんの手が、再びぎゅっと握られた。


「白石さんの顔見たら癒された」


何を言われたのか分からなくて、私はまた赤葦さんの顔を見上げる。その瞬間にどきりとした。赤葦さんが今までで一番嬉しそうな顔をしているのだ。


「…わたし…?」
「緊張がほぐれたっていうか」
「……」
「頑張ろうって思えたっていうか」


歩いていたはずの私達はいつの間にか立ち止まっていた。そして、いつの間にかビルのフロアを一周していた。再び大きなクリスマスツリーの前に到着し、隣を並んで歩いていた彼と私が向かい合っている。


「…俺が何言いたいか分かる?」


真正面から赤葦さんが問いかけてきた。私だって馬鹿じゃない。何を言いたいのかよくよく理解出来た。信じられないけど、赤葦さんは知らないあいだに私の事をそんなふうに思ってくれてたんだ。


「あの、」
「うん」


でも今の私には、すぐに答えを出す事ができなかった。赤葦さんの事が好き。だけどやっぱり突然過ぎて頭がついて行かないのと、今は仕事の事が手一杯だ。いきなり彼氏が出来ても上手くやれる自身はない。たぶん私はそこまで器用じゃない。


「…もうちょっと…ゆっくり考えても大丈夫ですか」


落ち着いて考える時間と、仕事に慣れる時間が欲しい。普通、そんな理由で待たせるなんて「ふざけるな」と思われるかもしれないけど。


「……うん。ごめんね」
「いや…」
「白石さんも新しい部署に挑戦するところだし、忙しいと思うから」


赤葦さんは握っていた手を離した。が、視線は合わせたまま離さない。


「…でも俺はまた会いに行くから。白石さんに」
「…はい、」
「あと山田さんに」
「ふっ」


こんなところでユーモアをぶっ込んでくる赤葦さんは完全に私の心を掴んでしまった。ちゃんと秘書課の仕事を覚えて、心の余裕を作って、そしたら赤葦さんに私の気持ちも伝えよう。それまで少しだけ待ってもらおう。


「私、ちゃんと考えますから。またこうやって会ってもらえませんか」


そう聞くと、赤葦さんは「俺からもお願いします」と少しだけはにかんだ。ああ素敵だ、でも浮かれるにはまだ早い。
赤葦さんと会うたびに仕事のモチベーションが増していく。何もかも上手く行きそうな気がする。環境が変わる不安も乗り越えられそうな気がする。だからまずは気を引き締めて、新しい仕事を覚えなくては。

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり