07


あの夜、赤葦さんは私の手をぎゅっと握って言った。「違う会社に働く者ではなく、それ以上の関係になりたい」と。

あれって夢ではなくて現実だよね?と、土日をまるまる使って考えてみても疑問は解決しなかった。赤葦さんは私よりも3つ年上で、どこからどう見ても仕事も出来るエリートだ。そんな人が、しがない受付嬢の私に好意を持ってくれるなんて信じられない。

結局あの日はまともな返答を出来ないままお別れし、『急に変な事言ってごめんなさい』という彼からのメッセージに『大丈夫です、おやすみなさい』と味気ない返事をするのみで終わってしまった。

私だって出来る事ならだれかと付き合いたい。間もなく訪れるクリスマスを小躍りしながら待つ里香さんのように、恋人に渡すプレゼントをあれこれ選びたい。最近妊娠が発覚した秘書課の宮村さんのように、素敵な人と結婚をして赤ちゃんを産みたい。

でも私には私にふさわしい…と言えば失礼だけど、「大人しくて地味だけどいい人」みたいな人が現れるものと思っていたのに。


「白石さん、内線」


月曜日の夕方、私宛の内線が来た。電話に出てくれた里香さんからの転送を受けてみると、8階から。ああ、そういえば人事の人が私に用事があると言っていたような、いなかったような。


「代わりました白石です」
『お疲れ様です木村です!今から8階でお話できますか?金曜にお話ししようとした件で』


そうだった、金曜日の退勤間際に人事の木村さんから電話が来たのだ。あの時は赤葦さんに会うために急いでいたので、断って退社させてもらったのだった。


「かしこまりました、8階向かいます」
『お待ちしてますー』


電話を切って里香さんに離席する旨を伝え、念のためメモ帳を持って8階へと上がった。人事の人から私に用事ってなんだろう。そういえば金曜日、「クビだったりして」なんて里香さんと話したのを思い出した。
びくびくしながら8階に到着し、エレベーターの扉が開く。と、目の前には既に木村さんが待機していた。


「白石さん!お久しぶりです木村ですーお元気ですか?こっちにどうぞ」
「は、はい」


電話の時も思ったがこの男性、とにかくテンションが高いし話すスピードが速い。しかし緊張している身としては、強面の人が来るよりも気が楽だった。

応接室らしきところに通されてしまい(今はこの部屋しか空いていないらしい)、しかも奥のほうに座るよう促されて、うまい断り方が分からずそのままソファに腰掛ける。この待遇はいったい何だ。やっぱり首を切られてしまう、その前兆か。


「急に呼び出してすみませんね」
「いえいえ」
「突然なんですけど、部署異動って興味あります?」


ところが退職を覚悟していた私の耳に飛び込んできたのは、「異動」という単語であった。思いもよらぬ言葉だったもので目をぱちくりとしてしまい、木村さんは豪快に笑った。


「…どの部署…ですか?」
「まあそうですよね、部署によりますよね」


木村さんはテーブルに置かれた卓上カレンダーを手に取った。間もなく終わってしまう今年分と、来年のカレンダーの両方をめくりながら話を続ける。


「実は秘書課の方が1名、半年後から産休予定だったんですけど…妊娠してからの体調が思わしくないみたいで。休職される事になったんです」
「…はい」
「あと、ちょっとタイミング悪かったんですけど…他の1名も、FA制度使って企画部に異動予定で。言ってしまえば秘書課がちょっとピンチなんです」
「…と、いいますと」


これは木村さんが早口なせいではなく、単に色んな情報が一気に入ってきたもんだから頭が追いつかないのだ。
つまり秘書課から人が2人抜ける。あそこは元々大所帯の部署ではないので、一気に2人居なくなったら大変そうだ。と、言うことは。


「白石さん、秘書課への異動に興味ありませんか?」


そこまで話して、木村さんはやっと話の本題であろう質問を振ってきた。


「秘書課…」
「まだ若いし、白石さんはこれから色んなこと覚えていける時期だから。経験としてどうかなと思いまして」


私が、秘書課。テレビドラマに出てくるきれいなOLは決まって秘書課だ。
黒やネイビーの地味なスーツでも小物使いで華やかに決めて、時にはベージュやストライプのスーツ、すそがフリルのマーメイドスカート、そんな華やかな服装で、底が赤いピンヒールを鳴らして歩く。

…というのが「秘書課」のイメージ。かなり偏っているのは分かっているが、とにかく私にとっては憧れでもあり、遠い存在でもある。


「……か、考えます」
「ですよね、すぐは難しいですよねえ」
「すみません」
「いいえ。今週中でどうですか?」
「わかりました…」


今日は月曜日。金曜日までに考えなくては。もしも私が受付から抜ける事になった場合、受付には里香さんだけになってしまう。その時は派遣スタッフを雇うか、比較的人が足りている部署の女性を選出するらしい。

「秘書課」という響きはとても美しいものだった。その響きだけに憧れて、大学の時に秘書検定2級の資格までは取ってある。仕事のできる女性、社会進出した女性というイメージだけど、果たして私に出来るのか。





悩んでも悩んでも答えは出なかった。やりたい。けど、出来るかどうか自信が無い。相談できる人が居なくてどうしようかと思っていた時、頭に浮かんだのは赤葦さんだった。

しかし赤葦さんは違う会社の人。私がどの部署に行こうが関係ない。しかも金曜日にあんな事があったんだし…でもこういうことを話せるのはあの人しか居ない気がして、携帯電話を手に取った。

時間は既に23時を過ぎている、かなり非常識な時間帯だ。でもこのままでは気になって寝られない。赤葦さんを巻き込むことは最低だと思いつつも、電話帳から「赤葦京治」の名前を表示させた。


『もしもし』


電話を鳴らすと、赤葦さんは3コール目で応答した。声は落ち着いている。もしかして寝る前だったかもしれない。


「あっ、もしもし…白石です。遅くに本当にごめんなさい…いま大丈夫ですか?」
『だいじょぶですけど…?』


こんな時間にも関わらず、しかも突然電話したにも関わらず承諾してくれた事でとりあえず緊張はほぐれた。赤葦さんの声にリラックス効果でもあるのだろうか。


「……あのう、大した用事はなかったんですけど」
『はい』
「あ、いや、でも暇つぶしって訳でもないんですけど」
『大丈夫ですよ、俺も暇なんで』


本当に暇なのかな、寝るところだったりして。私だって普段ならそろそろ布団に入ろうかという時間帯だ、観たいテレビがあれば少々夜更かしするけど。
しかし「大した用事じゃない」なんてつい言ってしまったが、私にとってはとても大した用事なのだった。


『なにかお悩みですか?』


私がなかなか話さないのを不思議に思ったのか、赤葦さんが優しく聞いてくれた。


「…どうして分かったんですか」
『なんとなく』


私の声、そんなに暗かったかな。でも話を聞いてくれるというので、申し訳ないとは思いつつも今日の事を話し始めた。


「今日、人事の人に呼ばれたんです。秘書課の人が2人減っちゃうから、秘書課になりませんかって」
『秘書課…』


赤葦さんは復唱したが、そのあとは何も言わなかった。でも今の私の言葉だけで、大体の内容は把握してくれたらしい。


『…で、どうするか悩んでるんですね』
「はい…」
『白石さんはどうしたいんですか?』


まず私の意見を聞かれてしまい、ぎくりとする。いきなり聞かれるとは思わなかった。でも実は、私の中ではなんとなく答えは決まっているのだ。ひとりで決めて進むのが不安なだけで。


「…やってみたいです」
『じゃあやりましょうよ』
「でも、私に出来るかなっていうのが心配でして…」


私に秘書としての仕事が務まるのかなんて皆目見当もつかない。
そもそも秘書課ってどんな仕事をしているんだろう。「秘書」と言うくらいだから社員のスケジュール管理やいろんな事があるんだろうけど、受付なんかより相当責任が重そうだし、ややこしそうだ。失敗したら大変な事になってしまいそう。


『俺の意見、ズバッと言っちゃってもいいですか』


赤葦さんが咳払いをしながら言った。いったい何を言われるんだろう。「甘えんな」というお説教だったりして。赤葦さんに説教なんてされたら立ち直れない。けど。


「お、お願いします」
『はい』


再び電話口でごほんと咳払いする声。そして赤葦さんは私の煮え切らない雰囲気を、その言葉どおりにズバッと切った。


『俺は正直、挑戦すればいいと思いますよ。白石さんの会社ってけっこう大きいですよね?』
「…はい」
『と言う事は白石さんと同じ年齢の女性社員もそれなりに居るんですよね?』
「…はい、支社組も居ますが」
『その中でどうして、白石さんが声を掛けられたんでしょうね?』


その質問に答えられなかったので、一度しんと静まり返った。
何で私が声を掛けられたかって、何でだろう。若さのおかげで新しいことを覚えるのが早いから、とか?でも本社勤務の若い人は他にも居るし。


「…どうして、でしょう」
『白石さんに魅力があるからだと思いますけど』
「みっ!?」
『変な意味じゃなくて、ですよ』


魅力が?私に?そんなものあるなんて考えたことも無かった。けど、赤葦さんはそんなふうに思っていくれているのだろうか。それとも私を励ますためだけの言葉か。
言葉に詰まっていると、赤葦さんは気付かぬうちに熱くなっていたのか、申し訳なさそうに言った。


『……なんかすみません。』
「いや…」
『でもほんと、俺の意見なんかより自分の意思を優先してくださいね』
「……」


私の意見は、やってみたい、という事だ。赤葦さんも「とりあえずやってみろ」という意見。
やりたいけど出来るかな、とひとりで悩んでいた時よりも決意が固まってきた。


「ありがとうございます。なんか、赤葦さんに言われたら…やる気がわいてきました」


赤葦さんのような仕事のできるサラリーマンに言われると、何だかやれそうな気がする。気休めだとしても。


『日々のお返しです』


赤葦さんは元の落ち着いた声色に戻って言った。


「お返し?」
『はい』
「私、何かしましたっけ…」
『それはまた今度、お話します』
「…?はい」


私から赤葦さんに何かをあげた記憶はないのだが。いつも受付で7階までの案内をしているから?それくらいしか浮かばない。
しかしこのまま悩んでいてもどんどん時間が経ってしまうし、今度話してくれるのを待つ事にしよう。


「…あの、急に電話しちゃってすみませんでした」
『気にしないでください』
「じゃあこれで…」
『あ、ちょっと待って』


しかし電話を終えようとすると、突然赤葦さんが早口で引き止めた。


『せっかくなんで、あと1分待てますか』
「え?」
『1分だけ付き合ってください』


なぜたったの1分なんだろう。ちらりと時計を見てみると、間もなく0時を超えてしまいそうだ。


「私は大丈夫ですけど…赤葦さんも明日仕事ですよね」
『そうですね…』
「あ。明日はうちの会社来られますか?」


もし来てくれるなら、朝の目覚まし時計を止めたあとも布団の中でダラダラせずにちゃんと起きて、寝癖を念入りに直さなきゃ。お化粧も手を抜かずにしなきゃならない。


『気になります?』


けれども赤葦さんはしっかりとした答えを教えてくれなかった。まるでこのやり取りを楽しんでいるかのように。
質問に質問で返されるとは思わなくて、私は思わずどもってしまった。


「え、いや…えっと」
『明日は残念ですけど、行く用事が無いんですよね』
「…そうなんですか」


なんだ、来ないのか。残念だ。


『今、残念だなって思いました?』
「え…」


おかしい、私いま、「残念だ」って声に出したっけ?出してないよね。どうしてバレちゃったんだろう。もしかして赤葦さん、もう私の気持ちに気付いてしまってる?それは困る、いや困らないけど、どうしよう。
またもや無言で言葉に詰まっていると、赤葦さんが言った。


『あ。1分経ちました。午前0時です』
「え?ああ…」
『12月5日になりました』
「ですね」
『俺の誕生日です』
「ええっ!?おめで…えっ?嘘」


誕生日!?今日?時計を見ると0時ちょうどになっている。壁にかけたカレンダーに目をやると、日付が変わって確かに12月5日。


「お、おめでとうございます」
『ありがとうございます』


そうか、誕生日が来るから「1分だけ待って」と言ったのか。
確かに誕生日をひとりで迎えるのは少し寂しい。私はここ数年、ずっとひとりで過ごしているけど。むしろ諦めて寝ているけど。

でも赤葦さんの誕生日、一番最初に「おめでとう」と伝える事ができたのは嬉しい。赤葦さんもちょっとだけ笑ったのが聞こえて、私も顔が見えないのをいい事に思い切りニヤけている。

そのニヤニヤを頑張って落ち着かせたところで、今度こそ切らなければお互い明日の仕事に差し支えるということで電話はそろそろ終わる事になった。


『遅くまで長引かせてごめんなさい。白石さんの声で誕生日迎えたかったんで』
「え…?」
『じゃあ、またお電話しますね』


ちょっと待って、今、とても嬉しい事を言われたような気がする。でももう一回言ってくださいと伝えることも出来ず。


「……おやすみなさい」
『おやすみなさい』


赤葦さんの優しい声で寝る前の挨拶を言ってもらい、そのまま電話は終わってしまった。
ああ赤葦さんにすごく会いたくなっちゃったのに、明日は会社に来てくれないなんて。

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり