06


普段よりも少しだけ早起きをして、少しだけ丁寧に髪を巻いてみたり、メイクを変えてみたり、新しいストッキングをはいてみたり。女性のルーチンをいとも簡単に変えてしまうもの、それが恋心っていうやつだ。

今日はいよいよ金曜日。いつもいつも「早く週末になれ」と思っているけど今週は特にそうだった。

月曜日の夜、赤葦さんと電話をしてから今日までとても長く感じられた。しかも彼は、あれから私たちの会社を訪ねてきていない。電話もあれっきり一度もしていない。
あれ、今日ほんとうに約束したんだよねと不安になりつつも1日の仕事をこなしていたが、昼休みにやっと待ち合わせについての連絡が来たのでほっとした。

そして定時まで間もなく、という時。こっそりと帰り支度をしていた私は電話を取り遅れ、里香さんが先に「受付の平井です」と受話器を取った。


「白石さんにだって」
「私ですか?」
「人事の木村さんから」


人事部の木村さん。どんな人だったかなと考えてみるが全く思い出せない。人事部の人とは採用の時にしか顔を合せなかったしな、社内イベントも私はあまり積極的に参加していないし。そう思いながらも保留を解除し、通話を開始した。


「お電話代わりました白石です」
『白石さん!退勤前にすみません』
「いいえ…」
『少し話せますか?8階で』
「え」


電話ではなく、わざわざ8階に呼ばれて直接話すなんて何の用だろうか。
話をする事自体は構わないのだが、今日はこのあと赤葦さんと約束をしている。化粧直しもしなきゃならないし(それが女心ってやつだ)、正直言ってとても嫌だ。
私が即答しないので、木村さんもなんとなく察したようだった。


『あ、予定ありました?』
「えっと…すみません。ちょっと約束が…あ、でも緊急でしたら伺います」
『大丈夫ですよ、月曜にしましょう』
「ありがとうございます…」


空気の読める人でよかった、と胸をなでおろす。どんな用件かは分からないけど月曜日に話を聞いて、引き受けられる事なら出来る限り受けようと思いつつ電話を切った。


「なんだった?」
「分かんないです…クビだったりして」
「あはは、ないない」


里香さんは笑いながら手を振っていた。クビは冗談にしても、もしかしてあまり良い話じゃなかったらどうしよう。

しかしそんな心配事はすぐに忘れてしまった、なんたって今から赤葦さんとの約束があるんだから。
一足先にパソコンをシャットダウンして、もう少し残る様子の里香さんに声をかけた。


「お先です」
「はい、また週明けに〜」
「はーい」


更衣室に向かう私の足取りは、踊るように軽い。着替える時にストッキングを伝線させないように気を付けないと。あとはトイレに行って化粧直しをするのを忘れずに。
一応鞄の中もきれいに整頓して、財布の中身も確認して…ああもう、やる事がたくさんだ。





お手洗いでひととおり自分の顔はチェックした。変な所は無いはずだ、生まれ持っての骨格などを除いては。
マフラーを買った日に見つけた新作のリップグロスもついにデビューさせてしまった。ただ晩ご飯を食べに行くだけのに気合を入れ過ぎだろうか?でも、社会人が仕事終わりにご飯に誘うなんて、やっぱりそういう意味合いがあるんだろうか。あるんだよね。無いのかな?考えすぎ?

こんなことは初めてなので全く見当もつかない。しかも赤葦さんは、見れば見るほど私とは釣り合わないような仕事のできるエリートだ。
もしかして私から、会社の情報をうまく聞き出す予定だったりして…なんてこった。浮かれずに気を引き締めて行こう。

などと変な事を考えるのはこのくらいにしておき、待ち合わせ場所である繁華街に到着した。互いの会社の中間地点にあるからだ。

待ち合わせ時刻までは残り数分。赤葦さんはまだ来ていないみたいで、私は目印の看板の下に立っておいた。


「白石さん…ですか?」
「あ、赤葦さん」


そのまた数分後、赤葦さんは到着した。素晴らしいオンタイムである。しかし少し急いで来てくれたのか、息が上がっているようだった。
今日の赤葦さんは鮮やかなネイビーのスーツがとてもよく似合っていて、これきっとオーダースーツなんだろうな、と頭を過ぎる。


「お仕事お疲れ様です」
「お互い様ですよ。ごめんなさい、寒かったですよね…別の場所にすればよかった」
「いえいえ、大丈夫です」


確かに夜だし寒いけど、赤葦さんの顔を見たら少しだけ熱くなったから。なんて馬鹿みたいな事を言えるわけもなく。
赤葦さんは腕時計に目を落とし、時間を確認すると顔を上げながら言った。


「…じゃあ行きましょっか、予約してあるんで」
「よ、よやく!?」
「はい」


涼しい顔して頷いているけど、予約が必要なお店に連れていかれるとは思ってもいなかった。ふつうの居酒屋とかバルのようなところに行くものだと。
もしかして高層ビルの上の方にあるレストランとか、ホテルのレストランとか、割烹とか?そんなお店に堂々と入れるような身なりではない。ちんちくりんだ。どうしよう。


「あの、私、そんないいところに」
「あ、気にしないでください普通の店です。予約しておかないと俺が不安になっちゃうだけなんです」
「ええ、でも」
「仕事モード外してくださいね」


にこ、と擬音が聞こえてきそうな笑顔の赤葦さんは優しく言ってくれた。
仕事モードを外せって、言われても。外してしまったら私はもう、完璧にひとりの女としてあなたを見てしまうのですが。


「…じゃあ、あの…赤葦さんも外しちゃってください、仕事モード」


それに私だけ気を抜く事はできない。この人は取引先の人なのだから。


「…そうですね。外します」


赤葦さんはそう言って頷くと、行きましょう、と長い脚で歩き始めた。いつどのタイミングで外せばいいんだ、仕事モード。





歩いて5分かからないくらいの場所に、飲食店の並んでいる道があった。金曜日なのでそこそこ人は多いけれど、チェーン店ではなくて少し特徴的でお洒落なお店が多い。ぎょっとしたけどメニューを見れば高額という訳ではなかったので、ひとまず安心した。


「お酒飲めますか?」
「えーと、はい。普通です」
「よかった」


よかった、て事は赤葦さんも飲むのだろう。初めて一緒に飲む人なので酔いすぎないように度数が低いお酒を頼んでおいた。赤葦さんは聞いたことのない名前のワインでも頼むのかと思いきや、「生で」と注文していた。意外と普通である。


「今日は来てくれてありがとうございます」


ひととおり食事が届いたころに、赤葦さんがお礼を言ってくれた。ちょうどお酒を口に含んだところだったので急いで飲み込み首を振る。危うく口の端からお酒が出そうになった。


「いいですよそんな、暇なんで私」
「そうなんですか?」
「そうです。チョー暇です」
「チョーがつくほど暇なんだ」
「あはは…」


お恥ずかしい。だって土日は本当にチョー暇なのだから。なんとなく新しい服を買おうかなと思って外出し、結局何も買わずに帰宅して、昼寝をしたら気づけば夕方になっている。
華々しい女子の休日とは程遠い。お洒落な写真なんてここ何ヶ月も撮影していない。

自分の女子力の低さを嘆いていると、赤葦さんはビールジョッキを空にしてお代わりを注文した。思ったより豪快だ。


「…白石さん、このあいだ受付の仕事で悩んでましたよね」
「え」
「あれからどうですか?」


彼はビールたったの二杯では酔わないらしい。ぶれない瞳で真っ直ぐ見られてしまい、やましい事なんか無いのに目を逸らしてしまった。


「…あれから特に、致命的な事はないんで大丈夫です」
「そうですか」
「赤葦さんに他人のフリされたのが一番致命的でした」
「ふっ」


いきなり吹き出した赤葦さんは、がたんと机に腕が当たって「いて」と呟いた。そして顔はまだ笑ったまま肩を揺らせた。


「あの時の顔、すげえ良かったです」


スローモーションで見ているかのような綺麗な笑顔だ、その笑顔の理由があの時の私の間抜けな顔だというのを除けば素晴らしいのに。


「……そ、そんなにですか」
「いや馬鹿にしてるわけじゃないんです、ほんとに俺のツボに入っちゃっただけで」
「はあ」
「ごめんなさい」
「だ、だいじょぶです」


相当私の顔がおかしかったらしい。だって何度も言うけど、いつも通りに話しかけた相手がいきなり他人の振りをしてきたら誰だって焦ってしまうもの。

赤葦さんのお代わりがテーブルに到着し、私ももう少しなにか食べようかなと食事のメニューに手を伸ばす。と、赤葦さんもちょうどメニューを取ろうとしたらしく指先が少し触れてしまった。


「!」


反射的に手を引っ込める。あ、いまの、大げさだっただろうか?


「すみませ…」
「白石さん」


名前を呼ばれてびくりと身体が反応する。私が顔を上げる前に、メニューを取ろうとしていたはずの彼の手は私の手を取った。


「あ、え」


思いのほか分厚い手が、私の薄っぺらくて仕事の出来なさそうな手を握る。あたたかい。大きい。そして、力強い。力を込めて握っているのだ。どうしてだ。


「……この…手は…あの…いったい」
「俺、今から仕事モード外します」
「えっ?」


てっきり既に彼の「仕事モード」は外れていると思っていたのに。戸惑う私に構う事なく、赤葦さんはもう片方の手も私の手に乗せた。

抗うことを許されなくなった私の力無い右手を赤葦さんの両手が優しく包み込んで、時折ぎゅうと握られたり指を一本一本なぞったり。あれっ、彼は酔っているのかな。


「あ…赤葦さん」
「何?」


赤葦さんはすぐに返事をしたので、まだまだ酔ってはいないらしい。良いのか悪いのか。だってこんなの、とてもじゃないけど平静さを保っていられない。


「…こういうの、よくないと思います」
「どうして」
「わ、私たち…違う会社の人間だし、」


そうだ、私はしがない受付の女。赤葦さんは他社の、仕事のできるサラリーマン。こんな個室のお店で手と手を取り合うような間柄ではないはずだ。


「…そうですね。違う会社の社員同士」


彼は年齢だって上だし、落ち着いているしお洒落だし。私と赤葦さんは何もかも違う。違うんだから。私がちょっと憧れているだけで、絶対そんなの違うんだ。


「それでも今日誘ったって事は、それ以上の関係になりたいって事なんだけど」


赤葦さんの指が私の指へ絡められていく。逃げられない。逃げたいの?分からない。


「……伝わってなかった?」


こんなにすごい勢いで事が進むのは初めてだ。胸がドキドキときめく暇など与えられず、私はただただ赤葦さんの瞳に目を奪われていた。

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり