05


「なにボーっとしてるの?」


里香さんの声ではっと我に返った。無意識のうちに違う事を考えていたようだ。だんだんとキーボードを打つ手がかじかんできて、手を止めて会社のロビーを歩いていく人を眺めていただけなのに。知らないうちにあの人が通っていないか、やって来ないかと考えてしまっていた。
あの日一度だけ電話をしたきり互いに連絡をする事もなく、ここ一週間は会っていないのに。


「すみません…」
「いいのいいの、今日暇だもんね」
「…ほんと里香さん好きです。」
「いやーん」


隣に座る里香さんは可愛らしく笑ってみせると、またディスプレイに視線を戻した。
かなりご機嫌の様子だ、彼氏と上手くいっているのかな。来月はクリスマスだからどこかにデートに行くんだろうか。
また仕事とは別の事に考えを巡らせていると、里香さんがびくりと揺らせた。


「うわ!」
「え?」
「秘書課の宮村さん知ってる?見て」


手招きされたので椅子をスライドさせ、里香さんの開いた画面を覗く。社内メールで周知されている中に、秘書課の宮村さんが半年後から産休、育休に入る事が書かれていた。確かこの人は里香さんの同期だ。


「先越されたかー」
「宮村さん、結婚されてたんですね」
「そそそ。社外の人と。旦那さん超イケメンだよ」
「わあ」
「いいなあ結婚…」


溜息とともに里香さんが言った。里香さんは28歳で新しい恋人ができたばかり。いずれはその人と結婚したいと思っているに違いない。
私も学生のころなんかは、漠然と「25歳くらいで結婚したいな」なんて考えていた。気付けば私は24歳、彼氏なし・彼氏候補もなし。25歳で結婚なんて夢のまた夢だ。


「彼氏さんとどうですか?」
「まあまあ順調だけどね。自分から結婚の話とかしづらいよねー…付き合い始めだし」
「そうですよね…」
「白石さんは良い人いないの?」


突然自分のことを質問されて言葉に詰まった。「良い人」って言われれば一人だけ、私が勝手に「いいな」と思っている人が居る。
でもその人は違う会社の、しかもうちと取引のある会社の人だ。そんな人と私的な付き合いをするのはどうなんだろう。

けれどもし許されるなら、相手も良いと言ってくれるならもっと親しくなってみたい。
清潔で、控えめな笑顔が素敵で、低いのに綺麗な声でいつもこんなふうに受付にやって来る人。


「こんにちは」


まさにその人がやって来た。赤葦京治、営業部の山田部長とここ最近打合せを重ねている人物。そして先週、私に名刺をくれた人物。


「あっ、」
「いらっしゃいませ」


私が挨拶を返す前に、里香さんがいつの間にか仕事モードに切り替わって挨拶をしていた。そりゃそうだ。


「赤葦と申しますが、営業部の山田様はいらっしゃいますか」


赤葦さんは先に挨拶を返した里香さんのほうへ用件を伝えた。
出遅れた。来ないかなあとずっと思っていたのに、と赤葦さんをちらりと見ると一瞬だけ目が合い、お辞儀をするとお辞儀を返された。しかし、それだけだ。

その後も私はそこに居るのに赤葦さんと里香さんとの間で話が進んでしまったのでどうにか一言、と最後に私は立ち上がった。


「あの、エレベーターまでご案内いたします!」


突然私が口を挟んだので、当然里香さんは「え」と小さく声に出ていた。ごめんなさい里香さん、あとで説明します。
赤葦さんもきょとんとした様子で私を見下ろし、数秒の間を置いたあとでとても丁寧にこう言った。


「いえ、お気遣いなく」
「え」
「では」


赤葦さんは軽くお辞儀をすると、ひとりでエレベーターへと向かってしまった。
まるで私と初対面で、仕事以外の関わりを持たない間柄であるかのように。


「……あれ…」
「知り合い?」


彼の姿が見えなくなったあと、腰を下ろしながら里香さんが言った。
私と赤葦さんは間違いなく知り合いだ。一緒にコーヒーを飲んで、奢ってもらったし、名刺をもらって電話もした、個人携帯の番号だって教えて貰った、はず。それなのに今の他人行儀な感じはいったい何だろう。


「…最近、ちょくちょく山田部長あてに来る人です」
「へえ、さすが大手だね。若そうなのにしっかりしてる人」
「……」


そのとおりで赤葦さんはとてもしっかりしている。社会人経験は私よりも長く、スーツを綺麗に着こなしている。時折はさむ冗談がシュールで面白い。知れば知るほど気になる人だ。つまり私は赤葦さんのことが、


「どしたの?」


里香さんの呼びかけで現実に引き戻された。今は仕事中だ。そして赤葦さんも仕事中。だからさっき、あのような態度だったのかもしれない。

「なんでもないです」と里香さんには答えたものの、すごくすごく気になってしまう。私、赤葦さんに何かしたのかな。気に障ってしまうことを。





「気のせいかな…」


帰宅してからも気になるのは赤葦さんの事だった。彼が帰る頃、私はちょうど別件対応をしていたので会えなかったのだ。
あの時少しよそよそしかったのは私の気のせいなのか、それとも本当に、何かしらの原因で嫌われてしまった?会社だから、里香さんの前だからあのような態度だったのだろうか。

気になって気になって、気休めにつけたテレビ番組の内容は全く頭に入らない。他のことに集中するため携帯ゲームでもやろうかなと携帯電話を手に取った時、ちょうど電話が震え始めた。


「わっ!?」


びっくりして机の上に携帯を落としてしまった。幸い壊れていないけど、いまだにバイブレーションが作動している。そして画面には「赤葦京治」と表示されていた。
赤葦さんからの電話である。出るか、出まいか。悩む必要なんてない、答えはひとつだ。


「……も、もしもし」
『あ、赤葦です』


電話口の赤葦さんの声は相変わらず、あまり表情の読み取れないトーンだった。
昼間のことをどう思っているのか、または全く気にしていないのか分からない。とりあえず挨拶だけでも、と私は声を発した。


「…こんばんは」
『こんばんは。…昼間のことですけど』
「えっ、」


赤葦さんのほうから今日の話を振ってきたので思わず身構える。片手で持っていた携帯電話にもう片方の手を添えて、次に聞こえる言葉を聞き逃さないよう耳を済ませた。


『びっくりしました?』
「……へ」
『俺、よそよそしい態度とっちゃって』
「あ…」


やはりあれは、気のせいでは無かったらしい。でもそれなら何故あんな態度を?と、過去の私の言動を振り返るも嫌われる原因は見当たらない。もしかして私は自分が思っている以上に無神経で、相手に嫌な思いをさせるタイプの人間なのか。


『まあ、わざとなんですけどね』


しかし、赤葦さんはあっけらかんとした声でこのように言った。わざと、…わざと?


「わざとだったんですか!?」
『どんな反応されるかなって思いまして』
「う、うそ」
『ほんとです。ごめんなさい。断られると思ってなかったでしょう、エレベーター』


赤葦さんの低くて、けれども聞き取りやすい声に柔らかみが増していく。もしかして笑っているのかな。
今日の昼間、エレベーターまで案内しますと申し出た時にまさか断られるとは予想もせず、私はその場に立ち尽くしてしまったのだった。


「…私、なにか失礼な事したのかと思ってました…」
『あ…すみません余計な気を遣わせて』
「いえ…」
『ちょっとやりすぎましたね』


ごめんなさい、と赤葦さんはもう一度謝罪をしてくれた。
何故わざとそんな態度を取ったのか!?という怒りがなかったと言えば嘘になる。でもそれよりも大きかったのは「よかった、嫌われていなかった」という安堵だった。今夜は気になって眠れないかも、と危惧していたから。


「…その事ですか?」
『え?』
「いま電話くださったのって」
『あー、はい。それもありますけど』


先程まで饒舌だった彼の喋りが、少しだけゆっくりになった。やがて声が聞こえなくなり、赤葦さんの部屋で流れているであろうテレビ番組の音だけが聞こえてくる。


「もしもし?」
『あ、すみません…えーと』


そう言って赤葦さんは咳払いをした。何か思い切ったことを言おうとしている?


『今からひとつ質問します』
「え?はい」
『けど、その答えは白石さんが正直に言ってくださって結構なので』
「…?はあ…」
『絶対に気を遣わないで答えると約束してください』
「え、え?」


またもや突然会話のペースが早くなり、その内容も私の予想からは大きく外れたものだったので相槌を打つのがやっとだ。


『いいですね?』
「わ、わかりました約束します」


とにかく今から赤葦さんが私に、なにかの質問をする。それに答えれば良いだけだ。嘘をつかずに正直に。

いつその質問が来るだろう、と黙って携帯電話を耳に押し当てる。聞こえてきたのは赤葦さんの咳払い、二度目。続けてかすれ気味の声で、やっとその質問が発せられた。


『…金曜の夜、時間くれませんか?』


ああ両手で携帯電話を持ってて良かった、またびっくりして机の上に落っことすところだった。

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり