04


せっかく新しいマフラーを買ったのに使うタイミングが無いまま数日間が経過した。ちょっと暖かくなってしまったのだ。
またすぐに寒くなるのだろうけど、こうも寒暖の差が激しいと体調を崩しかねないので通勤時間にはマスクを着用している。辞めようかな、どうしようかなと思っていた仕事だけれど体調不良で欠勤する事は避けたいのだ。
里香さんに迷惑がかかってしまうし、それに、赤葦さんは私がこの椅子に座っているのを「俺が座ってるより良い」なんて言ってくれたし。

なんの面白味も無い普通の人だと思っていた赤葦さんは、休みの日に偶然会った時には意外とユーモアのある人だった。
彼の時間つぶしに付き合ってしまった私だけど、あのあと誰と会ったんだろう。もしも彼女と会う予定だったなら、直前に私と過ごすはずは無い。友人や家族かな?気付けば赤葦さんの事ばかり考えている。

なんだか嫌な予感がした。これ以上大げさな事にならないよう抑えるべきだ。うちの会社の取引先の人なんだから。


「こんにちは」


どきん!と心臓が跳ねあがるが早いか、私はぱっと顔を上げた。耳ざわりのいい低い声で丁寧なあいさつ。赤葦さんが受付にやってきた。


「あ…かあし様」
「様なんて付けなくていいですよ」


あまり口角を上げずに笑う人だけど、彼から出ている雰囲気はとても穏やかだ。前回ここで会った時にはなんとも思わなかったのに、休みの日の出来事のおかげで変な感じがする。


「営業部の…山田ですよね」
「正解です。あ、名刺ちょっと待ってください」


赤葦さんは、前回・前々回と胸ポケットに入れていたはずの名刺入れが無いらしく鞄の中を漁り始めた。
来客がある時には名刺を拝見して、アポを取っている人物で間違いないかを確認しているんだけど赤葦さんはもう顔も名前も覚えてしまっている。一応名刺を見せてもらうルールだけれども特に必要はない。と、伝える前に赤葦さんは名刺入れを探し当てたようだ。


「どうぞ」
「ありがとうございます…あの、もう名刺は結構ですよ。覚えちゃいましたし」
「顔パスですか。テンション上がりますね」
「ぶふっ、」


意外な台詞に思わず吹き出した。しかも全くの無表情でそんな事言うもんだから。
隣に里香さんが居なくてよかった、と思いながら咳払いをして息を整えると、赤葦さんはそんな私の姿を見てちょっと笑っていた。恥ずかしい。


「…す…すみません。」
「だいじょぶです。こっちこそ仕事中にふざけてすみません」
「いえいえ…あ。山田は今空いてるようなので、ご案内しますね」
「ハイ」


エレベーターまですぐだけれども、彼はその道のりを知っているけれども、私の誘導で一緒にエレベーターまで歩いてくれた。
その最中も何か話を振ってくるのかなと思ったが何も言われない。仕事のことを考えているのだろうか。


「…ふう」


エレベーターの前まで来ると、赤葦さんが溜息をついた。


「どうしました?」


私は「上」のボタンを押しながら問いかける。すでにエレベーターは1階に降りてきていたようで、すぐに扉が開いた。


「なんでもないです…」


そう言って、赤葦さんはエレベーターに乗り込んだ。何かに緊張している?よく分からないけど先程までの穏やかな雰囲気が薄くなっていた。


「では、また」


無理もない、なんたって仕事中だからなあ。と思いながら私は一度中に入り7階のボタンを押して、エレベーターの外に出た。扉が閉まるまでのあいだ、頭を下げて彼を見送る。うーん、戻ってきたらもう一度様子を見てみようか。





一時間後、里香さんはそのあいだに一度戻って来たけれどもすぐにお昼に出てしまった。そのため赤葦さんが降りてきた頃にはまた私しかおらず、あれやこれやと仕事をしていて赤葦さんがこちらに向かってきている事になかなか気付けなかった。


「白石さん」
「あっ、」


がちゃがちゃっ、と思わず机の上に広げた物たちの音を鳴らしてしまう。赤葦さんに何かを聞こうとしていたような、何だったかな。
そうだ、エレベーターに乗る前にえらく緊張している雰囲気だったから、うちの山田部長と険悪な事になっているのか気になっていたのだ。


「赤葦さ…」
「あの、名刺なんですけど」
「へ」


私の声を遮って(または、彼には届いていなかったのかも)赤葦さんが言った。
そして胸ポケットから名刺入れを取り出すと中から一枚「赤葦京治」と書かれたものを私の前へ。赤葦さんの名刺である。


「これ渡しておきます」
「…もう名刺は無くても大丈夫ですよ…?」
「そうじゃなくて…」


一度は私に差し出した名刺を少し引っ込めて、赤葦さんは言葉を探しているようだった。今から彼自身の会社に戻るのなら、もう名刺を提示される必要は無い。
一枚の名刺を持ったまま、受付前で鼻をすする彼はやっぱりどこかがいつもと違う。大丈夫ですか?と声をかけようとした時、赤葦さんは再び名刺を私の前へ出した。


「これは、白石さんにあげます」
「…え?」


この名刺を私に、とは。名指しで渡されてしまったら断るわけにもいかず。反射的に受け取ると赤葦さんは満足したように笑った。
この名刺、どうしろというのだ。ファイルに閉じて保管しておけということか、それとも。

その時、赤葦さんの携帯電話が鳴った。私たち二人ともびくりと跳ねて、赤葦さんは携帯電話を取り出し画面を見ると更に飛び上がった。上司からのお電話のようだ。


「やべ、じゃあこれで…あ、それ営業の山田様には内緒ですからね」


そして早足で我が社のロビーを歩き、自動ドアをくぐると同時に電話に出たようだった。
「内緒ですからね」ということは、これは完全に、名刺は私に個人的な意味合いで渡されたということか?





「…どうしよう」


赤葦さんに貰った名刺のことについて一日中考えたけど、結局誰にも報告しないまま持ち帰ってしまった。これは私に内緒で渡されたものだから。仕事関係の人間としてではなく、男として?…と、いう意味だよね。違ったら相当恥ずかしい。

名刺には電話番号が書かれているので、一度電話をすべきかどうかとても迷う。赤葦さんがどういう意図でこれを渡してきたのかは置いておいて、「名刺をいただいた」事に変わりはない。


「無視するのも気まずいもんね…」


というのは言い訳で、私の心はもう決まっていた。赤葦さんと電話をしてみたい。ここに彼の番号が書いてあるんだもん。

押し間違えないように、何度も確認しながら携帯電話の番号を押していく。11ケタを入力したあともう一度誤りがないか確認して、深呼吸してから発信ボタンを押した。


『はい、赤葦です』
「!!」


呼び出し音が鳴り始めてすぐに赤葦さんが出たもんだから、びっくりして唾が気管に入ってしまった。電話を顔から離してげほげほと息を整える。落ち着け落ち着け、変なやつだと思われてしまう。


「あか、あの、白石、です」
『あ…白石さん』
「昼間はどうも…」
『こちらこそ。電話ありがとうございます』
「はい…」


どうしよう。赤葦さんは嬉しそうでもなく、残念そうでもなく、まして驚いてもいない。昼間どんな気持ちで私に名刺をくれたのだろう。変な期待を持って電話したことを知られたくなくて、私の舌はどんどん回り始めた。


「…えーと…特に用は無くて、名刺いただいたのに無視は良くないんでとりあえずご挨拶だけと…」
『あ、ちょっと待ってください』
「はい」
『いったん切ります』
「え」


ぶつっ、と私の返事を待たずして電話を切られてしまった。いや、確かに「切ります」と予告されたけれども。


「……なんだったんだ」


つーつー、と虚しい音が響く携帯電話を見つめながら考えてみても、いっこうに答えが出ない。割込み通話でも入ったのかな。このまま待っていたら折り返しの電話が来るのだろうか。来なかったら笑うしかない、やけ食いだ。

その時私の携帯電話がぷるると鳴り始めた。
赤葦さんからの折り返しかな、と思ったけれど画面には違う番号が表示されている。誰からの電話だろう。もしかしたら仕事関係かも知れないので、恐る恐る電話に出てみた。


「もしもし?」
『赤葦です』
「え?」


名刺に書かれたものとは違う電話番号から、赤葦さんの声が聞こえてきた。これはあの赤葦さんで間違いないのか。


「赤葦さん?番号…」
『さっきのは仕事用の番号なんで、次からこっちにお願いしますね』


少しの間が開く。さっきのは仕事用。さっきの、とは、名刺に書かれた電話番号?ということは彼の言うところの「こっち」は今まさに通話中の電話番号。


「……はい…?」
『じゃあ、今日はおやすみなさい』


そしてまた、私が返事をする前に電話が切れた。

つー、つー、と耳元で鳴る。その日はそれ以降電話が来ることはなかったけれど、それで良かった。次に赤葦さんから電話が来てもまともに会話ができない気がする。
だって私は今、赤葦さんの、プライベート用の電話番号を知ってしまったのだ!

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり