朝から晩まで野球の事ばかり考えられるのは幸せだ。ぎりぎり補習を回避できたテストの事も、突然サッカー部に恋人を作ったクラスメイトの事もその時だけは頭から切り離せるから。

春休みになるとあまり他の事へ意識を向ける余裕は無くなって、練習後には録画したセンバツの試合を観て過ごすだけ。
ささやかに出された春休みの宿題には手を付けていない、ペンを握ると誰かの顔が浮かんでしまうのだ。頭から離れない顔も声もあの時触れた指の冷たさも、全部野球のボールが消してくれればいいのに。なんて意味も無く筆箱を漁ると顔を出すのは、小さくて使いづらくなってしまった消しゴムだ。


「B組かあ」


始業式、青道高校の最高学年となり胸を張って登校できる記念の日。クラス分けの書かれた掲示板を見ると、素早く自分の名前を発見した亮介が言った。


「純の名前どこ?」
「B。」
「あ、一緒だね」


自分のクラスを確認して早々俺は掲示板から離れた。人混みになっているし、もうあそこから得られる有益な情報は無い。
しかし亮介はまだ何かあるんじゃないかとじっとB組の名簿を眺めていた。何を見ているのかは大体分かる。口には出さなくたって俺の気持ちが亮介には知られているんだろうし、俺だって亮介が少なからずそれについて興味を示している事に気付いていた。


「面白そうなクラスだね!」


亮介は本当に「面白い」と思っているのか分からない口調で言った。全くもって面白くないぞ、白石すみれも、その彼氏までもが同じクラスになってしまったと言うのに。


「あ、伊佐敷くんまた一緒だ」


新しい教室に入るやいなや声をかけてきたのは、白石では無い別の女子。よくよく考えれば去年も同じクラスだった生徒は何も白石だけではない。おう今年もよろしくな、と軽く答えて教室の奥までずんずん進み、席が正式に決まるまでの束の間だけでも窓際の確保を試みる。

が、その望みは砕け散った。窓際一番後ろとその前にはすでに、一番会いたくない男女が座っているのだ。


「あ、おはよ!伊佐敷くんもB組?」


気付かれないうちに遠くの席へ座ろうとしたが、残念ながら白石の反応のほうが早かった。
「伊佐敷くんもB組?」って事は、俺が今年も同じクラスになったのを今初めて知ったような口ぶりだ。実際そうなのだろう。俺がどのクラスに居ようが興味ないってか、そうですか。


「今年もよろしくー」
「ん。」


できれば長く会話をするのは避けておきたい。白石が気付いているのかは知らないが、彼氏とやらが「なぜ伊佐敷と仲良さげに話しているのか」と疑問を抱いているようだ。
俺たちは別に特別な関係では無いので必要最低限の返事をして、今度こそ対角線上の席へと移動した。つまり廊下側の一番前だ。自ら一番前の席に座るというリスクを負ってまで、あの二人が居る場所からは極力離れていたかった。


「これが1学期の席順でーす」


神様は残酷だ。いや、これは俺の日頃の行いを見てのご褒美なのか?そうだとしたら余計なお世話だ。
あろう事か白石はそのまま窓際の後ろからふたつめに待機、俺の席が窓際一番後ろつまり白石の真後ろになってしまったのだ。
サッカー部の彼氏は先ほど俺が座っていた対角線上。

担任の適当なくじ引きで決まったこの席順、恨めばいいのか喜べばいいのか分からない。
恨む理由はただひとつ、俺が必死に白石の事を何とも思っていないように振る舞おうと努力しているのに、目の前に白石の頭がある事だ。


「分かんないとこあったら言ってネ」


俺が席移動をしてきたとたんに白石がくるりと振り向いて言った。勉強で分からない箇所があったらまた教えるよという意味だ。

願ってもない申し出だが今こんな状況で言われたって素直にうんと頷けない。俺に教える気があるなら、他の奴には教えずに俺だけに教えろよという理不尽な気持ちが溢れてくる。前回の期末テスト、一度も俺に教えようとはしなかったくせに。

と、黒い感情が出てくるのは噛み殺しつつ、当たり触りの無い言葉をあれこれ探した。


「まあ気が向いたら言うわ…」
「うん。いつでも!」
「………」


どうして俺の目の前で、前と同じように笑う事ができるんだこの女は。それほどまでに俺の事なんか特別視していないという事か。しかしこの状況を離れた場所から見ているお前の恋人が、どんなふうに思っているのやら。
そんなことは知りもしないらしく、白石は開きっ放しの俺の筆箱からある物を発見して言った。


「あっ!ボール小さくなってる」


こいつがボールと呼んでいるものは紛れもなく俺の消しゴムだ。1年の時に買ったのにまだまだ持ちこたえている。かつて野球ボールの形をしていたそれは、既にかなり小さくなっていた。

床に転がり落ちたら見つけるのが大変そうなほど小さくなった消しゴムを見て、白石は思わず手に取りたくなったらしい。手のひらにのせてころころ転がし始めたではないか。
こんなの絶対よくないだろう、よくないよな、色んな意味で。特に俺の精神衛生の観点から見ると劣悪だ。


「もうお前、これ触るの禁止」
「…え?なんで」
「彼氏がいんのに俺とべらべら喋んじゃねーよって事」


彼氏のために止めろというのではなく、俺のためにどうか止めて欲しい。しかし白石は俺にそんなことを言われるなんて思いもしなかったのか、目をぱちくりと開いた。


「……だめ…かな」
「気分悪いだろ、あいつも俺も」
「伊佐敷くんも?」


白石と目を合わせるのは辛い。が、彼女は俺の席を振り向いているから逃れられない。こんな状況は最悪だと思わないか、俺の気持ちを知っているならきっと皆がそう思うに決まってる。


「わりーよ、すっげえ気分悪い」


これは本音であった。とてもじゃないけど耐えられない。
白石は俺の言葉を聞いて、ごめん、と小さく呟くと、いびつな野球ボールを机の上にころんと置いた。





「純、目ぇ真っ赤」


テーブルの上にかしゃんとペンが投げられると同時に、小湊亮介の集中力は切れてしまったようだ。ペンを投げたのは俺なので少々申し訳ないとは思ったものの、俺の目を「真っ赤」と笑われたので謝る気は失せた。


「…ぜんっぜん身が入らねえんだわ」
「まさか徹夜してんの?」
「するわけねえだろ」


間もなく一学期の中間テストが行われるが、テストのために徹夜なんて一度もした事がないし、きっとこれからも無い。
しかし俺がどうして目を真っ赤にして苦しんでいるのか、亮介には分かっているはずなのだ。亮介も同じクラスで、少なからず窓際の俺たちを目にしているんだから。


「哲に勉強見てもらったらいいのに」
「お前は教えてくれねえのかよ」
「見返りある?」
「あるかバーカ」
「白石さんには頼まないわけ?」


いいテンポで進んでいた会話がそこで止まる。頼めるものならとっくに頼んでいるところだ。けれどもそんなの出来るはずが無い。それにはふたつの理由がある、ひとつは俺の性格のせいだ。


「……さすがに俺でも頼まねえよこんな状況で」
「はは、だよね」
「彼氏と勉強会だろー、くっそ」


そしてもうひとつは言わずもがな、白石にはサッカー部の彼氏が居るんだから俺と勉強する暇などないと言うこと。亮介だって知っているくせにわざわざ聞いてくるなんて底意地の悪いやつめ。

白石はこのテスト中、仲のいい彼氏様の席まで行って一緒に勉強をしている。そんな姿を同じ教室内で見せつけられる拷問を味わったことがあるのか、こいつに。たった一人で窓際の一番後ろに座り、彼女が楽しそうに転がしていた野球ボールの消しゴムを使う俺の気持ちが分かるのか。分かってたまるか。


「…もう無くなるわコレ」


既に全く使いものにならない消しゴムが手の中にある。俺がこれにどれほどの愛着を持っているのか知らない亮介は、頬杖をつきながらけろりと言った。


「捨てたら?」
「は!?おま!物は大切にしろって習わなかったのかよ」
「大切にするのと無理やり最後まで使うのはちょっと違う気がするんだけど…」
「違わねえよ!」


思わず吼えてしまったが亮介の言うことのほうが正しい事くらい分かってる。これはもう「誤字を消し、正す」という役割をあまり果たせない。けど、白石が触った事のあるものだ。使わず捨てるなんて到底出来ない事だった。


「願掛けでもしてんの?」


そういうわけではないが、似たようなものかも知れない。これが筆箱に入っている限り、白石とふたりで勉強していた時の事を思い出すことが出来るのだ。思い出しても最終的には辛くなるだけなのに。まったく、自分の感情をコントロールするのが難しくて頭が痛い。


「おーい」


質問に答えない俺に亮介が声をかけてきたけど、力無く手を振ってみせると亮介はもう何も言わなかった。





約一週間後、無事にテストを終えた生徒たちは解放感で溢れていたが、返ってくる点数を心配する声も挙がっていた。

俺も勉強なんか得意でも好きでもないのであまり期待出来なかったが、今日返ってきた教科は全て平均点を超えていた。結局あのあと哲と一緒に勉強をしたお陰かも知れない。


「伊佐敷くん」


放課後、哲の顔を浮かべながら返ってきたテストを眺めていた時、久しぶりにこの声で名前を呼ばれた。そして、久しぶりに目の前に座る女子がこちらを振り向いていたので、しばらく返事するのを忘れていた。


「……何?」
「あ、いや…なんでもない。つい」
「つい?」
「テストどうだったって、聞こうかと…」


白石は俺と目を合わせた途端に下を向き、机の上を見ながら言った。そんなに俺の目が怖かったのか。
それよりもどうして白石が俺の成績なんか気にするんだ。そういう話は彼氏としろよ、とはさすがに言えず、俺も机の上を睨みながら言った。


「聞いてどうすんの」
「…どうするんだろね。考えてなかった」
「なんだそりゃ。平均くらいだよ」
「え!」


俯いていた白石が勢いよく顔を上げた。おかげで彼女の顔周りの髪がふわりと浮いて俺の意識を翻弄しようとする。その手には乗らないぞ、俺はお前のいかなる武器にも屈しない。ゆるく巻いた髪の毛も、柔らかそうな頬も薄い唇も何もかもサッカー部のあいつのための武器なんだろう、この野郎。


「えってなんだよ、失礼だなてめー」
「ご、ごめん…」
「俺が高得点とるのがそんなに珍しいわけ」


だから俺はわざと、白石に対してこんな態度を取ってしまう。これ以上、不必要に絡んでこられては俺の心がもたないからだ。なんとも情けない自衛の策なのであった。
白石は俺の物言いを「怒っている」と判断したのか、だんだんと眉を下げ始めた。


「ごめんね、また気分悪くさせちゃった」


そして、一度は上げたその顔を再び下げると、ゆっくりと前を向いた。

小さな背中を見ながら、これでいい、これでいいのだと自分に言い聞かせる。白石はすべての荷物をまとめて鞄に入れ立ち上がると、黙って教室から出ていった。

気分が悪い。過去に俺は確かにそう言い放った。だってあの時は本当に気分が悪かったのだ、同じ空間に恋人がいるのに明るい顔して俺に話しかけるなんて。それがどれほどの罪であるかを分からずに。
でも、今、久しぶりに話しかけてくれた相手に向かってあまりにも理不尽な態度を取ってしまった罪悪感はとても大きい。


「今のほうが気分悪いんですけど…」


その原因は自分自身なのだから、何を言っても仕方が無いのだけれども。


「へえ、よかったじゃん平均とれて」


練習着に着替えながらの会話はどの学年も、返ってきた中間テストの事だ。悪い点を取れば補習になってしまうので、全員それだけは避けるために最低限の勉強は頑張っている。
そんな中、無事に全科目(今時点で返ってきている科目は)平均点越えの俺に向けて亮介が感心したように言った。


「…ん。」
「嬉しくなさそうだね」
「べつに、つーかいちいち絡んでくんじゃねえよテストの事で!」
「テストじゃなくて白石さんの事で絡んでるつもりなんだけど」
「なお悪いだろ」
「えー」


亮介は全く悪びれる様子を見せない。俺が白石にどんな感情を抱いているかを知りながらこの対応なのだから、こいつの神経はバットのように太いに違いない。


「そういや白石さんとはまだケンアクなの?」


前言撤回、小湊亮介の神経は電柱並みの太さに違いない。


「…ケンアクって?話題もねえし特別仲良くもないし、彼氏の前で俺と喋ってちゃ誤解されるだろ」
「え」


亮介はスパイクの紐を結び直していた手を止めた。


「それ本気なの?」
「なんだよキモチワリーな」
「いや、あのー…」


そう言いながら再びゆっくりと紐を結んでゆく。「あのー」のあとに何を言うつもりなのか待っていたがなかなか出てこない。ついに続きを催促してやろうかと思った時、両足とも結び終えた亮介が立ち上がって言った。


「先週聞いた話なんだけど、白石さんたち別れたっぽいよ」


それ以上の詳細は残念ながら聞くことが出来なかった。準備を終えた亮介はさっさと更衣室を出ていってしまったのだ。
あいつ、タイミング狙ってやがったな。

アンチヒーローに憧れて/中