20171205


歩きながら考えているのは、昨晩必死に暗記した世界史の内容だ。片仮名の羅列はややこしくって覚えづらい、漢字ばかりの中国史よりはマシだけど。
今日は期末テストの中でもちょっぴり苦手な世界史のテストが行われる日。頭の中で歴史上の人物名を唱えてそろそろ問題なく覚えられたかなと思っていたところへ、その衝撃はやってきた。


「白石さんて、好きな人いるの?」


下駄箱で靴を履き替えている時に突然頭上から降ってきた、クラスメートの低い声。「白石さん」は間違いなく私の事だ。だって私の苗字は「白石」だし、彼は私の事をじっと見下ろして聞いていたのだから。


「……ナポレオン」


そして私は突然の事すぎて、昨夜から暗記しているヨーロッパ史の大物の名前を言ってしまった。私も彼もぽかんとして、ああ間違えた、と思った時にはもう遅く「渋いね」と苦笑いした赤葦くんが、先に教室へと向かっていった。

どうして赤葦くんは私に好きな人がいるのかなんて聞いたんだ。そして、どうして私はナポレオンと答えてしまったのだ。
ふたつの謎が解ける事は無く、悶々としたままテストを受けた結果はあまりいい出来とは言えなかった。


「白石さん、今時間ある?」


世界史、英語、現代文のテストを終えたあと。ホームルーム後に帰宅する生徒の波に紛れてやってきた赤葦くんは、私の前の席へと腰を下ろした。「時間ある?」っていうか「時間くれるよね」と問答無用で言われているような状態だ。

今日はテストも終わったし、あとは家に帰って明日のテスト勉強をするだけなので、特に忙しいわけではない。けれども赤葦くんが突然目の前に座って来るなんて初めてだし、今朝の事もあってちょっと気まずいし、出来ればさっさと帰りたいのが本音。


「…なにか用?」
「うん」


赤葦くんは頷いたけれどそれ以上は何も言わず、ずっとそこに座っていた。用があるなら早く言ってもらいたいのだが、じっと私を見たまま動かない。今朝変なことを聞かれてしまったから、なんだか恥ずかしい。


「……用ってなに?」
「もうちょっと待って」
「ええ?」
「帰る用意してていいから」


まったく意味がわからないけど、無言で見つめ合うのは嫌なので仕方なく彼の言うとおり、帰る用意を始める事にした。と言ってもテスト期間中だから机の中はほぼ空っぽで、筆箱と数冊のノート・教科書だけだ。すぐに荷造りが終わってしまい、また暇を持て余す事になってしまった。
が、突然赤葦くんが私の腕をぐっと掴んだことにより、その場の空気へ一気に緊張感が走る。


「ど、どしたの」
「今から言うよ」
「え?なに」
「用事」


手に力が込められた。男の子に片腕を拘束されてまで付き合わされる用事には心当たりが無い。しかし赤葦くんがとても普段どおりなので、これはもしや普通のことなのかと思えてきた。


「白石さん、好きな人居る?」


そして言われた言葉は今朝と同じものだった。そうか、この質問をしたかったから、教室から誰もいなくなるまで待っていたのか。
でも私たち、好きな人が居るかどうかを聞かれるほどの仲ではない。何の変哲もないクラスメートなのだ。…今朝まではそう思っていた。


「…居ないけど…なんで?」
「ナポレオンじゃないんだね」
「あ…あれはちょっと突然の事でびっくりして、っていうかどうしてそんな事」
「ちなみに俺は白石さん」


予想外の事に驚いて、身体全体がぴょこんと跳ねてしまった。赤葦くんはそれでも普段どおりの顔だ。あれ、私がおかしいの?そんなはずは無い。


「……なにそれ?」
「告白だよ。返事ちょうだい」
「え!?いやそんな急に言われても」
「白石さん俺と付き合うの無理?」
「む、無理かどうかそんなすぐに判断できないっていうか突然過ぎて意味が分からないっていうか」


赤葦くんの事は断じて嫌いではないが恋愛対象として見たことは無い。赤葦くんに限らず男子と遊んだり、自ら進んで喋ったりしないから。だから突然告白?をされてしまっても、付き合えるか付き合えないかの二択を迫られても判断できるわけがない。


「突然っていうわけでもないんだけど。俺は今日を狙ってたから」
「え…?」


どうしてわざわざ今日、期末テストの二日目を狙っていたのかさっぱり分からず首を傾げる。私の気をテストから逸らさせて点数を悪くしたいのか。


「今日、俺の誕生日なんだ」


しかし、予想もしない回答に気が抜ける。12月5日の今日が赤葦くんの誕生日なのだとカミングアウトを受けた。


「…それはおめでとう」
「ありがとう」
「それで…私に何の関係が」
「何って、どうせなら誕生日は好きな人と過ごしたいじゃん」
「そう…なの?」
「そうだよ」


さも当然といったように彼は言う。私にだってその気持ちは分かる。特別な日には特別な人と過ごしたい。一応私も女子だから、それを夢見た事はある。残念ながら彼氏どころか好きな人もなかなか出来ないので、叶ったことは無いけれど。

しかし、赤葦くんにとってのそれがこの私だなんて急に言われてもすぐには頭が追いつかない。それなのに彼はお構い無しで、私の腕を解放すると今度は手を握り始めたではないか。


「………あのー…この手は?」


私の右手が、赤葦くんの大きな両手に包まれている。じんわり温かいのは暖房のせいだろうか。ゆっくり手を引き抜こうとしてもぎゅうと力を込められてしまい、それを許されない。


「嫌?」


私の手を軽く握りながら赤葦くんが言った。指の一本一本を撫でているかのような彼の手つきは先程まで私を逃すまいと強力だったのに、今は驚くほどに柔らかい。


「嫌、じゃ、ないけど」
「よかった」
「だからって良いわけじゃ、」


もう一度引き抜こうとするとまたもや強い力で握られてしまった。
それどころか今度はその手を引っ張られて、体勢を崩した私は机の上に前のめりになる。赤葦くんも同じように身を乗り出してきた、私の顔のすぐそばまで。


「白石さんが良かったら付き合ってほしいんだけど」


おかげで顔と顔の距離は10センチ程しかないと言うのに、赤葦くんはこんな事を言い出した。いや、私と事を好きなのが本当なら、その次に「付き合ってほしい」と言う流れは理解できるのだ。ただ全てが急だしこんなに近いし、私の頭が理解するまで時間がかかっているだけで。


「……付き合うって」
「恋人になりませんかって事」


そう言いながら赤葦くんは、私の手をもう一度強く握った。きみを恋人にするまで離さない、頷くまでは許さない、とでも言うかのように。


「で、でも私…赤葦くんのことそんなふうに見た事ないし…ただのクラスメートとしか…」
「じゃあ、どうんなふうにすれば意識してくれる?」
「そんな事言われても」


もう既にいろんな意味で意識させられているのに「どうすれば意識してくれる?」なんて、わざと聞いているのかこの人。答えあぐねていると赤葦くんは更に身を乗り出してきて、私にぐっと顔を近付けた。


「こう?」


当然男の子の顔が目の前に来た、それだけでも大きな刺激なのに、いつの間にか片方の手が私の頬をすり抜けて首元へ。冷たい、と身震いすると赤葦くんは小さく笑った。


「…あか、あし、くん」
「まだ?じゃあ、」
「ちょっ、待」


私の制止など彼には届かなかった。赤葦くんの手は私の首の後ろにあてがわれて、そのままぐいっと彼自身のほうへ引き寄せられていく。
私の全体重をかけて阻止しても止まらない赤葦くんの手の力、すでに真ん前にある彼の顔。すべての条件が揃ってしまった今、あっさりと私たちは恋人たちが交わす事をしてしまった。


「……」


はじめてのキスは一瞬触れるだけの可愛らしいもの、だと勝手に想像していたけど。赤葦くんの唇は何秒間も私の呼吸を奪っていた。
やがてゆっくり唇が離れる時、潤っていた唇どうしがぷるんと揺れるのを感じて顔が赤くなる。今、キスした。キスされた。私のことを好きだという男の子に。


「…嫌がらないんだ」


未だ私との近い距離を保ったまま、赤葦くんは言った。


「だって…」


と、言い訳を考えるものの理由が浮かばない。嫌なら力ずくで、蹴り飛ばしたり投げ飛ばしたり頭突きをしてでも抵抗するはず。どうしてそれをしなかったんだろう。どうして今もこんなに近くで見つめあっているのだろう。考えても考えても分からなかった。


「…なんでだろ」
「何でだと思う?」


けれど赤葦くんは私を試すように、顔を覗き込んできた。
そんなこと言われても分からないもんは分からない。突然の告白と不意打ちのキスで思考停止しているから?そういう訳でもないと思う。「どうして?」自問しても意味は無い。
ついに目の前で私の瞳がゆらゆら揺れているのを見ておかしくなったらしく、赤葦くんが吹き出した。


「俺、白石さんへの戦術だったらナポレオンには負けないかも」


その言葉を最後に赤葦くんは立ち上がり、明日ね、と手を振ってみせた。

赤葦くんの足音が遠のいていく。机の横にかけたままだった鞄を取って、廊下まで進んでいく音がする。はやく出ていって、いや、行かないで、私のほんとうの気持ちはどっちなのだ。明日のテストが終わったらもう一度真意を聞いてみるべきか、それとも?

すでに彼の術中に嵌った私は頭の中から赤葦京治が離れない。今朝、下駄箱で会った時から仕組まれていたのだろうか。家でもずっとそんなことばかり考えて、テスト勉強なんて手につかなかった。やっぱりこれは赤葦くんの作戦だ、私をテストに集中させないための罠なんだ。そうでなきゃこんなの許されない。悪い点をとってしまったら赤葦くんのせいにしてやる。

Happy Birthday 1205