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この間うちの会社に来た人、帰り際にはいったい何を慌てていたんだろうか。
置き忘れたあのノートに社外秘の情報が入っていたとか?そうかもしれない、淡々としゃべって冷静に見えるのに結構な慌てっぷりだったからなあ。

しかし営業部の山田部長と言えば、あまり見かけることは無いけれど厳格な雰囲気の堅物な人だと聞く。今年の1月、新発式の挨拶も面白みがなかったなあなんて考えながらあの人と山田部長の打ち合わせがうまく終わっていますようにと祈っておいた。
若い人だったし、山田部長みたいな人と面と向かって個室でミーティングなんて可哀想に。


『転職 東京』


なんとなく携帯電話に打ち込んだのは上記の単語で、検索ボタンを押すと出るわ出るわ転職サイトがずらり。
私は今転職するかどうかに悩まされている。受付嬢の仕事が嫌なわけではない、が、誰かがすぐに私の代わりになれるような、そんな仕事よりも「あなただから任せたい」と言ってもらえるような仕事をしたいのだ。そんなことを言って貰えるほどのスキルは無いんだけれども。

適当にいくつかの仕事の詳細を見てみると、給料は高いけど経験が必要だったり資格が必要だったり、なにやら怪しかったり。
結局今の会社はわりと大きなところなので、土日祝の休みやその他福利厚生もしっかりしているため辞めるのも勇気が要る。

でも今、私と一緒に受付をしている女性、里香さんという人は28歳だ。私が入社した時にはもうひとり30歳の人が居たけれど、簿記の資格があるとかで経理に移動していった。
それを見て、ああ、もしかして「受付」ってずっとやっていけるような仕事じゃないのだろうか、とも思ってしまったのだ。


「おはようー」
「おはようございます」


結局新しい職探しをすることも無く、いつもどおりに出社して受付のデスクに腰を下ろした。
隣に座る受付の里香さんが「これ新作」と分けてくれたお菓子を口に入れて、美味しい今日も頑張ろう!と気合が入る私は簡単な女だと思う。


「白石さん、ご飯何時に行く?」
「えーと…」
「私、今から行ってもいいかな」


里香さんはちらりと視線を外しながら言った。わたしもちらりと見てみると、どうやら最近できたという恋人さんが立っている。イケメンだなあ、どの部署だろう。


「いいですよー、ぜひぜひ」
「ありがと!」


すると、跳ねるように立ち上がり財布を持って、里香さんは足取り軽く彼のもとへと歩いて行った。

そういえば先月、同期の飲み会があるとか言っていたっけ。里香さんの同期は支社に行った人も居れば、ここで総務部とか企画部に配属された人も居るんだったなあ、自分と違う仕事をしている人って魅力的に見えるのかも。
それに里香さんはどこからどう見ても綺麗なお姉さんで、まさに受付嬢になるべくしてなった人のような気がする。あの人は例え年齢を重ねたってこれが天職だろう。

私は里香さんみたいに顔だちが整っているわけじゃないし今は若さでカバーしているだけだな、と悲しい現実に浸りながらディスプレイに向かう。里香さんが戻ってきたら休憩に行こう、今日は何を食べようかな。


「あの」


突然降ってきた声で我に返る。いま私はここに一人だというのに、昼ごはんのメニューを考えて気の抜けた顔をしてしまっていた。


「はい!失礼しました」
「あ、いえ…」


立ち上がって挨拶をすると、その人は先日来社された若いサラリーマンだった。名前が思い出せないけれど、ノートを忘れて慌てていた人。


「あ、…この間の…」
「赤葦といいます」
「赤葦さん…様!申し訳ありません」
「いや、いいですよ」


そうだ、赤葦さんだ。珍しい名前だなと思ったのを覚えている。今日もまた、厳しくて顔が怖いので有名な山田部長との打ち合わせだろうか。


「本日は…?」
「営業部の山田様、いらっしゃいますか」
「山田ですね」


やっぱり山田部長だったので、前回同様山田部長がデスクに居るかどうかをパソコンで確認してみる。…しかし今は居ないようだ。


「……今は…離席中のようです」
「あれ」
「お約束されてましたよね」
「ええ、一応…」


眉が少し下がり気味になったので、間違いなく約束はしていたのだと思う。山田部長のスケジュールにも、この時間は来社対応と書かれているし。


「確認いたしますので、おかけになってお待ちください」
「分かりました」


受付前のソファにご案内して、さて部長は何をしているのかなと7階に内線をかけてみた。


「受付ですが、山田部長はいらっしゃいますか?」
『あ、今は…えー…会議室3に居るみたいです、別の来客が長引いてるみたい』
「そうですか…」
『様子見てきますね』
「あ、お願いします」


人によっては「会議が長引いてます。失礼します」とガチャ切りされてしまうんだけど、今電話に出てくれた人は親切だ。保留音を数分挟み、間もなく終わりそうだと返事があった。
間もなくってどのくらいだか分からないけど、ひとまず赤葦さんに伝えてみることにする。


「赤葦様、申し訳ありません…来客対応中のようでして」
「そうなんですね」
「まもなく終わるとの事なんですが、お時間は大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」


にこりと笑った赤葦さんの手には、先日のノートが開かれていた。やはり何か大事なことが書かれているんだろう。中身を見ないように頭を下げて一旦下がり、待ってもらうあいだにお茶を出す事にした。


「あのう、よろしければどうぞ」
「あ、ありがとうございます」


赤葦さんはわざわざ立ち上がってぺこりと頭を下げてくれたので、どうぞ座ってくださいと促すとゆっくり腰を下ろした。このあいだ新しく買った紅茶で、私と里香さんはお気に入りだけど赤葦さんはどうだろうか。


「紅茶、飲めますか?」
「はい。寒いんで助かります」
「…?よかったです」


今日はあんまり寒くないんだけど。寒がりなのかも。なんか繊細そうというか、神経質っぽい人だもんなあ…と、やや失礼なことを考えながらデスクに戻った。

それから5分ほどして、山田部長は前の来社対応が終わったらしく7階から連絡がきた。
赤葦さんは私の目の前で紅茶のカップを両手で持ち、そわそわしている。本当に寒いのか次の予定が押してしまうのを懸念しているのか。とにかく赤葦さんのもとへ行き、お詫びとともに声をかけた。


「大変お待たせいたしました…」
「いえいえ」


赤葦さんは鞄を持って立ち上がり、持っていたマグカップを私に差し出してくれた。熱々で出したのに、もう空っぽだ。それに感心していると、赤葦さんがエレベーターに向かおうと足を踏み出した直後で立ち止まった。


「どうされました…?」
「…いや、……」


そう言いながらゆっくりと振り返り、目を向けたのはソファの上だ。そこには何も置かれていない。続けて彼自身の鞄の中をごそごそ漁る。お目当てのものが見つかったらしく、赤葦さんはふうと息をついた。
このあいだのように、今日も何かを置きっぱなしにしていないかと心配だったようだ。


「…今日は大丈夫みたいです、ね」


私が声をかけると「みたいです」と言って彼はほんの少しだけ鼻を擦った。ちょっぴり恥ずかしかったらしい。


「エレベーターまでご案内…必要ですか?」


先日は断られてしまったので(無理やりお送りしたけれども)、恐る恐る声をかけてみる。
赤葦さんは一瞬だけ宙を見て考えたけれど、お願いします、と頷いた。

テンポ・ディ・ワルツの夢めぐり