自分がひとつの問題を解いていくのに他人よりも時間を要していることは分かっていた。あれがこうで、これがこうで、だからこうなるっていうのを瞬時に計算できない頭なのだ。数学も現代文もよく分からなくて自分が文系なのか理系なのかすら把握できていない。
とにかく受験には必須の科目だからという理由だけで机に向かっていたので、ただの作業として行われていた勉強に意味は無かった。


「伊佐敷くんのそれ、何?」


高校2年の10月のこと、テスト期間になると昼休みに勉強するしかない。朝は練習、放課後も練習、そのあとは疲れて勉強どころじゃないからだ。
仕方なく唯一リラックスできる昼休みを潰して、机の上にノートやプリントを出していると話しかけてきたのはクラスメートの女子である。


「どれ?あ、これ?」
「そそ。消しゴム?」
「そー」
「うわ、消しにくそう」


最初の会話は確かこんなのだった。白石は俺が使っていた野球ボールの形をした、つまり丸くて使いづらい、勉強には不向きな消しゴムを見て笑っていた。


「ずっとこれ使ってっから」
「いつから?」
「去年」
「なっが!」
「こういう時しか使わねーし」


授業中、誤字をしてしまってもぐしゃぐしゃ潰す・あるいは誤字に気付いても無視して書き続けるのがいつものこと。
テストに向けてノートをまとめている時やテスト本番、片岡監督に提出するノートくらいだろうか、きちんと消しゴムを利用するのは。だから去年から愛用しているこれはまだ原型を留めている、ただ丸いだけなので。
購入当初はペンケースの中でかなり邪魔だったけど今では良い具合におさまる程度になっていた。


「文房具にも野球を持ってくるとは」
「ちょっとでもそういうのが無いとすぐ投げだしちまうんだよ、悪かったな」
「なあーにそれ、お受験みたい」
「はあ?」


お受験って言えば幼稚園児とか、それ以下の子どもに使う言葉だろ。
と思ったが、勉強に集中させるために子どもの好きなものに関連付けた教材があるのを思い出し、自分もそれと似たり寄ったりな状態なのだと気づいた。


「伊佐敷くんは勉強苦手?」
「得意に見えんの?」
「ふっ」
「いま笑ったなお前」
「わ、笑ってない」


お察しのとおり俺は勉強が苦手だし大っ嫌いだ。しなくてもいいなら一生したくない。
いつか将来の役に立つなんてホントかよ、と思いつつも成績が落ちれば補習で部活に出られなくなる。それは嫌だから仕方なく、本当に仕方なく勉強をしているのだ。

だから昼休みにこうしてペンを走らせているわけだが、どうも集中できないで居た。白石すみれが俺の解いているプリントをじっと覗きこんでいるからだ。


「…気が散るんですけど。」
「あっ、ごめん…」


白石は前のめりにしていた身体を一瞬だけ起こしたものの、まだ目線はプリントの上で動く俺の手元にあるようだ。走り書きだから汚い字だし、見られるのは少し恥ずかしい。


「…まだ何か用?」


手を止めてから白石に尋ねると、今度は視線を泳がせた。言いたい事がありそうだ。黙りこくっているので「なんかあるなら言え」と顎で促すと白石はやっと口を開いた。


「あの…そこ間違ってる。問1」
「え」
「ついでに2も3も」
「うっそ」


なんと、昼休みの何分間かを費やしてせっかく解いた全ての問題が間違っていると指摘を受けた。授業のノートを見ながら解いたはずなのに、どこかで黒板の写し方を間違えただろうか。

大きなため息を吐く俺を見て、白石は机に転がる消しゴムを手に取り「野球ボールの出番だね」と差し出してきた。


「ちくしょー」
「伊佐敷くん、もし嫌じゃなかったらなんだけどさ。明日の昼、一緒に勉強する?」


がしがしと間違えた問題を消しながら、そんな声が聞こえてくる。消す事に集中していたせいで白石が何を言ったのか一瞬分からなかった。一緒に勉強するか、と聞かれている事に気付いたのは数秒の間をおいてから。


「……なんで?」


が、どうして俺と白石が一緒に勉強しなければならないのか皆目見当がつかない。特別仲の良いわけでも、悪い訳でも無いごく普通のクラスメートだ。
理由を聞くと、ずっと立ちっぱなしだった白石が俺の前の席に腰かけながら言った。


「私ね、小学校の先生になりたいの!人に教えるための勉強したいなって」
「小学生に教えるための練習台になれってか、高2の俺に向かって」
「ぶはは」


そう言われればそうか、と爆笑する白石に「馬鹿にしやがって」と言い放ったもののあまり馬鹿にされている感覚では無い。白石はひととおり笑ったあとでもう一度誘いの言葉を口にした。


「私も家の手伝い忙しくってさあ、夜はすぐ寝ちゃうんだよね。だから昼休みだけ一緒にやろ」
「……べつにいいけど…」
「分かんないとこは教えてあげる」


1学期、そして2学期の中間まで同じクラスに居れば、白石の成績が決して悪くない事くらいはなんとなく知っている。そのうえ教師を目指しているとなると勉強が得意である事に間違いない。

そして白石の実家は確か自営業で、手伝いの合間をぬって勉強しているにしては点数もいい。ということは要領が良い?それを俺にも教えてくれるならまあ、悪い話じゃないような気もする。


「…まあ、助かりますけども」


そんな感じで返答し、翌日から中間テストまでの数日間だけ、昼休みを利用しての勉強会が行われた。

その結果返ってきたテストはいつもよりか点数が良かったが、ほんの数日だけの勉強では劇的な変化は見受けられない。白石は俺の答案を見て「あーここ、そうかあ…」と恐らく自分の教え方を振り返っていた。チョー真面目なやつだ。


「ボール、ちっちゃくなってきた」


時は過ぎて12月上旬、すっかり冷えて体調管理が難しい時期になってきた。白石の言う「ボール」はもちろん俺の消しゴムだ、中間テストの時から比べると少し小さくなっている。

白石は俺が頼みもしないのに、期末テストの期間に入ると勝手に俺の席までやってきていた。
勝手に教科書やノートを開き、勝手に俺の苦手分野を考察し、勝手に教え方を考えて、勝手に説明を繰り広げる。相当な勝手を許しているわけだが彼女の勝手さは俺にとってのプラスになるので、何も言わずそれらを聞いた。

その勉強の合間に白石が気になっているのは、ボールがだんだん小さくなっている事についてだ。


「これ、最初はどのくらいの大きさだったの」
「さあ…これくらい?」
「でっか!よくここまで減らしたね」
「まだまだ使えるな」
「だねー。使い切るのが目標かな…あ」


白石の手がボール、というか消しゴムにこつんと当たってしまい、いびつながらも丸い形のそれはころころと机の上を転がってやがて床に落っこちた。

いくら小汚い消しゴムとは言え俺のものを落としてしまった白石は「ごめん」と椅子を引いて拾おうと屈みこむ。俺も椅子を引き、どのあたりに転がったのかと覗いてみると自分の足元で停止していた。


「いい」
「ごめん、私が」
「いいって…」


自分で拾おうかと身体を曲げて手を伸ばしたとき、消しゴムでは無い何かが指先に触れた。冷たい。思わず手を引っ込めたら白石も同時に手を引っ込めた、触ってしまったのは白石の指だ。


「………」


しばらくお互いの指に触れてしまった事を、互いの頭で整理するまで時間がかかった。その間も寂しそうに転がっているボールは放置されていたが、白石が先に手を伸ばしてそれを救出してくれた。


「次、体育だからもう行くね」


すごいスピードでボールを机の上に戻すと、白石は自分の物をかき集めて自身の席へ戻って行った。

机の上に筆記用具を置き、横にかけた体操服とシューズの入った袋を持って、「着替えにいこ!」と数名の女子とともに教室を出て行った。それもう慌ただしく。昼休憩はまだ、15分以上も残っているというのに。
それが期末テスト前の、最後の昼休みの出来事だった。

土日をはさんで月曜日からはテスト本番、なんだかよく分からない気分が抜けきらないまま問題を解き、そして、中間テストよりも良い点数をとることが出来たのだ。
それを白石に報告するのは、照れくさいから出来てないけど。





「久しぶりだな、純が俺に質問してくるなんて」


季節は変わり冬を越え、3月の上旬。3年生の卒業を悲しむ余裕も与えてくれずにテスト期間はやってきた。
俺が勉強について頼れるやつは同じ野球部の連中だけだ、その中でも一番まともなのが結城かなと思ったのでこうして質問をしに来たのである。


「…分かんねんだから質問するしかねえだろ」
「前回や前々回は自分で理解できたのか?」


教科書をめくりながら結城が言った。そういえば去年とか、この1学期もなにかと結城にアレがコレがと聞いていたんだっけ。それが途絶えたのは2学期の中間、白石が勉強に誘ってきたときだった。


「…自分じゃねーけど、まあ一緒に勉強してたやつが居て」
「誰?」


いつの間にか小湊亮介はそこに座っており、間髪入れずに質問してきた。こいつも勉強が出来るほうだけどかなりのスパルタだから避けていたのだ。


「そりゃ内緒だよ」
「白石さん?」
「知ってんのかよ」


2学期の中間・期末と毎度の昼休みを一緒に過ごしていたんだから、廊下から見られていたって不思議ではない。むしろよくリアルタイムで声をかけられなかったものだ。それだけは礼を言おうと思った。


「今回は白石さんに教えてもらわないんだ」


亮介は何も考えずに、または考えている事を俺に悟られないようにするためか、ずかずかと土足で踏み入ってきた。

その通りで3学期に入ってからというもの、白石は俺の席にやってこない。勉強しようと言ってこないし、ボールの減り具合も見に来ない。
顔を合わせれば「おはよう」「ばいばい」と挨拶は交わしているが、それは白石と親しくなる前の元の状態だ。まあ、あの勉強を通して「親しくなった」と認識していいのか知らないけど。


「…別に約束してるわけじゃねえから」
「ふううん…まあ彼女も忙しそうだもんねえ」


隣の机に体重をかけながら亮介は言う。白石は忙しそうだ。確かに忙しそうだった。両親が自営業だから家事を手伝ったり、犬の散歩をしたり、時には家が経営している店の店番をしたりするのだと聞いた。
でも、そのように忙しい時だってテスト前の昼休みには俺の席までやってきて、先生ごっこをしていたはずだ。


「…忙しい?何に?」


だから思わず聞いてしまった。俺の知らない多忙の理由があるんだったら仕方ないから受け入れようかと。
そうでなければ突然勉強会を放り出された身としては虚しくて仕方が無い。テストのたびに毎回勉強しようという約束をしていたわけじゃないけど、今回だって白石が俺に向けて、勝手な授業を開いてくれると思い込んでいたんだから。


「白石さん、先月くらいからサッカー部と付き合ってるもん」


しかし亮介の言ったその一言で、もう白石の個人授業は聞けなくなったのだと理解した。
付き合ってる男が居るのに、べつの男に向かって個人的に勉強を教えるなんてどう考えたっておかしいし、俺が彼氏ならそいつをぶん殴ってしまうと思う。じゃあ仕方ないか、そうだ、仕方ないことだ。


「…やっぱ、一人でやろっかな」


俺は教科書を閉じて、がたんと椅子を鳴らして立ち上がった。机を挟んだ向こう側に居るのが白石以外の人間であることが、すごく不思議に思えてしまった。
結城は「そうか」と、それ以上は何も言わない。亮介も何も言わない、それは有り難い。けど、ついでに俺の顔も見るなと言ってやりたい。

アンチヒーローに憧れて/前