01それなりの大学を出てそれなりの企業への就職、それなりに給料をもらいそれなりの生活。
大学を卒業してからの2年間、私はごくごく普通に働くオフィスレディと呼ばれる人間になっていた。けれども語学力に優れているとか機械に強いとか、ほかの人を凌ぐほど頭が良いわけではない。
配属されたのは商社ビル一階のデスクに向かって椅子に座っておく、来客があればご挨拶をする、といういわゆる受付嬢であった。
「お世話になります、竹田と申しますが」
「竹田様でいらっしゃいますね。ようこそお越しくださいました、お名刺拝見してもよろしいでしょうか?」
「あ、はいはい」
「受付嬢」と聞けば会社の顔だし華やかで女性ならあこがれる事かもしれない、私も最初はそうだった。
けれども毎日毎日同じ椅子に座り、「あいにく鈴木は席をはずしておりまして」だの「吉本様、お待ちしておりました」だの、よく知りもしないおじさんたちがやって来るのを上の階に通すだけという、誰でもできる仕事だ。
与えられた仕事として一応は頑張っているけど、もしも私が明日事故で死んじゃっても代わりはすぐに見つかりそうだなあと思ってしまう。
別の部署へ移動したい、または転職をしたい、キャリアアップをしたいと欲が出始めたのは今年の夏。けれども実際行動に移すのは難しく、秋の暮れの今日も私はこのデスクに座っているのだった。
「こんにちは」
入力業務を行っていた時に挨拶をされて顔を上げると、いつの間にか受付の前に人が立っていた。
「あっ、申し訳ありません…」
集中すると周りが見えなくなるのは悪い癖だなあと慌てて立ち上がり、その人に頭を下げる。相手もいえいえ、とぺこりとお辞儀をしてくれた。
若い人だ。と言っても私よりは年上だろう、落ち着いた雰囲気で濃い青のスーツがよく似合っている。スーツもお洒落に着こなしている人って素敵だよなと考えながら、どのようなご用件でしょうかと声をかけた。
「営業部の山田様、いらっしゃいますか」
「山田ですね…失礼ですが、お約束はされていらっしゃいますか?」
「はい、赤葦と申します」
「あか…申し訳ありません…?」
時々あるのだ、名前を聞き取れないことが。ただ滑舌の悪い人もいるけれど難しい苗字の人も居るし。この人は聞き取りやすい声なのできっと後者だろう。
胸ポケットに入れていた名刺入れから一枚名刺を取り出して、赤葦です、と言いながら名刺を差し出された。珍しい苗字だ。
「失礼いたしました、お掛けになってお待ちください」
「ありがとうございます」
名刺を返却し、7階にある営業部へ内線。呼び出し音を聞きながらパソコンで山田部長の本日のスケジュールを表示させると、問題なく社内に居る様子だ。
14時からは「打ち合わせ」と入っているのできっと赤葦さんとの打ち合わせだろう、と考えていると7階と電話がつながった。
「受付の白石ですが、山田部長あてに赤葦様がお見えになっています」
『山田部長ですね、少々お待ちくださーい』
その後は保留にされることなく、恐らく手で受話器を抑えているのか『部長、赤葦さんいらしたそうですよー』と呼びかける声が聞こえた。
部長は赤葦さんと予定通り会うようなので電話を切り、受付すぐ前のソファに座る赤葦さんのもとへ。
「お待たせいたしました、エレベーターまでご案内します」
「いや、いいですよ。あっちですよね」
「えっ、あ、でも」
これは私の悪いところで、マニュアル通りに事が進まない場合すぐに焦ってしまうのだ。
エレベーターの場所が分かるなら案内するのは必須ではない。けど、うまい言葉が見当たらなかったのでとりあえずご案内する事にした。
「…ご案内します」
「そうですか?じゃあ」
赤葦さんは顔色ひとつ変えることなく、それならお願いします、と鞄を持って立ち上がった。
これまでも「エレベーターあそこでしょ、案内板見えてるから」などと言ってくる人はいた。
その人たちは善意で言ってくれているんだろうけど、私は「ご案内するのが仕事ですから!」ととりあえず案内する、という臨機応変さに欠ける女なのである。
後から冷静に考えれば「どうぞお進みください」とだけ言えば済む話なのに、どうも他社の社員と話すときは緊張してしまう。だって相手は私をこの会社の受付嬢、顔として見ているんだもんなあ。
「7階までお上がりください」
「はい」
お辞儀をして見送り、エレベーターが閉まるのを待ってから顔を上げて息をつく。
こんな仕事誰でも出来る。現に今、あの人は私の案内が無くたってエレベーターの場所を分かっていたのだ。一度ネガティブになるとそれを引きずってしまうのも悪い癖、ああ、悪いところだらけの私。
自分の椅子へ戻る時、ふと先ほど赤葦さんが座っていたソファが目に付いた。と言うよりはソファの上に置き去りになった何かが目に入った。
「なんだろ」
近づいてみると、それは小さなノートだった。赤葦さんのものだろうか。彼が座るまでは何も無かったから恐らく間違いない。
山田部長のスケジュールによれば来社対応は1時間で終わる様子。私はノートを回収し、赤葦さんが7階から戻ってくるのを待つことにした。
◇
「あっ、赤葦様」
約1時間後に、赤葦さんは予想どおり1階へ降りてきた。私に気づくとお辞儀をして正面口から外に出ようとしていたけど、このまま帰してはいけない。慌てて忘れ物を持って席を立ち、赤葦さんのところへ駆け寄った。
「今日はお世話になりました」
私が単に見送りに来たのだと勘違いされているらしく、またぺこりと頭を下げられてしまった。
「あ、はい…いえ、これなんですけど」
ソファに置いてあったノート、名前などは書かれていないけどきっと赤葦さんのものだ。私がそれを差し出すと、赤葦さんは目を丸くした。
「……僕のです」
「やっぱり」
「すみません…」
「いいえ」
持ち主の元に戻って良かった。そうでなければ忘れ物を別の場所に預けたりして手間がかかってしまうので一石二鳥だ。
赤葦さんはノートをぱらぱらめくりながら、自分のもので間違いないか確認しているようだった。
「…僕、あのー…あそこに置きっぱなしでしたか?」
「え」
何やら心配そうな様子で赤葦さんが言った。
「…お…置きっぱなし…でした」
「まじか…」
「え?」
「いや、ごめんなさい。ほんとにすみません、ありがとうございます」
この人も予想外の出来事(自分の忘れ物だけど)に少々取り乱しているらしい。そんなに大切なノートだったのか、社内機密が書かれているとか?
「…ちなみにですけど」
「はい」
「これ、開きっぱなしでしたか?」
かなり念入りな聞き込みだ。ノートは閉じられた状態でぽつんとソファに置かれていたので、私はありのままを答えるために首を振った。
「……いいえ…?」
「よかった…どうもすみません」
赤葦さんはもう何度目か分からない謝罪の言葉を述べたあと、やっとノートを鞄に仕舞った。さっきは持っていなかった大きな袋を持っている。山田部長に渡されたのかな、重そうだ。
「では、また伺うと思いますので」
「あっ、はい…お待ちしています」
ようやく鞄を整理して、おそらく自分の心も落ち着けて、その人はきびきびと去っていった。
このようにして私たちの会社には、日々色々な人がやってくる。対応するのは私じゃなくても構わない、私である必要は全くない。
もっと自分にしか出来ないことをしたいなぁ、と思いつつもそんな能力など無いもので、明日も明後日も真面目に出勤する予定だ。
テンポ・ディ・ワルツの夢巡り