がしゃーんという音が早いか痛みを感じるのが早いか、それとも誰かが悲鳴を上げるのが早いか。
倒れ込んだ私に何人かが群がって来るのは一瞬の事だった。尻もちをついたお尻が痛いけれどもそれ以上に痛いのは利き腕だ。


「ちょっと大丈夫!?」
「…じゃないっす」
「見りゃ分かるわ、早く水水」


パニック気味の同僚、冷静な店長、いまだ尻もち状態の私。
飲食店でアルバイトをしている私はたった今、こぼれた水に滑って体勢を崩し、まな板の上に手をついたおかげで更に体勢を崩し包丁とともに床へ倒れてしまった。

…が幸いにも大事な部分は傷ついておらず右腕の肘から下がさくっと切れただけで済んだのが不幸中の幸い、だと思わなければやっていられない。死ぬかと思った。


「大丈夫!?」
「大丈夫じゃないって言ってんじゃないですか」
「お前タオル!」
「はいぃ」


私の傷が致命傷では無いらしい事を理解した人達はそれぞれ仕事に戻って行き、キッチンに残った店長含む数名(ひとりはパニックであまり役に立たない)が休憩室へと誘導してくれた。
水で流して止血したのちの私の腕は、自分で言うのもなんだけど見るも無残な姿である。今日はバイトの後、貴大とデートの予定だったのに…デートに行く事はできるけど、コートの下は寒いのを我慢して、ワンピースを着てきたのに。可愛い七分袖から除く腕に包帯が巻かれているなんて。

深い切り傷では無いものの痛いもんは痛くて、右腕を動かすたびにきりきりと嫌な感覚がする。
ちょうど上がりまで30分前の出来事だったので、そのまま休憩室で休ませてもらう事にした。本来の上がり時間までタイムカードは切らなくてもいいよ、と言ってくれた店長にはいつかお礼をしなくては。


『着いた〜』


着替えを終えたころには貴大からのメールが来ていた。
何を隠そう今日は付き合い始めて1年目の記念日。貴大は午後までゼミが入っているので、私はその時間までバイトのシフトを入れていたのだ。大学から私のバイト先まで迎えに来てくれたので、店長とその他のスタッフに頭を下げて上がらせてもらった。


「おつかれ」
「お疲れー。今日あんま寒くねえな」
「ね」


あんまり寒くないとはいえ東北地方の11月、まあまあ寒い事に変わりない。互いにしっかりマフラーを巻いてるから大丈夫だろうけど、そんな事よりこの傷の事、なんて言おうか。
今日バイトで怪我しちゃってさ〜アハハ、って感じだろうか。普段ならそんな感じで言えるけど、記念日だからなあ。


「ねえねえ」
「んー?」
「さっき怪我した」
「え?」
「包丁で」
「えっ!?」


反応は大体予測できていたので、貴大がぎょっとした顔をするのも想定の範囲内である。怪我の経緯や具合は大したことない、というのを説明しようとする前に貴大はどんどん捲し立てていく。


「怪我ってどこよ」
「このへん」
「え、何で?え、どゆこと」
「厨房でこけちゃってさ、その時包丁が頭から落っこちてきて」
「は!?」


図体だけじゃなくてリアクションも大きい男だ。貴大は角度を変えながら私の頭全体を見下ろした。


「頭から?頭大丈夫か!?」
「…それどっちの意味で言ってる?」
「分かれよ!怪我してねえのかって事」
「頭はね」


頭は無事だと伝えると貴大は安心したように見えたけど、でも腕がさあ、と続けると「腕!?」と今後は私の両腕を見た。
鞄を貴大に持ってもらい、あまり擦れないようにコートから右腕だけを抜いていく。ワンピースの袖からは先ほど巻いてもらった包帯が見え、少しだけ血が滲んでいた。ああ、完全には血が止まっていなかったのか。


「ほら、こんな感じ」


貴大に見せようと腕を差し出すと、彼はじっと私の腕を見て、小さな目をぐりんと開き、そしてその場で大きな息を吐いた。


「……た、貴大さーん?」
「びびった…」


どうやらそれは安堵の息だったらしく、要らない心配をかけてしまったかなと少し後悔した。
腕はすっぱり切れて痛いけど、深い傷ではなさそうだし。指以外の場所を包丁で切ったのは初めてだから、ついびっくりして報告してしまったけど。


「…それだけ?怪我」
「え。」
「顔とか身体とか」
「…ここだけ、だけど」
「そっか」


そのように言うと、貴大は私のコートの右側部分を持った。怪我の部分を見せるために右腕だけ袖から抜いていたのを直そうとしてくれてるらしい。


「さみーだろ、着てろよ」
「うん」


貴大に手伝ってもらいながら(痛いのでスムーズに着られないのだ)なんとか羽織り直すあいだ、私たちは無言だった。
元通りに着たあとは貴大に預けていた鞄を受け取って、怪我をしていない方の手に持つ。アルバイトの後に化粧直しをしたかったから大き目のポーチを入れてきてしまったので、鞄はいつもより少し重い。私の気持ちもずーんと重い。

派手な怪我じゃないのにいちいち言わなくて良かったかも。貴大も貴大で、私の怪我を気にしてこの記念日を思い切り楽しめないかも知れない。あーあ。


「…やっぱ内緒にしてたら良かったかな。ゴメンね」
「何が」
「せっかくの日なのに怪我なんて、タイミング悪いし…なんか…変な空気になっちゃった」


本当ならアルバイトを終えて合流した瞬間に腕でも組んで歩きたかったけど、なかなか難しい。寒いのを我慢して新しいワンピースまで着てきたのに無念だ。
何とも言えない気持ちのまま並んで歩いていると、身体の前に「ん」と貴大の手が伸びてきた。


「ん?」
「鞄。持つ」
「え!?いいよ左手で持つし」
「左手は用事あるだろ」


貴大は私の左手から鞄を取り上げると自信の左手に持ち替えた。空いている彼の右手は私の左手と絡められる。「左手の用事」ってこの事か。でもデート中に自分の鞄を彼氏に持たせるなんて嫌だ。


「右手で持つよ、」
「右手は痛えだろ」
「……。」


仰る通りで右手はついさっき負った怪我のお陰で、鞄を持つには少し辛い。
仕方なく右手をだらんと下げたまま歩く事にしたけど、これって周りにどんなふうに見られるんだろう。「あの子、彼氏に持たせてる」なんて思われるかもしれないし。私たちの間に上下関係があると思われるかも。彼氏の事を尻に敷いてるって思われたら?


「ね、やっぱり鞄…」


私が鞄を受け取ろうと出した手に、貴大は首を振って拒否した。


「仕方ねえからお姫様扱いしてやるわ」
「…けど、なんか…」
「別にいいんじゃん?大した怪我じゃなくてよかったな」


そう言いながら、繋いだ手をぎゅっぎゅっと何度か強く握られた。
嫌な顔一つせずに、むしろいつもより柔らかい笑顔が見られるとは思わなかった。私自身、思いがけない怪我でテンションが下がっていたのでそういう気遣いの言葉がぐっと来るのだ。だから私も自然といつもより甘えてしまうのだった。


「……好き。」
「あらっ!嬉しいね」
「好き」
「あんがと」
「貴大は」
「好きだよ」


貴大の声で好きだよ、って言われると腕の痛みは一瞬だけ消えたような気がする。この会話のあいだに私たちは何度か繋いだ手の力を強めて、手の握り合いで気持ちを伝えているような感じだった。

やっと落ちていた気持ちが浮上してきたとき、貴大が「顔や身体は平気なのか」と聞いてきたのを思い出した。腕にしか傷は入っていないけど、どこを怪我してもおかしくない状況だったなあ。


「ね、もし顔に傷入ってたらどうする?」
「縁起わっる」
「もしもじゃん!消えない傷とかが残ったらどうする?」


例えば頬に大きな傷が入ったりとか。そんな傷を顔に負って、私自身が耐えられるのかは分からないけど。


「…ちょっと質問の意味が分かんねえ」
「だから、私の顔に大きな傷跡が残ってたらどうするかって」
「どうするって、どうもしねーけど」


貴大は首を傾げながら言った。本当に質問の意味を理解していないのだろうか?


「…どうもしないの?」
「え、逆にどうしたらいいの?」
「いや…」


ちょっとした興味本位で聞いた事だだから、どうしたらいいのと聞かれると返答に困る。
注意力散漫な私の事だから今後も何かに躓いたりして顔に傷を作るかも知れない。それが一生消えない傷だったらどうする、って意味だったんだけど。


「…もし、結婚する時とか…お嫁さんの顔に傷入ってたら、嫌かなーって」
「何だそりゃ」
「何だそりゃとは何だそりゃ!」
「そりゃ女の子なんだから、無いほうがいいに決まってんじゃん?すみれ自身も嫌だろ?けどそれはさあ、違うだろ」
「どういう意味」


今度は私が貴大の言葉の意味を理解できていない。何がどう違うんだろう。貴大もどのように説明すべきか悩んでいるらしく、うんうん唸っていた。


「まあ、どうせ嫁にもらうの俺だし?」


そして言われた一言は、予想もしない内容だった。貴大の口から「嫁にもらう」なんてフレーズを聞く日が来るなんて。あまりに驚きだったので思考が止まり、顔色ひとつ変えない貴大に思いっきり疑問をぶつけた。


「…ハイ?」
「傷のひとつやふたつはマイナス要素にならないねえ」
「うそ」
「タカヒロ、ウソ、ツカナイ」
「チガウ、オマエ、ウソツキ」
「ぶっはは、元気じゃん」


貴大がひいひい言いながら笑うので、繋いだ手から振動が伝わってくる。ちょっとだけ右腕が痛い。けどそんなの気にならなかった。顔の傷なんてあっても関係ないって言うんだもん。


「ま、俺が一緒に居るうちはそんな怪我させねえわ」


それに、優しく目を細めながら私を見下ろして、こんな事言ってくるんだもん。
普段は面と向かって貴大を褒めない私でさえ言わなくてはならない。褒めなきゃならないじゃないか、こんな事言われたら。


「……イケメンか」
「俺も思った。今のやべえな」
「台無しだわ」
「おい」


また貴大が横で笑うので、右腕までその振動で揺れてしまう。身体の大きな男は動きも大きいのだ。「痛いから笑うな」と左の肘で突いてやると貴大は「やべっ」という顔をして、ぴたりと動きを止めた。


「…あんまり変な事言わないで。痛いんだからね」
「わかりました…」


大人しくなった貴大を横目に見ながら私は左手をぎゅううと握った。貴大もそれに応えて握り返してくる。
本当は痛みなんて差し引きゼロになってしまうほど嬉しかった、さっきの言葉は。でもこんな道端で「うれしい、ありがとう愛してる」なんて言えるほど私は素直でかわいい子じゃない。だからあんまり私の心が動いてしまうような事は、どうか外では言わないでほしい。ぜんぶ顔に出てしまうじゃんか。

いたいの、いたいの、ここにいて