私が信ちゃんよりも1年遅れて稲荷崎高校へ入学した時、「すみれちゃん、信ちゃんのこと頼んだでえ」と信ちゃんのおばあちゃんに声をかけてもらった。

昔っから近所に住んでる信ちゃんは自分の話とか全然してくれないから、高校でどんな生活を送っているのかも知らない。
おばあちゃんに聞きに行けば信ちゃんは「お前、もう来んな」と私を追い出す始末だったので、同じ高校に行ってしまえば学校での様子をこの目で見る事ができると思ったのだ。入学式の1週間前、一足先に稲荷崎の制服を着て家を訪ねた時の、信ちゃんの驚いた顔ったら忘れられない。


「あ、信ちゃん」
「信ちゃん言うな」


学校内で見かけた時には必ず信ちゃん、と声をかけていたけれど毎回こんな返事が返ってくるのももう慣れた。

私も高校2年になり、信ちゃんが稲荷崎で過ごした2年ちょっとの間にバレーボール部の主将までのぼりつめた事は知っている。
稲荷崎のバレー部といえばこの辺じゃ有名だ。だから信ちゃんがいつの間にかただの「信ちゃん」じゃなくなった事も知っているけど、私にとって信ちゃんは「信ちゃん」だから、「信ちゃん言うな」と言われても「信ちゃん」と呼ぶしかないわけで。
何が言いたいかと言うと、私は幼馴染離れ出来ていない。という事。


「信ちゃん!おはよー」
「おお。早いな」


ある朝、私は早起きをして信ちゃんが家を出るのと同じタイミングで北家の前へと差し掛かった。信ちゃんちの手前にある角で待機して、信ちゃんが「いってきます」と言うのを盗み聞ぎしてタイミングを見計らったんだけど。


「信ちゃんいっつもこんな早いん?ヤバない?」
「ヤバくはないやろ。お前こそ何でこんな早いねん」
「久しぶりに一緒に登校しよ思て」
「はあ?」


信ちゃんは落ち着いた表情を一変させて、心底わけが分からないといった顔をした。そんなに驚かれるのも不思議である。小学校の時とか、中学校の時とか、時間が合えば一緒に登下校していたのに。


「何か用事があるんやなくて?」
「用事はコレやん。信ちゃんと登校すんのが用事やん」
「何言うとんねん」
「だって学校じゃ全然喋ってくれんやんか?私アレやで、信ちゃんのおばあちゃんに信ちゃんのこと頼んだで〜って言われてんねんで」
「社交辞令って知ってるか?」
「知ってるわ!失礼な」


最近はこんな調子で、信ちゃんは素っ気なくなってしまった。前から愛想を振りまくような人じゃなかったけど、幼馴染の私に対してはニコニコしてくれていたのに。
けれど鬼のような扱いを受けるものの時折ふつうの態度だったりして、信ちゃんの心がよく分からない。

そんな信ちゃんに、今年に入ってから時々頼んでいることがある。毎回断られてしまうけど、今朝は丁度いいので聞いてみようと口を開いた。


「なあなあ、今日さ」
「あかん。」
「はっや」
「あかんで」
「何でよ」
「何回も言わすなや」


信ちゃんは前を向いたまま少々苛立っていた。そんなに怒る必要は無いと思うし、昔から信ちゃんの事を知っている私なら申し分ないと思うんだけど。


「…けどさ?うちのバレー部ってマネージャーおらんやろ?私がおったら百人力やと思うけどなあ」


私は稲荷崎でバレー部のマネージャーになりたい。中学の時は自分も運動部に入っていてそれが楽しかったけど、信ちゃんと居る時間が減ってしまったので部活は中学で辞めた。高校生になったら信ちゃんのところでマネージャーをしようと決めていたのに、それを許してもらえないのだ。


「すみれが百人力でも千人力でも関係ないって言うてるやろ、しつこい」


このようにして一蹴されるばかりである。が、信ちゃんの言うことは間違っていない。バレー部はマネージャーを募集していないから、私がいくら有能でもマネージャーになる事は出来ないらしい。けど、そんな言い方されると癪だから言い返してしまう。


「…信ちゃん、なんか冷たいわ」
「結構」
「ほんなら信ちゃんが頑張ってるとこ近くで見せてや」
「見ていらんわ」
「なんでよ!」


マネージャーが無理なら練習の見学だけでも行かせろと頼んでみても、こんな調子。練習風景をあまり公開してないのは知っているけど、幼馴染の頑張りを見ることすら許されないって鬼か。
「鬼やわ、あんたんとこの顧問は!」と吐き捨てると信ちゃんは大きなため息をついた。


「意味分かってるか?うちのバレー部、なんでマネージャーがおらんと思う?」
「知らんし」
「気が散るやろ。女にウロチョロされたら集中でけへんねん男は」


そこで、ぴたりと足が止まった。赤信号に差し掛かったからではない。偶然たどり着いた横断歩道は赤信号だったけれども私が足を止めた理由はそれじゃない。
信ちゃんが私のこと、女って言った!


「……私、女なん?」
「男やったん?」
「ちゃうわ!」
「ならええやん」
「ちゃうちゃう!女扱いしとったんかって事」


昔よりもぐんと高くなった幼馴染を見上げると、信ちゃんは私の言葉の意味が分からなかったらしく首を傾げた。けれどすぐに理解したらしく、傾げた首を今度は横に振った。


「……してへん」
「したな」
「してへんわ」
「したんやな?」
「しつこい、ついて来んな」


信号が青に変わると信ちゃんは大股で歩き始めた。ついて来んなって言われても、私も同じ駅の同じ電車に乗って同じ学校に行くんだからついて行かせてもらう。それに質問に答えてもらわなきゃならない。


「いま私の事、女扱いしよったな?」
「してへんわ野獣が」
「野獣て!」
「バレー部なんか猛獣の集まりやろ、そん中におったらいくら野獣でも女に見えるっちゅう事」
「ブレへんなあ」
「ブレへん。お前は野獣」


ひっどい、もう高校2年生なのに。年頃の女の子に向かって野獣とは。やっぱり私のことなんかただの幼馴染、またはそれ以下の野獣なのか。


「ほんなら見学、やめとくわ」
「おう、来んなや」
「私か弱いから、バレー部の男にナンパでもされたら敵わんしな」
「ないない」
「あるかも知らんやろ!」
「ないて。野獣やねんから」


また野獣って言った。こんな野獣でももしかしたら、あれだけ居る部員の中の1人くらいは「あの子かわいい」って思ってくれるかも知れないのに。


「…猛獣からしたら野獣も女なんやろ?」


長い脚ですたすた歩く信ちゃんに小走りでついて行きながら言うと、信ちゃんは横目で私を見た。見たというよりは様子を伺った、みたいな感じ。


「えらいこだわるな、性別に」


そう言うと信ちゃんは再び前を向いた。

性別にこだわる?当たり前だ。本来ならばもっと家から近い、自転車で通えるような高校を選ぶ事も出来た。それをしなかったのは信ちゃんと同じ学校に行きたかったから。幼馴染だから、ずっと一緒のところだったから、と自分でも思い込んでいたけど違った。


「信ちゃん、カノジョできた?」
「なんやねんいきなり、おらんわ。女なんか部活の邪魔んなる」
「ふーん…」


なんの脈絡もなく気になる事を聞いてしまったが、信ちゃんは「しっしっ」をするように手を振って答えた。女は邪魔かあ、私、女やねんけどな。

思えばここ最近学校で会った時の素っ気なさもさる事ながら、家の近所で出くわした時も前みたいにニコニコしてくれない。今日に至っては久しぶりの並んでの登校を拒否された。私が気付いていない(認めようとしていない?)だけで実は嫌われてるのかな。
そこで今度は信号でもないのに、私の足がぴたりと止まった。


「どないしてん」
「…一緒に行くんやめよー思て…」
「は?何でやねん」
「ついて来んなゆうたやんか」
「言…うたけど、やな」


言うてへんわ、と言おうとしたみたいだけど信ちゃんはきちんと覚えていたらしい。ばつが悪そうに頭をかいた。
ちっちゃい頃に喧嘩をした時も、謝る時はそんなふうに頭かいてたっけなあ。でも今は私たち、高校3年生と2年生だ。素直さだけでは終わらずに本音も建前も、皮肉だって使いこなす年齢だ。


「女は邪魔んなるんやろ」
「女はそりゃあ、邪魔やけど」


信ちゃんは今でも建前は使わない人種のようなので、またもや邪魔だと言われてしまった。思ったよりもショックだ。さっき偶然出会ったふりをした時も無表情で、嬉しそうな顔はされなかったし。


「お前は女ちゃうやろ」


立ち止まったままの私に、行くで、と信ちゃんが背中を押した。
私、女ちゃうんかい。女やねんけど。と文句を言うべきところなのだろうが、今の信ちゃんの言葉はたぶん、そういう意味じゃない。


「……野獣はええの?」


既に数歩先まで進んだ信ちゃんのところまで小走りで駆け寄ると、信ちゃんは相変わらずあまりこちらを見ずに答えた。


「俺、猛獣のひとりやし」


そのまますたすたと進んでいく幼馴染はまたぽりぽりと頭をかいていた。信ちゃんが、会話をする時にそんな言い回しをするなんて…じゃなくて、じゃなくて。


「…意味わからんねんけど」
「分からんでええわ」
「教えてや」
「教えへん」
「好きなん?」


信ちゃんは本音でしかものを言わない。彼の言葉に建前は存在しない。それなら聞いてしまえ、俺も猛獣のひとりだというのは、そういう意味なのかと。


「……言えへん」
「え、」


彼は「言わない」という選択肢を選んだ。
いやこれは「言えない」という事かも知れない。信ちゃんの手は自身の口元を隠すように覆われた、かと思いきやそれを誤魔化すように首を触ったりかいたり、まるでイエスと返答しているみたいに。


「…すきなん?」
「言うなや」
「………」


猛獣らしいぶっきらぼうな答えであった。
信ちゃんと私はそのまましばらく無言で歩き続け、駅に到着し、通学定期券で改札を抜ける。信ちゃんの朝練に合わせた時間なので通勤ラッシュよりも人が少なく、いつもより静かだ。それが余計に私の脳を活性化させた。

信ちゃんは今、何考えてんねやろ。私は信ちゃんのことずっと大切な幼馴染で、おんなじ学校に行きたくて受験して、練習の見学もしたいし許されるならマネージャーだってやりたい。
けど本当はそれだけじゃ我慢できない、というのを信ちゃんの顔を見て自覚させられた。


「…来んなよ。体育館」


信ちゃんは愛想の欠けらも無い様子で言ったけど、私はうんと頷いた。来んなよ、っていう理由が私の理想とするものと一致した気がするからだ。


「いかんとく」


乗るべき電車が近付いてきた。電車の音で聞き取りづらかったけど信ちゃんは「それでええねん」と呟いたので、せやな、ええか、と笑ってみせた。

これでいいか、しばらくは。信ちゃんのおばあちゃんに言われたとおり、信ちゃんのことは私が任された。だって信ちゃんのほうこそ、幼馴染離れ出来てなさそうなんだもん。

アンダンテでまいりましょう
原作の進み具合によって生じた矛盾点は、修正しない場合がございますのでご了承ください。