こちらは翻弄されたい打算 前編後編の続きです




宮城の春は遅れてやってくる。3月に入った今でも朝は凍えるような寒さで外に出れば手がかじかんで、携帯電話の操作だってままならないほど。
そんな3月6日の朝、寒い中外出しなければならない理由はたったひとつ。今日はいよいよ宮城大学の合格発表が行われる日なのだ。


「すぐ電話ちょうだいよ」
「わかってる…」
「祈ってるからね。絶対大丈夫」
「うん……」


受験前はあんなに、鬼のようにああだこうだと口を出していたお母さんが今日は菩薩のように穏やかである。
家を出る直前にマフラーを巻いてくれ、手袋の上から私の手をぎゅうと握って「絶対に大丈夫」ともう一度呪文をかけてくれたのを最後に、私は家を出た。

宮城大学はれっきとした国立大学だ。将来なりたいものが明確に決まっていない私は「行くなら宮大かな」程度の理由で志望校を決定した。
しかし、恥ずかしながら私の学力は宮大の合格水準に達していない事がすぐに判明し、慌てた私とお母さんは家庭教師をお願いする事にしたのだ。そして、家庭教師としてやってきたのが、今日一緒に合格発表に行ってくれるひと。「宮大に行きたい」というもうひとつの理由となったひと。


「あ、あきら先生」


大学の近所の待ち合わせ場所には既に先生が立っていた。私の家以外の場所で会うのは初めてだ。英先生は寒さに弱いらしく鼻が少し赤くなっていて「おはよ」と鼻をすすりながら言った。


「こんなの仕事の範囲外なのに、ありがとうございます」
「別に。どうせ学校に用があるし」


そうなのだ。英先生は宮城大学に通っている現役3年生。合格発表はお母さんと見に行く予定だったけど、ダメもとで英先生に頼んだら「ちょうど学校行くしいいよ」とまさかの返事が返ってきた。ふたりで外出できるなんて夢のようだ、合格発表を見に来ただけなんだけど。

でも合格すれば私にはたくさんの利益がある。志望校への現役合格という自信、勉強に付き添ってくれた英先生の顔を潰さなくて済むという安心、そして、英先生に「生徒と先生」という枠を超えて接する事ができるのだ。好きです、って伝える事ができる。
結果がどうなろうとも生徒としてではなく、女の子として先生に告白をする事ができる。しなきゃ。したい。


「10時からだっけ?」
「はい」
「もうすぐか…」


腕時計に視線を落とす英先生の睫毛が長いなあ、などと見とれている余裕は無かった。正直言って今は受験の結果のほうが気になって仕方が無いのだ。
いつもお喋りな私の話を聞いているふりの英先生は、私の口数が少ない事に気付いたらしく声をかけてくれた。


「不安?」
「……です」
「自己採点は合格圏内だったろ」
「はい、でも、やっぱり…」


センター試験の自己採点も、宮大の入試の自己採点にも付き合ってくれた英先生はあまり不安そうな表情ではない。
彼の言うとおり確かに合格圏内であった。でも自信をもって「何の心配もない」という出来ではないので、結果を見るまで全然安心できない。落ちたらお母さんも悲しむだろうし、一番行きたかった学校だから当然自分も凹むし。


「落ちちゃったら英先生に合わせる顔、ないですし」


なにより英先生が家庭教師として教えてくれたのに第一志望に不合格だなんて。お母さんや他の人に、先生の教え方が悪かったと思われたらどうしよう。全然悪くないのに、むしろ分かり易くて最高なのに。


「…落ちたら宮大は諦めんの?」
「え、と…」
「滑り止めは受かってるもんな」


そのとおり、私立大学を滑り止めとして受験して一応そちらは合格している。
宮大が駄目だったらそちらに通えば良い話なんだけど、県内とは言え家から少し遠いし、何より私は英先生のいる大学に通いたい。先生の後輩になりたい。先生のいる環境で、たったの1年ではあるけれど同じ場所で同じ時間を共有したい。


「……宮大、は…」
「あ。開く」


朝の10時を迎え、校門が開き始めた。誘導係の人が大声で「押さないで、走らないで」と言っているけど無理な話で、前のほうに並んでいた人たちは足早に掲示板のほうへと向かう。
私も行かなきゃ、と歩き出そうとした時に誰かの肩がぶつかった。


「わっ」
「毎年の事だね。俺の時もそうだった」
「へ、へえ」
「どうせ結果は変わらないのに」


英先生は淡々としていた。そんなに平常心を保っていられるのは、私が同じ大学に来ようが来るまいが関係ないという意味だろうか。


「……そう…です…よね」
「行かないの?」
「いっ、いきます」


いけないいけない、私は受験をしたのだ宮城大学を。国見先生に会いに来たわけじゃない。合格しているかどうかを確認に来たのだ、それが第一優先事項。

英先生がすたすたと歩いていく後ろを私も小走りでついて行き、人がわんさか集まる大きな掲示板の前へとたどり着いた。
小さな文字の受験番号が並べられている。あの中に私の数字があれば合格、なければ地獄。


「………」
「緊張してんの」
「はい」
「そう…」


顔を上げる事が出来ない。鞄から受験票を取り出すものの、その番号と掲示板とを見比べるのが怖い。せっかく先生がついてきてくれたのに、自分で見る勇気がなかなか出てこなかった。


「大丈夫だと思うけどな」
「でも、まだ分かんないです」
「俺が勉強教えてやったのに?」
「うっ」
「まあ落ちたからって何も言わないし。その時はその時だろ」


ぐるぐると、頭の中では色んな事が浮かび上がった。合格しているかどうか、それが一番気になるのに、「落ちたらその時はその時」って興味が無さそうな事を言われてしまって。その時はどうするんだ、どうされるんだ、いやいや英先生の反応よりも私の将来がかかっているのに…


「受験番号は?」


私の悶々としたものを断ち切るように英先生が聞いてくれたおかげで、我に返った。そうだ、余計な事を考えている暇は無い。


「い…110055です」
「ん。」


先生は私の受験票に書かれた番号を確認すると小さくうなずいて、その高身長を活かして掲示板へ目をやった。
私も意を決して深呼吸をしたのち、さっき先生が言ったようにどうせ結果はもう出ていて変わらないのだと腹をくくり、顔を上げた。


「あ」
「え?」


すると、英先生が声を出した。え、どうしたんだろう私の番号があった?または無かった?


「あー…」
「えっ!?え、あの、先生?」


先生は結果を言ってくれないまま掲示板を見ていたけど、やがて顔を傾けて私にささやいた。


「あの列、見てみな」


英先生の目線の先、指さす先へと顔を向ける。私の受験番号、「11」で始まる番号が並んでいるところを。110055。私の番号は110055。ありますように。ありますように、ありますように…


「…………あ、」


あった。

110055。私の受験票に書かれている6桁と同じ番号が張り出されている。見間違いかも知れないからもう一度。いや、合っている。書かれている。書いてある!


「ある!!」
「うん」
「あれ合ってます?この番号?」
「あってる」
「嘘!」
「ほんとみたいだね」
「やっ!え!?嘘!」
「うるさい」


あまりに大声で騒いだせいで英先生に叱られてしまったけど、先生の顔を見ると全く怒っていなかった。私を見下ろして、しばらく目が合った後、にゅっと伸びてきた大きな手が私の頭に乗せられる。


「おめでと」


そして、ぐしゃぐしゃっと撫でられたのだ。英先生が私の頭を撫でた。おめでとう、と言いながら。これは素晴らしいご褒美ではないか。


「……あ、ありが、…っ」
「泣くなよ」
「泣く、泣きます」
「はあ…」


英先生はあまり私のことを褒めない。油断していると、時々「やるじゃん」なんて言ってくれるのがたまらなく嬉しくて、そのために勉強を頑張ってきた。先生に褒められるのが嬉しいし、頑張っていると思われたいし、「出来る子、えらい子」だと思われたいから。少しでも英先生の中で自分の株を上げたかった。


「せんせい、あの、本当にありがとうございます…私、数学ほんとに…ダメダメだったから」
「うん。もうお前に教えなくていいのかと思うと解放感が凄い」
「うう…」


勉強の中でも特に数学は苦手で、同じところを何度も何度も質問しては顔をしかめられた記憶も新しい。こんなに物わかりの悪い生徒を持って英先生はさぞ大変だったであろう。
「俺、もうあそこの家の生徒嫌です」なんて言われなくて良かった。最後まで英先生が見てくれて良かった。


「……すみれ?」
「英先生、」


まずは感謝してもしきれないこの気持ちを伝えなければいけない。いつの間にか私の頭からは「合格したら告白したい」なんていう発想は吹き飛んでいた。合格した喜びと達成感が強すぎて。


「私…ほんとうに…あの…ありがとうございました」
「え、なに改まって」
「ほんとに感謝してます」


頭を下げると、私の目から出た涙が地面に落ちるのが見えた。
泣くほど嬉しい。第一志望の大学に合格した事が。お母さんに怒られても、高校の先生に「え、お前が宮大?」と呆れられても頑張ってきて良かった。


「先生が居なかったらこんなに頑張れなかったですし、それに、」
「すみれ」
「は、はい」


頭の上から先生の声が振ってきた。私は地面を向いているからどんな顔をされているのか見えない。けど、私の話を遮るようにぴしゃりと名前を呼ばれた気がする。


「俺、もうお前の先生じゃないよ」
「……え。」


低い声だった。もう私の先生ではない。確かにそうだ。英先生の仕事は私を第一志望の大学に合格させること。


「合格したんだから用なしだろ?」
「…英せんせ…?」


恐る恐る顔を上げると、そこにはいつもと変わらない、ぼんやりした英先生の顔があった。何を考えているのか相変わらず読ませてくれない人だ。どういう意味なのかと聞き返そうとした時、先生が言葉を続けた。


「…なあ。合格したらひとつだけお願いごと、聞いてやるって言ったの覚えてる?」
「え…」


中間テスト、期末テストがあるたびに「80点以上とったらご褒美ください」「平均90点超えたらお願い聞いてください」なんて無理を言ってきた。
結局、学校のテストで全科目の平均を90点超えることはできなかった。でも私の最後のお願いとして、志望校に合格したらお願いごとを聞いてくれませんか?と頼んだのだ。


「俺はもう先生じゃないし、お前は生徒じゃない。何のしがらみも無いよな」


生徒と先生、その枠を超える要望や質問は許さない。ずっと英先生にそう言われてきた。けれど今は、もう違うんだ。私は生徒じゃない。先生はもう先生じゃない。と、いうことは。


「……それって」
「すみれはどうしたい?」


英先生は、未だ髪がぐしゃぐしゃになったままの私を見下ろした。私は自分の髪型を直すような心の余裕はない。だって英先生、それはつまり、私のことを誘導しているじゃないか。


「…そんなの…決まってるじゃ、ないですか」
「そう?教えて」
「そ、それは…それ、は」


英先生、私を生徒としてではなく女の子として見てくれませんか。付き合ってくれませんか。今まで何度となく頭の中で唱えた台詞は今が口にする時なのに出てこない。先生が私のことを逃がさずに見ているんだもん。


「言えないの?」


痺れを切らせた英先生は溜息をついて、ポケットに突っ込んでいた手を再び私の頭に置いた。うわ、先生の手あったかい、なんてうっとりする暇はない。


「お前、今日から俺の彼女」


英先生はそのように言うと、もう一度ぐしゃぐしゃと私の頭をぶっきらぼうに撫で回した。さっきより強め。頭がぐらぐら揺れる。ああ、ふらふらする。
私が先生の彼女。天の声みたいな台詞だ。そんなのあるわけない。願っていたけど信じられない。


「……ほんとう…ですか?」
「本当も何も。ずっとそうなりたかったんじゃないの」


見透かされていたんだやっぱり。無理だと思っていた。夢物語だと思っていたのに。

はい、ずっと好きでした、と涙とともに声を漏らすと、英先生が笑う声が聞こえた。恥ずかしい、好き、幸せすぎる。
英先生は先ほどかき乱した私の髪を、今度はきちんと撫でて直し始めた。なんということだ、英先生は勉強だけでなく女の扱い方まで得意なのか。


「…先生の彼女になるって…偏差値、高そうですね…」
「落第しないように頑張って」
「うっ、はい」
「あと、」


と、言いながら英先生は頭を撫でるのをやめて私の顔をぐいっと上向きにさせた。少しだけ鼻の赤い英先生の顔がすぐ目の前に。


「先生って呼ぶのは終わり」


じゃあ、なんて呼んだらいいですか?
その質問はする暇もなく呑み込むはめになってしまった。口を塞がれたのでは仕方ない。

宮城の春は遅れてやってくる。3月に入った今でも朝は凍えるような寒さで外に出れば手がかじかんで、携帯電話の操作だってままならないほど。
それでも今日はすぐに携帯電話を開かなくては、お母さんに報告しなくては。大学に無事合格したことと、先生が先生ではなくなったことを。

春が来るのはあなたのせいです