いつもならクーラーなんかつけてるとお母さんに怒られるけど、来客がある日は許される。特に、出来の悪い娘の勉強を見てくれる貴重な人物にはお母さんも最大限のおもてなしを心がけているようだ。お母さんのほうから「もうすぐでしょ、クーラーつけときなさいよ」なんて言ってくるんだもん。

部屋がすっかり涼しくなった頃、ぴんぽーんとインターホンが鳴った。
来た!部屋を片付けていたので、いつもあの人がやってくる道を気にしておくのを忘れてた。


「国見センセー!こんにちはっ」
「ちは」


靴を脱ぎながら、ちらりと私を見てまた視線を足元へ落とす国見先生は私の家庭教師。そして私の目指す宮城大学に通う3年生だ。さらに、密かに恋心を抱いている人。


「どうだった?テスト」


私の部屋まで案内し、いつもの場所にリュックを置きながら先生が言った。
実は今回の期末テストで平均90点を目指そうと約束していたのだ。それに向けて私はもちろん頑張った。国見先生に褒めてもらいたいし、点が上がれば推薦入試にも有利だし。


「そ…それがですね」


けれども今年の春まであまり勉強ができなかった私がいきなり平均90なんて無理な話である。返ってきた答案用紙を全て渡すと、先生は携帯電話の電卓で計算を始めた。


「…5教科の平均だと…84点か」
「……です」
「ふーん」


携帯電話を机に置き、もう一度何枚かの答案用紙をぺらぺらと見比べる国見先生。何を考えてるんだろう。いつものごとく無表情だから分かんない。先生は答案用紙も机に置くと、口だけを動かして言った。


「やるじゃん」
「え!?」


予想外の褒め言葉に思わず驚きの声が。褒められたんだよね?顔が全く褒めてないから分からないけど、確かに今「やるじゃん」と言ったんだよね?


「正直80すら無理だと思ってた」
「え」
「特に数学。75点か。70行かない可能性あると思ってた」
「そ、それは先生の顔に泥を塗る事になっちゃう、から」


さすがにあれほど教えてもらって70点を切ってはいけないだろうと、先生が帰ってからも数学だけは念入りに復習したのだ。


「へえ、俺の顔なんか気にしてるんだ」
「そりゃあ…」
「大きなお世話だけど」
「そ、そうですか」


高校生に心配されるほど落ちぶれてないよ、とでも言いたいのかな。相変わらず飴と鞭、ならぬ鞭と鞭なもんだから浮かれる余裕も無い。
先生は再び答案用紙を手に取ってめくりながら口を開いた。


「で?」
「え?」
「何にする?」
「…何がですか?」
「お前が言い出したんだろ。ご褒美」


ご褒美とは、私が欲しかったもの。先生を困らせるほどしつこく頼んでやっと「次の期末で平均90点超えたら」という条件を出してくれたのだった。しかし結果はその条件を満たしていないはず。


「私、90取れてないですけど…?」


もしやあの条件を忘れているのだろうか。念のため確認してみると、国見先生は真顔で頷いた。


「ああ。俺、最初から90取れるなんて思ってないよ」
「えー!」
「けど今回は期待以上だったし。まあ考えてあげるよ、ご褒美くらい」


はい、と言いながら私に答案用紙を差し出すと先生は「何にする?」と聞いてきた。
ご褒美なんて全然考えてなかった。どんな事でも頼んでいいの?例えば「手をつないでください」とか「ハグしてください」とか、「キスしてください」とか。


「……じゃあ…あの…」
「高いモノねだるのは禁止な」
「わ・分かってます」


物が欲しいわけではない。お金で買えないものが欲しいんだけど、キスとかハグを頼んでしまうとまた国見先生を困らせるはめになる。けどせっかくのチャンス、少しでも国見先生との距離を縮めたい。


「あの、国見せんせーの事…名前で呼んじゃってもいいでしょうか」


下の名前で、あきら先生と。
このお願いは渾身の力と勇気を振り絞った台詞だったのだが、国見先生は釣り糸に引っ掛けられたかのように顔を引き攣らせた。


「……はあ??」
「うっ!」
「名前?」
「は…はい」


もしや、おこがましかった?恋人や家族以外にはファーストネームなんか呼ばれたくない系男子?高校生の小娘なんてもっての外?
国見先生の顔は引きつったまま私を見ている。ああ、さっきの言葉を取り消したい。もっと控えめなお願いにすれば良かった。ドン引きされた。


「呼べば?」


が、なんと許可がおりた。


「…え!?いいんですか!?」
「名前くらいならいいよ。ただし呼び捨てはブットバス」
「呼び捨てません!呼び捨てません」


いくら好きな人相手とはいえブットバされるのは嫌だし呼び捨てなんてとんでもない。「国見英」という名の後半部分を声に出してもいい、という許しを得ただけで満足だ。


「…あきら、せんせい。」
「カタコトもブットバス」
「はひ!英先生」


あきらせんせい、と呼ぶのに慣れてなくてカタコトになったり声が上ずったりしたけど私、呼んだ。国見先生の下の名前を!


「いいんじゃないの。次からそう呼べば」
「やった…!」
「そんなに喜ぶ事?」


先生はと言うと、私がどうしてそんなお願いをしたのか、さらにここまで喜んでいるのか理解し難いらしい。くすりと笑って横に置いたリュックの中から筆記用具を取り出し始めた。


「あの、あの!ついでにもうひとついいですか!」
「何」
「私の事も名前で呼んでくれませんか」


筆箱、電子辞書、ノートなどを出していた先生の手が止まる。リュックの中身を覗き込んでいた先生の目が私をとらえた。そしてゆっくり口を開く。あ、やばい怒られる。


「…すみれ?」
「うぐっ」
「何でダメージ受けてんだよ」
「いや…」


だって「調子に乗るな」と怒られるかと思ったのに素直に名前を呼ばれるなんて。心臓に悪い、大ダメージだ。


「あ、呼び捨てだとマズイか。すみれちゃん…すみれ…さん?どっちがいい」
「あの、ぜひ呼び捨てを」
「はあ?」
「すみれって、呼んでください」


呼び捨ててくれるなんて、まるで彼女みたいだし。親近感が湧くし、一気に心の距離が縮まったような気分になれる。錯覚でもいいからそう感じていたい。

国見先生は「わかった」と頷いてリュックから手を離し、座布団に座り直しながら言った。


「すみれ。」
「はい!何でしょう」
「とりあえず返ってきたテスト、問題用紙も全部出して」
「ハイッ」


これ、逆効果かもしれない。名前で呼ばれると緊張感が高まって顔が熱くなる。勉強に集中出来なかったらどうしよう。
先生は英語の問題用紙と答案用紙を机に広げ、ひとつひとつボールペンでなぞりながらチェックしていく。と、ある場所で先生の手が止まった。


「すみれ」
「は!はいっ」
「ここ理解できた?俺が言ったとおりだったろ、問題を最後まで読まないのは致命的。時間が足りなかったから焦った?」
「……はい…」


テストを受けた次の日に国見先生が来てくれた時、問題用紙を一度見てもらっている。その時に「こういうの見落とすだろ、ちゃんと読んだ?」と突っ込まれたのだ。英語の長文を読むのに必死で、問題文の英語を冷静に読めていなかった。がっくりだ。


「…すみれ」
「はいっ!?」


また名前を呼ばれて、飛び上がって返事をする。その拍子に脚を机にぶつけてしまい、がたんと机が鳴ってしまった。


「ふ、呼んだだけだよ。おもしれ」


その私の様子を見て、なんと国見先生が笑みをこぼしたではないか!?長い前髪を指ではらいながら、その綺麗な歯が見えるほどの口を開けて。


「……な…ちょ…っ…」
「何?」
「いや、あの…」


先生の声で名前を呼ばれるのも、笑顔を見せられるのも刺激が強い。


「国見先生、あんまり笑わないからちょっと新鮮で、びっくりして」
「英先生って呼ばないんだ」
「あ」


忘れていた。自分から頼んだ事なのに。
しかし国見先生の下の名前を呼ぶのって、気合を入れなきゃ顔が赤くなってしまう。女の子が赤面しながら自分の名前を呼んでくるなんて、好きだって事がバレてしまうんじゃないか。

そう思うとなかなか呼べずに下を向いていると、国見先生が顔を覗き込んできた。


「あ・き・ら・せ・ん・せ・い。だろ?」


こんなのひどいと思う。好きな気持ちを抑えられるわけが無い。確信犯?


「…英…せんせい」
「またカタコトかよ」
「だって」
「だって?何?」
「……」


だって私は国見先生のことが好きなのだ。そんな人と同じ部屋の中で、名前を呼び合えるなんて人生で初めての事。
先生が好きだから緊張してしまうんです、と言いたいけれどそれは無理だった。国見先生が前に言っていた言葉を思い出す。「それ以上の話は金輪際禁止、ややこしいことは御免だ」という言葉を。


「…それ以上は言うなって言われそうだから、やめときます」
「……あっそう。」


先生は何を思っているのだろう。さっき突然顔を近づけてきたかと思えばあっさりと顔を離してしまった。


「…英先生」
「ん」
「あの、次の…夏休み明けのテスト…平均90点取れたら、またご褒美くれませんか?」


赤くなった私の顔から意識を逸らしてもらえるように、私はまたお願いをした。何を馬鹿なこと言ってるんだよ、といつものように呆れてため息をついてくれれば、思い上がった自分の気持ちを抑えることが出来ると思ったからだ。


「何が欲しい?」
「え」


しかし、先生はため息などつかなかった。それだけでなく呆れた顔も一切見せずに、机に肩肘をついてじっと私の顔を見てる。


「…俺は大学3年で、お前は高3。俺は家庭教師でお前は生徒。それを理解したうえで、何が欲しい」


国見先生は、私たちの揺るがない関係性をゆっくりと説明した。ああそうか。ここから先はもう駄目だよ、と牽制されているのだ。


「……なにもいらないです」
「なにそれ。」
「だって、私と先生の関係を保ったままじゃ出来ないお願いだもん。そうでしょ」
「……ふうん…」


鼻から抜けるような声で先生が言った。
今もぴしゃりと怒られてしまうかと思ったけれどその様子はない。なんだか調子が狂ってしまった。狂わせたのは私自身だけど。だから、何とか空気を元に戻すために明るく続けた。


「それ以上はその話は禁止だーって言わないんですか?」


どうだ!これなら「はあ?」と鼻で笑って返してくれるに違いない。
…のに、国見先生は笑わなかった。それどころか、それどころか。


「90点取ったら」
「え?」


と、私が聞き返すと先生の長い手が伸びてきた。殴られる?と構えたがその大きな手は私の頭に置かれ、ぐしゃりと頭を掴まれて先生のほうを向かされる。近い。顔が。目が合ってる。先生と。


「休み明けのテストで平均90超えたら、そっから先の話も許可してやるよ」


国見先生はそのように言うと、私の頭をぐしゃぐしゃっとかき回して手を離した。

そんなのひどい。今のはひどい。強迫だ。好きな人にこんな事をされて頑張らない女の子は居ないに決まってる。

先生がどんな顔をしているのか見たくて見たくて仕方が無かったけど、それよりも自分の顔を見られるのが恐ろしくて、顔を上げる事が出来やしない。
しばらくは国見先生にぐしゃぐしゃにされた髪型のまま顔を隠して、その日の勉強を続けたのだった。

翻弄されたい打算・後